連れた魚
帝国皇帝の私室は、静かだった。
戦場の地図も、豪奢な装飾もない。あるのは簡素な机と、夜景を映す大きな窓だけだ。
その中央に、目を伏せ、両手を胸の前でクロスさせて、両膝を床につけたエリスがいた。
「――顔を上げよ」
低く、落ち着いた声。
威圧はない。だが、拒絶も許されない声音だった。
エリスは、ゆっくりと顔を上げる。
帝国皇帝アシュレイン・ザフィール――灰の皇帝とも言われる人が、机を挟んで椅子に座っている。
年の頃は二十代後半。整った顔立ちに、鋭い金の瞳。玉座にふさわしい威厳を備えながらも、その視線は冷静で、感情の揺れをほとんど見せなかった。
「王国からの亡命者、だったな」
「……はい」
エリスは、アシュレインの目を見て肯定した。
「優れた治療魔法。回復速度、持続力、再生率。どれを取っても規格外だ」
アシュレインは淡々と告げる。
「我が帝国にとって、有用であることは確かだ」
有用。
その言葉に、頬に熱を持つのを感じる。
そうだ、自分にはチート級の治療魔法がある。それなのに、なぜ王国では注目されないのか。それは――
「だが」
エリスの思考を断つように、皇帝の鋭い視線が彼女を捉える。
「――なぜ、王国を捨てた?」
一瞬、空気が張り詰めた。
エリスは、息を詰める。
王国を捨てたりはしていない。むしろ、救わなければならないのだ。
このままでは、王国の未来が変わってしまう。なぜなら――
「――彼女がいるからです」
静かな、はっきりとした答えだった。
「彼女?」
「シシリア・ミラ・リュミエラです」
名前を口にした瞬間、胸の奥が、きり、と痛んだ。
アシュレインは、興味深そうに顎に手を添える。
「王国の特級魔法薬術師か。随分と高名な名を挙げる」
「王国を、捨てたりはしていません。救いたいのです。私の見た未来では――」
エリスは言葉を切った。これ以上、話していいのだろうか、と不安になった。
しかし、アシュレインが穏やかに「話せ」と命じたので、エリスも続けることにした。
「私が知る未来では、確かに王国の魔導庁は禁忌薬を作っていました。けれど、完成しません。邪魔が入って静かに計画が頓挫するのです。でも――」
エリスは、一度言葉を切って、深呼吸した。
「――でも、現実には研究棟で爆発事故がありました。多くの人が傷つき、命を落とした人も……。シシリア・ミラ・リュミエラは、私の見た未来に出てきませんが、現実では確かに存在していて、彼女の周りでおかしなことばかり起きています」
早口になるエリスの話を、一度アシュレインが切る。
「そのことと、王国を救うこと、お前がここにきたことと。どのように繋がっているのだ」
エリスは、思考を整理して伝えようと努力した。
シシリアがいるから、事故が起きたこと。本来なら事故は起きず、死傷者も出なかったこと。禁忌薬は完成せず、帝国は有利に戦いを進めること。
「――それだと、王国は救われぬが?」
「陛下は、王国の辺境を制圧しますが、そこで運命の女性に出会うのです。その女性を差し出すことで、王国は帝国の侵攻から逃れるというのが、本来のストーリー……未来のはずです」
ストーリーを完成させなければならない。そのためには、ストーリーを狂わせている要素を、正しい位置に戻して、自分はまた王国で攻略対象の中に戻る。
帝国は侵攻を進めるが、治療魔法が得意な自分が戻れば、被害は辺境だけに留まるのだ。
そうしている間に、アシュレインが運命の人に会えば良い。エリスは辺境での活躍を讃えられ、ユリアスと結婚する。
エリスの淡い緑色の瞳には、恍惚とした輝きが浮かんでいた。
「だから、私は、未来をあるべき姿に戻すため……陛下が確かに運命の女性に出会えるために、ここに来ました」
それは、皇帝に対して、あまりにも非礼な物言いだった。いつもの彼であれば、一刀のもとに切り伏していただろう。
しかし、エリスの異常なまでに輝く双眸を見て、気が変わった。
「――それで? お前は、シシリア・ミラ・リュミエラをどうしたい?」
アシュレインは、口の端を吊り上げた。
「消したいか?」
消す、という単語に、エリスは言葉に詰まる。
「それは、随分と短絡的だ」
アシュレインは、くつくつと笑った。
金の瞳が、エリスを射抜く。
「面白い話ではあったが、俺は今王国が欲しい。辺境だけではなく、だ。それを、その“運命の人”とやらのために諦める? お前の話を信じるには、少々理由が足りないな」
エリスは唇を噛む。何か、ないか。未来を守るために、この皇帝の協力を得るための、何か――
あっ、とエリスは顔を上げた。
冷たい金の双眸を見返す。
「陛下は、お一人で王国の辺境の村に視察に行かれたことがありますよね?」
アシュレインの表情は変わらないが、瞳の金が深くなった気がした。
空気が重くなった感じがしたが、エリスは構わず続ける。
「そこに、偶然来ていた女性と会ったのではないですか? メガネをかけた女性です。陛下は、その女性のお顔はあまり覚えていらっしゃいませんが、その瞳の中に金冠を見た……」
ファンブックで語られる裏設定だ。文字だけで、女性の名前も出てこない。確か、女性自身に認識阻害がかけられていたから、皇帝は女性を見つけられなかったのだ。
「それが“運命の女性”です」
アシュレインの金の瞳が、一瞬煌めいたように見えた。
彼は、静かに椅子から立ち上がり、窓へ向かう。
背を向けたまま、しばらくの沈黙。
まるで、空気が止まってしまったかのようだ。
エリスは、黙って皇帝の反応を待った。
どのくらいの時間が経ったのか、息を吸った音が聞こえた。
「――お前の話、信じよう」
アシュレインは、ゆっくりと振り返ってエリスを見据えた。
「お前を、聖女と呼ぶことにしよう。状況次第で、お前の筋書きに乗ってやろう。その、特級魔法薬術師の件も、任せてもらおう」
夜景を背にした皇帝は、翌日王国への本格的な侵攻を宣言した。




