静かな違和感
アーシェルが迫る
研究棟事故からしばらく経った頃、夏の熱気が立ち消えて、夕方の風が少し肌に冷たく感じるようになってきた。
再建された学科棟は活気に満ち、講義も研究も、以前と変わらず進んでいる。
――少なくとも、そう“見える“。
魔法薬学棟の図書室で、シシリアは書架の前に立ち尽くしていた。
古い研究報告書を手に取り、ページをめくる指が、途中で止まる。
(……ない)
もう一度、背表紙を確認する。
間違いない。間違いなく、ここにあるはずの資料だった。
魔力反応の異常増幅に関する、十年以上前の共同研究。
禁忌指定こそされていないが、危険性が高く、続報が途絶えたことで有名なものだ。
シシリアが春にここを訪れた時、何て珍しいものがあるのだろうと読み耽ってしまい、おかげで講義の準備を朝までやっていた経験……のうちの一回の原因。なので、よく覚えている。
「……おかしいな」
呟いてから、シシリアははっとして手で口元を押さえた。
周囲を見渡す。
資料室には、他に誰もいない。
それでも、胸の奥がざわついた。
(移動? それとも……)
事故後、研究棟関連の資料は、王国の管理下に置かれたと聞いている。
だが、ここは魔法薬学棟の資料室だ。
研究棟専属ではない、一般閲覧可能な古い文献まで、持っていく理由があるだろうか。
(なくなったのは、これだけ?)
シシリアは、関連しそうな本棚を見て回った。
魔導院着任当初、この図書室の資料が興味深いものばかりで、シシリアは図書室に入り浸っていた。今でも、よく資料を読みに来る。だから、どこに何があるのかは把握している。
この図書室は管理人が常在していないので、今回はそれが大いに役に立った。
人間の魔力増幅、魔法薬による魔素異常、魔力過多による放出魔力への影響……どれも古い研究資料だし、一つ一つは何ら問題のないものだ。けれど、なくなっている。しかも、なくなったことがわからないように、少しずつ本をずらしたり、入れ替えたりしている。
シシリアが気づいていないものも、あるかもしれない。それでも、これだけの資料がなくなっているのは、異常だ。
シシリアは、本棚の前で考え込んだ。
一体、何が起こっているのか。誰かが資料を持ち出したのは明らかだ。
誰が? 何のために? この資料の共通点は――?
「……シシリア?」
背後から声がして、肩が小さく跳ねた。
振り返ると、ニナが両腕に資料を抱えて立っていた。
「あ、ニナさん。ちょうどよかった」
「その顔、よくないわね。何を見つけたの?」
シシリアは、言葉を選びながら書架を指した。
「ここにあった研究報告、消えてるの」
「……どれ?」
タイトルを告げると、ニナの表情が、ほんの一瞬だけ固まった。
だが、すぐにいつもの軽い笑みに戻る。
「へえ。整理の時に移動したんじゃない?」
「そう思ったんだけど……事故前までは、確実にあったのよ。私、読んだもの」
シシリアは、別の資料を取り出す。
魔力残滓の性質を記した観測記録だ。
「それに、これ。研究棟事故現場で検出された魔力波形、理論値と合わないの」
ニナは無言でページを覗き込み、数秒、視線を走らせた。
「……ねえ、シシリア。これ以上、深入りしないで」
「ニナさん?」
「資料を読んだことも、言っちゃだめ」
ニナにしては、硬い声だった。
「事故はね、“変”よ。でもね、“変”だって気づいた人間が、次にどうなるか……」
言葉を切り、ニナは周囲を見回した。
誰もいないことを確かめてから、声を落とす。
「――消えるの」
冗談めかした口調だったが、目は笑っていなかった。
シシリアの背筋に、冷たいものが走る。
「……それって――」
「名前を出すのもやめときましょ」
ニナは、シシリアの肩に手を置いた。
「あなたは、もう十分目立ってる。再建の件も、殿下の噂も」
「……」
「今は、“気づいた”だけでやめなさい。証拠を集めるのは、あなたの役目じゃないでしょう?」
その言葉に、シシリアはニナの黒い瞳をじっと見返した。
シシリアよりも十歳ほど年上のニナは、彼女よりもずっと社会を生き抜いてきている。
これは、助言であり――忠告だ。
「……そうよね。私は講師だものね」
シシリアは笑った。
ニナの目も、穏やかになった。
資料室を出るとき、シシリアは無意識に、研究棟の方向を見た。
警備兵に囲まれた、黒く沈黙する建物。
その違和感は、まだ小さい。
けれど確かに、芽を出していた。
*
魔法薬学棟の実習室は、夕方になると人が減る。
窓から射し込む光が長く伸び、薬草の影が床に揺れていた。
シシリアは、薬草の手入れをしながら、研究棟のことを考えていた。
事故から一月が経っても、研究棟はあのままだ。
事故直後、研究棟内で感じた違和感。
事故の後、図書室で感じた違和感。
いまだ判明しない事故原因。
――はっきりしないことばかりで、どうにも落ち着かない。
頭の中で思考し続けながら、右手は勝手に薬草の剪定を続けていた。
「――シシィ、最近、考えてばっかりだよね」
突然声をかけられて、シシリアの手がぴたりと止まった。
気がつくと、アーシェルがシシリアの顔を覗き込んでいた。
その近さに驚いて、シシリアは声も出せずに固まった。
アーシェルの外見はとても整っているのよね、とシシリアは今更思った。灰色の瞳は冷たそうに見えるのに、一度目が合うと蕩けるような熱を持つところとか。いつも穏やかに話すのに、研究の話になると少し早口になるところとか。少し硬めの黒髪は、光を浴びるとまるで海の底のように鈍く輝くところとか。背が高いので、シシリアと話す時は、少し猫背気味になるところとか。
この公爵家の次男に婚約者がいないのが不思議なくらいだと、シシリアは心底思った。
「シシィ?」
疑問形で名前を呼ばれて、また考えに沈んでいたシシリアは、慌てて返事をした。
「え、え? なんだっけ!?」
鼻先が触れてしまうのではないかと思うほどの距離に、シシリアは慌てて後ろに下がろうとした。
アーシェルは、そんなシシリアの右手を掴んで止め、もう片方の手は彼女の顎に添える。
「……っ エル! 近い……っ」
シシリアの抗議を気にした様子もなく、アーシェルの顔が徐々に近づいてくる。
(これ、顔面凶器のやつ――っ!)
アーシェルの整った顔を間近で見ることに耐えられず、シシリアは両目をぎゅっと瞑った。
唇に、吐息を感じる。
静寂が、ものすごく長く感じた。
「――ハサミ、危ないよ?」
時を戻したのは、アーシェルの声。
シシリアがそっと片目を開けると、アーシェルが掴んだ彼女の右手を持ち上げ、視線でハサミを示した。
「持ったまま慌てると、怪我するよ?」
シシリアが握ったハサミを、優しく奪い取って離れた。
(――あ、そういうこと?)
シシリアは瞬きを二、三回すると、息を吐いた。どうやら息を止めていたらしい。どうりで、少し苦しいはずだ。
「考え事しながら剪定するのも、危ない」
アーシェルは、「めっ」とシシリアを叱りつける。
少しむっとして、シシリアは言い返した。
「それなら、先にそう言ってよ」
「言う前に、シシィが慌てて動くから。危ないと思ったんだよ」
言い返された。
腕を組んで、むっとした顔をしたシシリアの頭を、アーシェルが撫でる。
「シシィはすぐ考え込むからね。それはそれで可愛いけど、考えすぎて周りが見えなくならないようにね」
アーシェルは、また、シシリアの顔を覗き込んだ。
「困ったことがあるなら、相談に乗るからね」
穏やかな声と優しい視線に、シシリアも安心して、ふんわりと微笑んだ。
「うん。いつもありがとう、エル」
そう言って、薬草の手入れに戻っていく。
シシリアの後ろ姿を、アーシェルが静かに見守る。
彼の口元には、歪んだ笑みが浮かんでいた。
*
夜更けの王宮。
王太子の執務室の灯りは、まだ落ちていなかった。
「……で、どう思う?」
ユリアスは、机に肘をつき、指先で書類の端を軽く叩いた。
向かいに立つルーファスは、壁際に凭れながら腕を組んでいる。
「魔導庁が“何もしていない”ように見せている時点で、黒に近いグレーですね」
即答だった。
「研究棟事故後、研究の停止を宣言。にもかかわらず、人員の整理記録が曖昧。研究費の一部が、別名目で流れている」
「やはりか」
「はい。進んでいないのではなく、“表に出せない形で進めている”」
ユリアスは、目を伏せた。
わかっていた答えだ。
「禁忌薬か」
「おそらく。しかも、急いでいますね」
ルーファスは、一枚の紙を差し出した。
地方都市の掲示情報をまとめたものだ。
「二級以上の魔法薬術師を対象にした、匿名の研究募集が増えています。条件は曖昧、報酬は高額」
「……名前を出さないのは、魔導庁の常套手段だな」
「ええ。拒否されても、次に回せる。足がつかない」
ユリアスは、しばらく沈黙した後、低く言った。
「……シシィにも、声がかかるだろうな」
その言葉に、ルーファスの視線が鋭くなる。
「そんなこと、私がさせると思いますか? ……まあ、似たようなことはありましたね」
「似たようなこと、とは?」
ルーファスは、口の端を少し上げて言った。
「シシィを一時期保護してもらった一級魔法薬術師の元には、話があったようですよ。もちろん、彼はそんな話には乗りませんが」
「保護」とは、婚約を白紙にしてから魔導院講師になるまでの間のことだろう、と思うと、ユリアスは少しだけ居心地が悪くなった。
ルーファスは、それには構わず続ける。
「彼の話だと、住み込みで魔力に関する研究をするのだとか。研究費用や衣食住に関わる費用は依頼人持ち。報酬は成功している商人並みが毎月出るらしい。満足のいく結果が得られたら、十年は遊んで暮らせる額が追加される」
「それは、やりすぎではないか?」
「興味のある研究が楽にできるのなら、そこに飛びつく者もいるのでしょう」
ユリアスはため息をついた。
そこまで急いで研究する禁忌薬とは、何なのか。それは、国内に向けられたものなのか、それとも国外の何かが目的なのか。
「――情報が足りないな。研究棟の関係者も、生き残りは何も知らない。携わっていたのは一部なのだろうな。しかも、研究棟からは、何も出なかった」
「出さなかった、の間違いでしょう? 彼らは狡猾ですね」
「そうだな……ここに来て、帝国の動きもおかしい。戦争の推進派の動きだろうか」
ユリアスの言葉に、ルーファスも反応する。
「帝国を潰すべきと、密かに囁いている連中がいるようですね。どうも、貴族の派閥が国王派と戦争派に分かれているようです」
ユリアスは頷いた。
「関連していると考えるのが、妥当だろう。――頼めるだろうか?」
「頼まれましょう。――ところで」
ルーファスが突然雰囲気を変え、張っていた空気が一気に凍りついた。
「あの言動は、いかがかと思いますが」
まるで凍結魔法でもかけられたかのように、ユリアスの顔は青白く、凍りついた。
ルーファスは、爽やかな笑顔で続ける。
「まあ、妹は殿下の気持ちをこれっぽっちも理解していませんでしたがね」
やっぱりか、とユリアスは崩れ落ちた。
薄々は感じていた。しかし「これっぽっちも」だと? どう言うことだ? 両手を取って、至近距離で「きれいだ」は、どんな女性だって何か感じるだろう?
「しかも? 妹の機転で、謝る機会を得たとか?」
(あの時のシシィが可愛すぎて、一瞬言葉に詰まったんだよな……)
「それを利用して妹を攫って、挙句に王妃殿下とお茶会でしたか?」
(やばい、バレてる――逃げるか? どうやって?)
「殿下、楽しかったですか?」
ユリアスの肩を、ルーファスが掴んだ。
逃げ遅れたユリアスは、朝までルーファスの話を聞いたのだった。




