変化する日常
魔導院の空気が、少しだけ変わったのは、その翌日だった。
講義室に入った瞬間、シシリアはそれを感じた。
ざわめきが、いつもより早く収まる。視線が、一瞬遅れて彼女に集まり、そして――逸らされる。
(……気のせい、かしら)
そう思おうとして、思えなかった。
理由は単純だ。昨日までとは、明らかに違う。
前列に座る院生たちは、いつもより背筋が伸びている。
後列の数名は、ひそひそと小声で話しながら、何度もこちらを窺っていた。
敵意ではない。だが、好意とも違う。
評価する目。量る目。
シシリアは、胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚を覚えた。
(……私、何かした?)
講義そのものは、問題なく進んだ。
質問も出たし、実習も滞りなく終わった。
それなのに、終了の鐘が鳴った途端、院生たちはいつもより素早く教室を後にした。
講義室の片付けをして、もやもやした気持ちで研究室に戻ると、扉の前でニナが待っていた。
一緒に研究室に入ると、ニナが静かに口を開いた。
「……今朝、研究棟の調査官が来ていたわ」
「え?」
ニナは、声を低くして続ける。
「『安全確認』だって言ってたわ」
さらに潜められる声。
「でも……研究内容そのものを探ってる感じだった」
シシリアは、昨日のルーファスの言葉を思い出した。
――まず、この話題に触れるのは、私といる時だけにしなさい。
「私のところにも、来るかしら」
「来ると思う」
ニナは、即答した。
「というか……もう向かっているかもね」
その言葉を裏付けるように、扉をノックする音が聞こえた。
返事をする間もなく扉が開く。
入ってきたのは、見知らぬ男性だった。
「失礼する。リュミエラ講師」
魔導院の徽章ではない。だが、王国の公的機関で使われる外套を着ている。
「王国監査部より参りました。いくつか、確認をさせていただきたいのです」
丁寧な言葉遣いとは裏腹に、随分と失礼で高圧的な態度に、シシリアは不快感を覚えた。
ニナが、男性から見えない位置で、そっとシシリアの手を握った。
シシリアは、男性への不快感を表に出さない代わりに、にこりと微笑んで言った。
「王国の監査部の方、ということは、研究棟の調査をなさっているのですか?」
「その通りです。今回は、事故当時の関係者の動きを確認しております」
男性は、表情ひとつ変えずに返答した。
「それは、ご苦労様です。わたくしも、あの事故が早く解明されればと願っております。わかる範囲でお答えいたします」
シシリアは左手を胸に当て、痛ましい表情をしてみた。
男性は、なおも反応なし。
「助かります。あなたは、現場に居合わせた講師の一人です。ぜひ、ご協力を」
言葉は丁寧。態度も穏やか。
なのに、人と会話をしている感じがしない。
シシリアは、深く息を吸った。
――大丈夫。言うべきことは、すでに整理してある。
「事故当日は――」
説明を終えた頃には、喉が少し乾いていた。
男は、何度も頷き、書き留め、そして最後にこう言った。
「念のため、今後しばらくは、研究内容の提出を定期的にお願いすることになります」
「……それは、義務ですか?」
「安全確保のための、協力要請です」
断れない言い方だった。
男性が去った後、シシリアは不快感を隠しもせずにニナを振り返った。
「――ニナさんのところに来たのも、あんな感じだったの?」
「そうよ。王国の調査官だか何だか知らないけど、感情が削げ落ちた感じだったわ。礼儀もなってないしね」
「本当に、ノックの返事も待たない、名乗りもしない、何なのかしらね」
言いながら、シシリアは別のことを考える。
ここにいる講師は、全員一級以上の魔法薬術師だ。
王国の調査官が、魔法薬術師に会いに来る。
彼らの行動を監視する。
それは、まるで――
(――魔法薬術師が関連しているみたいじゃない)
*
午後、研究室にアーシェルが顔を出した。
シシリアの様子を見るなり、彼の表情が一変する。
「……誰が来た?」
「どうして、わかるの?」
「わかるよ」
アーシェルの灰の瞳が揺れた。
「空気が、汚れてる」
彼は何も聞かず、シシリアの背後に立つと、外套を彼女の肩にかけた。
「今日は、早く帰ろう」
優しく微笑んで、後ろからシシリアの顔を覗き込む。
「でも――」
アーシェルは、構わずドアノブに手をかける。
「今日は。ね?」
その声には、柔らかさと同時に、拒否を許さない硬さがあった。
その日の夕刻。
ユリアスからも、短い伝言が届いた。
『魔導庁が、君の研究に関心を持ち始めている。不用意な発言は避けてくれ。迎えを出す』
シシリアは、窓の外に沈みゆく夕日を見つめた。
自分は、魔力や魔素に関する研究はしていない。では、別の何かが目に止まってしまったのか。
(――それとも、意図的な、何か?)
理由は、わからない。
けれど、それは善意と正義の仮面を被って姿を見せた。
タチが悪いわ、とシシリアはユリアスの手紙を見つめ続けた。
*
遠く離れた場所。
エリスは、報告を受けていた。
「監査は、無事に入ったようですね」
あの男性が、静かに言う。
「ええ」
エリスは、頷いた。
「危険な芽は、早めに摘まないとね」
それが、誰かを傷つけることになるとしても。
王国の――正しい未来のためならば。
エリスを見て、男性は口の端だけでニヤリと笑った。




