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シシリア・エレールの誰も気づかない疾走

導入編

シシリアは、まだ本性を現していません。

 婚約白紙撤回の翌週、シシリアはキッパリと家族へ告げた。

「魔導院へ進学したいのです!」

 リュミエラ侯爵は沈黙し、目を閉じた。眉間に皺ををせて天を仰ぐと、驚くほどすんなりと頷いた。

 いや、正確には──

「……ああ、そうだな。シシィ、君は“周囲に悟られぬ範囲で”という約束を、十年も守り抜いた。そして、あの婚約を受けてくれていた……。これからは、好きに生きなさい」

 父のその言葉に、シシリアは歓喜の舞を踊った。本当に踊った。

 藤色のドレスを翻し、くるりくるりと、それは見事な舞だった。

 やっふーっ!と謎の歓声を上げたシシリアは、父の手を取ってお礼を言った後、颯爽と部屋から出て行った。

 シシリアの婚約は、王国のバランスのために避けられなかった。そこでリュミエラ侯爵は、周囲に悟られなければ、という条件付きで、シシリアの趣味を許可したのだった。それは、彼女が目指していたところとは程遠いものだったが。――そして、見事シシリアは、この抑圧された年月を乗り越えた。リュミエラ侯爵は、娘を尊敬するこそすれ、その未来を否定することなど、する気もなかった。

 足取りも軽く退室して行った娘を、リュミエラ侯爵は微笑ましく見送ったのだった。


 こうして目立たずに貴族院を卒業した彼女は、一般人シシリア・エレールとして魔導院へ“正式に”入学した。

 伊達メガネ、きっちり結い上げた髪、くすんだ色のドレス──もう必要がない。シシリアは、シシリアのままで良いのだ。

 鏡の前に立つのは、透き通るような白い肌、ライラック色の瞳、柔らかく流れる髪をもつ美少女。

「あーすっきりしたわ! このメガネかけてると、動きにくかったのよね」


 王太子の元婚約者シシリア・ミラ・リュミエラの噂は、貴族院卒業とともにふつりと途切れた。


 *


 魔導院――王国の魔術教育・研究の最高峰。

 そこは、魔導理論科、応用魔法科、魔法薬学科、魔導技術科の教育部門と、貴族院、魔導院、王国魔導庁が共同で研究する共同研究センターから成る。

 受け入れ基準は年齢性別身分問わず、一定の専門知識のみ。ただし、その門戸は狭く、一生合格できない者もいるという。


 シシリアも通っていた貴族院での教育課程には、もちろん魔法技術や魔法力学といった一般教養も含まれる。

 しかし、彼女が興味のあるのは魔法薬学だ。貴族院では触れもしない。

 そこで彼女がやったこと――王太子妃教育は詰め込みで進めた。詰め込んだ結果空いた時間は全て魔法薬学に注ぎ込んでいた。貴族院に通いながら、である。

 その結果――


「エレール嬢、三級魔法薬術師試験、首席合格だそうだ」

「え、入学してまだ三ヶ月だけど!?」

 魔導院は、今期入学した謎の学院生にざわついた。


 もちろんシシリアは、魔法薬の研究も並行して進めている。魔法薬術師は、その資格により扱える素材が限られる。見習いから五級、四級、三級までは一般動植物限定、二級と一級は指定付きだがほとんどの魔法動植物が扱える。シシリアはまだ一般動植物しか扱えないが、研究は彼女の活力になっていた。

 睡眠時間は、ちょっと減った。でも気にしない。


 *


 秋。


 魔導院の学術誌に、一つの論文が載った。


 ──『薬効増幅魔術式の再構築による安定化と高速定着法』


 著者名:S.E.


 三級魔法薬術師が発表したというその論文は、提出したシシリア以外誰も著者の正体を知らなかった。

「は……これ、何……!? そんなことが!? いや、これ、普通に革命では……?」

 その論文を震える手で読んでいたのが、魔導院二年生のアーシェル・ヴァルド・ロウゲンだった。

 彼の美しく整った眉が跳ね上がり、薄灰色の瞳が大きく揺れる。空いている左手は、彼の青みがかった黒髪をぐしゃぐしゃとかき回している。

「アーシェル、それ解説してくれよ。俺理解できなくて……自信無くすわぁ」

「いや、これは……これまで実現不可能だと思われてきた薬効増幅魔法が、この循環の術式を発展させつつ魔導式を組み替え、時空と空間魔法の因果関係を元に魔素再現性理論を活用しながら――」

「……解説してと言った俺が悪かったよ……全然わからない」

 友人は落ち込んでいるが、アーシェルはそれどころではない。

 これほど美しいと感じた結論は、アーシェルには覚えがなかった。

 素晴らしい感動だった。いつもは冷たく見える薄灰色の目には熱がこもり、まるでその論文に恋をしているかのようにも見える。

 アーシェルは、友人にドン引きされながらその論文を読み耽った


 *

 

 冬。


 シシリアは充実していた。

 魔導院の勉強をする傍らで研究を進め、論文を書き、研究協力をする。魔法薬の研究に必要な魔導を学び、魔法のコントロール技術も磨いていく。全ては魔法薬の研究のためだ。

 眩暈がするほどの忙しさだが、シシリアの瞳は輝いていた。


 そして春。


「シシリア・エレール嬢。魔導院の修了とともに、二級魔法薬術師の認定を授与する」


 シシリアは、魔導院会議室に呼び出され、証書を受け取った。

 カリキュラムも研究成果もすべてクリア。二級魔法薬術師は、魔導院魔法薬学科の修了が必須である。

 魔導院の修了証書を手にしたシシリアは、王国魔導庁長官の前に進み出る。彼の前に片膝をつき、左手を差し出した。

 シシリアの左手の甲には、藍色の魔法紋がある。これは、魔導庁の限られた者だけが付与できる魔法で、魔法薬術師を縛っている。

 魔法薬術師が扱う素材は、一般動植物と魔法動植物に大分される。一般動植物は魔力のない動植物で、触れることは誰でもできる。見習いから三級魔法薬術師までは、この一般動植物を使用した魔法薬を研究・作成できる。一方で、魔法動植物はそれ自体に魔力を持ち、人間には本来扱うことができないのだ。それを可能にするのが、この魔法紋。見習いから三級までの魔法紋が「魔法薬調合補助」であるのに対して、二級以上は「使用素材の制限」である。

 今回は、三級からニ級への魔法紋の書き換え。つまり、使用できる素材の幅が広がる。考えるだけでニヤける顔を、シシリアは必死で隠さなければならなかった。


(笑っちゃダメ……踊っちゃダメ……歓声もダメ……)


 忍耐との勝負であった。

 白髪の長官がシシリアの左手に自分の手をかざし、魔法を発動した。ニ級の魔法紋の色である紫色の魔力を放つ紋が頭上に浮かび、シシリアの左手に吸い込まれていく。

 左手を見ると、これまであった藍色の魔法紋が紫色の紋に置き換わっている。紋様も微妙に変化した。

 ニ級魔法薬術師の認定は、これまで通りあっさりと終了した。

 

 その日、魔導院史上最速、最年少の修了生が、静かに魔導院を去った。

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