魔法薬学科長
何かが起きる、その瞬間――空気が、断ち切られた。
「――そこまでだ」
低く、よく通る声が、張り詰めた研究室に落ちる。
その瞬間、床に浮かびかけていた魔法陣が、霧が引くように消えた。
扉の前に立っていたのは、黒地に銀糸の刺繍のある、特級魔法薬術師のローブをまとった男性。
年若くはない。だが、老いも感じさせない。
無駄のない立ち姿と、抑制された魔力の圧が、彼が何者かを雄弁に語っている。
「魔法薬学科長、セルジュ・アルファト・ヴァルノワだ」
名乗りは簡潔だった。
だが、その名を聞いた瞬間、空気が変わる。
クレスタの表情が、わずかに強張った。
「ここは、魔導院の学科棟だ。部外者だな」
セルジュは一歩、研究室に踏み入る。
床に漂っていた魔力の残渣が霧散する。
「私は、魔導庁魔導構築科理論研究部門の部門長、クレスタです。シシリア・ミラ・リュミエラ特級魔法薬術師に、魔導庁の研究部門への協力要請が出ております」
「学科長として確認する。――魔導庁は、いつから本院の講師を、許可なく連行する権限を得た?」
「国家安全保障上の要請です」
クレスタは即座に答えた。
「緊急性が高く――」
「それは、王命か?」
遮るように、セルジュが問う。
一瞬の沈黙。
「……内部決定です」
その言葉に、セルジュは眉一つ動かさず、頷いた。
「ならば、却下だ」
淡々とした宣告だった。
「魔導院は、王国の教育・研究機関であり、魔導庁の下部組織ではない。まして、特級魔法薬術師へに要請は、王命、内務省承認、そして本院長の同意が必要だ。そも後見人からの報告がない」
セルジュは、シシリアに一度だけ視線を向ける。
それは確認であり、同時に合図だった。
「本件について、魔導院として協力要請は受けていない。――よって、退去を命じる」
「……我々は、任務を――」
「任務を続行すれば、越権行為として正式に記録する」
セルジュの声は低いが、はっきりとしていた。
「内務庁治安維持部門で聴取を受けていただく」
クレスタの口元が、僅かに歪む。
だが、次の瞬間、彼は小さく息を吐いた。
「……承知しました」
外套を翻し、振り返る。
「本日は、引き下がりましょう」
男たちが、次々と研究室を後にする。
扉が閉まり、足音が遠ざかるまで、誰も動かなかった。
完全に気配が消えた後、セルジュがふっと肩の力を抜いた。
研究室の張り詰めていた空気が、一気に緩んだ。
「……やれやれ」
軽く頭を掻く。
「相変わらず、手続きというものを軽視する連中だ」
先ほどまでの厳格な学科長の姿はどこにもなく、いつもの“ものぐさなおじさま”に戻っていることに、シシリアはクスリと笑った。
「学科長……助かりました」
防護障壁を解除してお礼を言う。
「当然だ」
セルジュは、穏やかに微笑む。
「君は魔導院の講師であり、我々の同僚だ。守るのは、私の仕事でもある。他の講師は、巻き込まないためにも研究室に籠ってもらった。……まあ、こいつらが足を突っ込むのは、想定内ということで」
まったく、とセルジュは深いため息をついたが、それは失望ではなく、呆れのため息だった。
その言葉に、アーシェルの表情が、目に見えて緩む。
だが、すぐに険しさが戻った。
「……これで終わりとは思えません」
「だろうな」
セルジュは頷く。
「俺はこのまま院長に報告に行く。君も、今日は帰りなさい」
シシリアが頷こうとした、その横で。
「いやあ、奴ら、思ったより諦めが早かったよね」
カジェルが、壁にもたれたまま笑った。
「クレスタ、だったか? あいつは蛇のような男とみた。あれで引き下がるとは、俺には思えないけどね」
「想定内だ」
セルジュは落ち着いている。
「どういうことですか? 奴らは引き下がらない。だとしたら、次にやってくるのは移動中でしょう? それも、次は強引に。リュミエラ先生がこのまま帰宅するのは危ないのでは……」
アーシェルが、シシリアを心配そうに見やる。
「ここにも過保護が……」
呆れた目でアーシェルを見るセルジュ。
「ロウゲンはリュミエラと素材採集と称した魔物の殲滅をしてたんじゃないのか? 魔物と対峙できるなら、奴らにだって――」
「待ってください、学科長。私は殲滅なんてしていませんよ?」
シシリアは、心底不思議そうに首を傾ける。
本人は本気で否定しているのだから、なおさら問題だ。
これには、アーシェルもセルジュと一緒に呆れ顔になり、カディルがカラカラと笑った。
「いいねぇ、シシリア嬢は! やっぱりアルナスルに来なよ!」
「誰がそんな話をしている?」
アーシェルの黒髪が逆立ち、魔力が漏れる。
「私闘は退学だ」
セルジュの冷静な一言に、アーシェルの魔力が瞬時に引っ込み、カディルが、退学は殺される……と顔色を変えた。
シシリアだけが、話についていけずに不思議そうな表情のままだった。
「――あの、話を戻すけれど」
ついていけたところまで、話を戻すことにしたシシリアだった。
「私はこれで帰ります。侯爵家の馬車は、兄が用意したものです。何かがあっても、たぶんなんとかなります」
内容に全く情報がないことを、自信たっぷりに言った。
セルジュは限界まで疲れたような顔で返答する。
「そうすることだ。あの次期侯爵殿が、侯爵家の馬車で帰れ、とか何とか言ったんだろう? それなら言う通りにするのが一番正しい」
はい、と言うシシリアに頷き、セルジュはその場を離れる。
魔導院長に報告に行くのだろう。
「ありがとうございました。また明日」
シシリアがセルジュに挨拶をすると、片手を上げるだけの返事をして歩いて行った。




