彼女の正義
夕暮れの魔導院は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。
石畳に長い影が落ち、風が吹くたび、木々の葉が擦れる音だけが響く。
エリスは一人で、人気のない回廊を歩いていた。
(おかしい……)
研究棟の事故。
原因不明。正式発表はあったものの、その後の調査は進まず、関係機関が研究棟に入ってくることもない。
それなのに――事故の原因であるはずのシシリアだけが、何事もなかったように講師として立ち続けているように、エリスには見えた。
(おかしいよ……)
ユリアスは、彼女を庇うように振る舞い。
アーシェルは、異様なほど彼女に近く。
カディルは、あからさまに興味を示して。
ニナは、何か知っているような目で黙っている。
(……まるで、攻略対象が全員、ヒロインじゃなくて“あの人”を見てるみたい)
ぎゅっと、拳を握る。
――その時。
「おや、こんな時間に一人とは」
背後から、穏やかな男の声がした。
びくりとして振り返ると、そこに立っていたのは、見慣れない男性だった。
魔導院の職員服ではない。でも、違和感はない。それなのに、どこか空気が薄い。
「失礼。驚かせるつもりはなかったのですが」
男性は名乗らず、軽く会釈をした。
「……私に、何の用ですか?」
エリスは、警戒を隠しきれない声で問う。
男性は、にこりと笑った。
「いえ。少し、お話を聞いてみたくて。ここ、魔導院で起きた“事故”について、どう思われているのか」
事故、という言葉に、わざとらしく含みを持たせる。
(やっぱり……)
エリスの中で、点と点が繋がり始めた。
「原因不明、というのは妙だと思いませんか?」
男性は、エリスに問いかける。
「優秀な魔法薬術師が揃う魔導院で、爆発事故。爆発なら、他の学科棟でも日常的に起こっていますよね。講師の皆様は、大層研究熱心ですから。たとえば、魔法薬学棟なんかは、危険な素材でいっぱいです。なのに、研究棟だけが――」
エリスは、息を呑んだ。
(研究棟……魔法薬……)
脳裏に浮かぶのは、金色の魔力に包まれたシシリアの姿。
「……誰かが、無理な研究をしていた……とか?」
思わず、口を滑らせる。
「さあ? 私には、なんとも」
男は、わずかに目を細めた。
「ただ……」
男は続ける。
「事故の後、王国は随分と慌ただしい。まるで、“触れてはいけない何か”があるかのように」
(触れてはいけない……)
エリスの中で、ある考えが、はっきりと形を持ち始める。
(もし……もし、あの人が)
魔法薬学科の若き天才講師。
特級魔法薬術師である彼女に、扱えない素材はない。
なのに、誰も彼女を疑わない。
(もし、シシリアが――)
「あなたは、どう思いますか?」
男の声が、静かに問いかける。
「この事故が、偶然だと?」
エリスは、唇を噛んだ。
偶然なはずがない。
だって――
(あの人が来てから、全部おかしくなった)
物語の中心が、ずれている。
本来なら、自分が立つはずだった場所に、彼女がいる。
(……私が、止めなきゃ)
「……もし、事故の原因が隠されているなら」
エリスは、ゆっくりと顔を上げた。
「それを暴くのは、正しいことですよね?」
男は、微笑んだまま、何も答えない。
答えないことが、肯定に思えた。
(やっぱり)
エリスの胸に、奇妙な高揚感が広がる。
(シシリアは、元凶なんだ)
悪意ではない。
ただ、“危険な存在”なのだ。
(だから、皆が振り回される)
守られるべきは、王国。
救われるべきは、人々。
そして――
(未来を守れるのは、真実を知っている私だけ――)
「……協力します」
エリスは、はっきりと言った。
「王国のために。正しい未来のために」
男は、満足そうに一礼した。
「心強いですね。――では、また」
気配は、風のように消えた。
一人残されたエリスは、胸に手を当てる。
胸がドキドキしている。
(大丈夫。私が、正しく導けばいい)
エリスの表情は、先ほどまでと違い、確信に満ちていた。
自分が転生した意味。
魔導院に入ってすぐ、記憶を取り戻した意味。
最初はわからなかったが、今ならわかる。
物語が、自分を呼んだのだ。シシリアという異物を排除するために。
それに気づかなかったから、事故は起こってしまった。
しかし、ここにきて自分に役割を教えてくれる人物が現れた。
これがシナリオ補正か。
間違えれば、自然と修正されるよう、動くはずだ。
――大丈夫。今度こそ、間違えない……




