火消しはなかなか難しい
いつもより少し長めです
王太子執務室は、静かだった。
いつもなら書類をめくる音や、秘書官の足音があるはずの時間帯だが、今は誰もいない。
執務机に突っ伏したまま、ユリアスは椅子に座っていた。
「……やってしまった」
声は小さく、独り言にすらならない。
机に額を預け、深く息を吐く。
あの場で、あの距離で、あの言葉は――軽率だった。
王太子という立場。
魔導院という場所。
注目を集める状況。
分かっていた。分かっていたのに。
「……止まらなかったな」
指先を見つめる。
あの時、無意識に取った彼女の手の感触が、まだ残っている気がした。
後悔は、ある。
火消しに走る羽目になったことも、噂が王宮まで届いたことも。
だが――
(言わなければよかった、とは思わない)
世界を作り変えるような魔法を前にして、彼女自身を前にして、出てしまった、ただそれだけだ。
「……重症だな、俺」
机に伏せたまま、しばらく動けずにいた。
その時――
コン、コン。
控えめなノック音。
「殿下。陛下よりお呼びです」
「……今か?」
「今、です」
短く、逃げ場のない返答だった。
ユリアスは、ゆっくりと体を起こす。
背筋を伸ばし、深く一度、息を整えた。
(来たか)
やってしまった後の、当然の流れ。
叱責か、釘刺しか、それとも――
「……分かった。行こう」
扉の前で、ドアに手をかけたまま立ち止まる。
あの時、あの瞬間の彼女の顔が思い浮かぶ。
きょとんとした表情を思い出して、ユリアスの口元が少し緩む。
しかし、すぐに表情を引き締めて、扉を開いた。
王太子は、王の執務室へと向かった。
*
王の執務室は、いつもと変わらなかった。
重厚な机、積み上げられた書類、窓から差し込む午後の光。
――変わっているのは、呼び出された理由だけだ。
「座れ」
短い命令に、ユリアスは静かに椅子に腰を下ろした。
王は視線を上げないまま、書類に目を通し続けている。
「……噂は、思ったより早く届いた」
それだけで、十分だった。
魔導院。
再建の日。
あの一言。
王は、紙を一枚閉じ、ようやく顔を上げる。
「彼女は――」
一拍。
言葉を選んだというより、言わないと決めた間だとわかった。
「お前が、一度、白紙にした相手だ」
事実だけを、淡々と。
王太子としての判断。
政治としての決断。
それがどれほどの意味を持つか、ユリアスは痛いほど理解している。
「今度は、違うのか」
責める調子ではない。
確認でもない。
現実を突きつける声だった。
ユリアスは、わずかに息を吸う。
目を伏せず、正面から王を見た。
「はい」
王の眉が、ほんのわずかに動く。
「……戻ることはできん」
王太子の婚約は、政の道具だ。
白紙にした以上、同じ形では戻らない。周囲も、王国も、彼女自身も。
王は、机に両肘をついた。
「覚悟はあるのか」
誰の名も出さない。
何を背負うとも言わない。
だが、ユリアスには分かった。
王太子として、王国として、そして父として。すべてを含んだ問いだ。
ユリアスは、一瞬だけ目を閉じた。
魔導院で見た光景が脳裏をよぎる。
楽しそうに魔法を語る横顔。
好奇心に溢れて輝く瞳。
あの光の中で、迷いなく手を取った自分。
本当に後悔しているのか?――いや、違う。
王太子の顔に、場に相応しくない笑みが溢れる。
「はい」
ブレることのない、まっすぐな返答だった。
王は、しばらく息子を見つめたまま動かない。
王としての目。
父としての目。
やがて、静かに頷いた。
「……そうか」
許可でも、祝福でもない。――否定でもない。
王は視線を書類に戻した。
ユリアスは立ち上がり、深く一礼する。
「失礼します」
王の執務室から自身の執務室へ戻り、ユリアスはようやく息を吐いた。
重い。
だが――引き受けた重さだ。
婚約を白紙にした先で、もう一度選んだ相手だった。
*
噂は、止まらなかった。
王宮でも、魔導院でも、「きれいだ」の一言は独り歩きし、勝手に意味を増やしていく。
ユリアスは、それを正そうとしなかった。
否定すればするほど、軽くなるから。
説明すればするほど、あの瞬間が嘘になるから。
回廊の窓から、遠くの空を見やる。
魔導院の方角だ。
(これは、そんなに軽いものじゃない)
胸が高鳴るとか、会いたくて眠れないとか、そういう段階は、とっくに通り過ぎている。
あの光景。
魔法陣の中心に立つ彼女。
理論と力と意思を、寸分違わず重ねて現実を編み上げる姿。
美しい、と思った。
不思議と心が凪ぎ、安らかな心地を得た。
同時に――守らなければならない、とも。
(王太子として? いや――)
一人の男として。
彼女の才能が、利用されるなら。
彼女の在り方が、歪められるなら。
彼女自身が、望まぬ場所へ引きずられるなら。
(――何としてでも、守ってみせる)
*
あれから、魔導院は日常を取り戻しているように見える。
各学科棟は多少見た目と構造が変わり、迷子になる者も多々発生しているが、概ねいつも通りの日々に戻っていた。
研究棟はあの日のままだが、そもそも研究棟には院生は用事がない。研究棟に用事があった講師たち職員も、今ではその用事がなくなってしまった。王国兵が研究棟を警備しているが、近づくのは好奇心が抑えられない院生だけだった。
その日常が戻った魔導院魔法薬学棟で、シシリアは、妙な感覚を覚えていた。
視線が、増えた。
すれ違うとき、ほんの一瞬、言葉が詰まる。
挨拶の声が、どこか探るように揺れる。
(……気のせい、じゃないよね)
再建作業の後始末で、資料を抱えたまま廊下を歩く。
いつもなら、魔法の話や講義の相談が飛んでくる場所なのに、今日はやけに静かだった。
曲がり角の向こうから、ひそひそとした声が漏れてくる。
「……元婚約者なんだよね」
「殿下の方が、あんなふうに……」
「講師として、どうなの……」
足が、わずかに止まった。
聞き耳を立てるつもりはなかったのに、言葉は勝手に耳に入ってくる。
(ああ……そういうこと)
胸の奥が、ちくりとした。
噂になること自体は、慣れている。貴族院時代――ユリアスと婚約していた時は、事実も嘘も悪意を持って噂が広がり、徐々に立場が悪くなっていった。
あの時は、どこか他人事のように思えていた。どう噂されようが――実は少しずつ心に積もっていいたのだが――それなりに聞き流すことができていた。たぶん、“王太子の婚約者”という立場に、それほど固執していなかったからだろう。
けれど今回は――視線が気になる。通り過ぎる声に立ち止まり、耳をそばだてたくなる。
シシリアは、息を深く吸って、吐いた。
今は、反応しない。貴族としての社交を一切してこなかったシシリアは、こういうときどうすれば良いのか、わからなかった。ただ、不安そうにしていれば、他にも憶測を呼ぶだろう。だから、何事もなかったように、毅然としていようと考えた。
わからなければ、学べば良いのだ。間違えたなら、次は直せば良いのだ。シシリアは、研究する時はいつもそうしてきたのだから。
ヒソヒソと話す数人の院生の前を、顔を上げて通り過ぎた時、後ろから、よく通る声がした。
「何か、疑問があるなら」
聞き覚えのある声だった。
シシリアは、思わず立ち止まる。
「私に聞くといい」
振り返ると、少し先の廊下にユリアスが立っていた。
背筋を伸ばし、穏やかな表情のまま、院生たちを見下ろしている。
怒っているようには、見えなかった。
けれど、逃げ場のない静けさが、その場を包んでいた。
「彼女は、魔導院の講師だ。再建作業においても、明確な役割と責任を持っていた」
いつもの優しい声とは違う、どことなく低く、はっきりとした発音。
「私が彼女を評価していることと、君たちが彼女を軽々しく語ることは、同列ではない」
院生たちは、何も言えなかった。
誰かが俯き、誰かが唇を噛む。
ユリアスは、何事もなかったようにシシリアに向かってゆっくりと歩き出した。
資料を抱え直しながら、シシリアはユリアスと視線を合わせた。軽くカテーシーをする。資料を抱えたままではあったが、十年の王太子妃教育は伊達ではない。
(――間違ったら、ちょっと魔導院の中が混乱するだけよねっ!)
シシリアは気合を入れて、王太子妃モードにシフトチェンジすることにした。
「殿下。先日は過分な評価をいただきまして、ありがとうございます」
ユリアスとの立ち位置、見上げる角度まで計算して、にこりと微笑む。
「過分ではないだろう。私は近くで見ていたが、君の魔法は素晴らしかった」
期待通りにユリアスは立ち止まり、王太子然として言った。
「わたくし、これがお仕事ですから。けれど……」
ふっと雰囲気を変えたシシリアは、ユリアスから視線を外して回廊の端、少し下を遠く見やる。
ふう……とため息をついて、一拍。ゆっくりと話を再開する。
「わたくし、困っていますの……」
ユリアスが、わずかに身じろいだ気配がした。
「……っ 困っているとは……?」
ユリアスの声が少し上擦っているように感じて、シシリアはだんだん楽しくなってきた。
ついと視線をユリアスに戻して、斜め下から、拗ねたように言った。
「殿下がわたくしを褒めて回るものですから、殿下をお慕いしているご令嬢の皆様の視線が痛いのですよ? 婚約していた期間が長いために、わたくしとの敷居が低いのはわかりますけれど、ほどほどになさいませ?」
最後は、優しく諭すように、にっこりと微笑んだ。
ユリアスは、シシリアの笑顔にはっとすると、慌てたように姿勢を正した。
「――そうか、それは迷惑をかけた。今後は気をつけよう」
王太子としてシシリアに謝る。その時――何かを思いついたように彼のアクアブルーの瞳が煌いたのに気づいたのは、その場でシシリアだけだった。
「――では、シシリア。お詫びにお茶でもいかがかな?」
しまった、と思った頃には遅かった。
ユリアスは、ニヤリと笑った後、シシリアが持った資料を片手で受け取る(奪い取る)と、彼女の腰に手を回して歩き出す。
「今日の講義は終わりだろう? このまま王宮に来るといい。母も歓迎するだろう」
逃げ腰の元王太子婚約者が、現王太子に敵うはずもない。そのまま王宮へ直行し、本当に王妃と三人でお茶をすることになったシシリアは、これはもう、研究より難しい案件だと悟った。
この日以降、二つの噂が広がった。
一つ目は、未だ王太子に影響力のある元婚約者と、元婚約者に言い寄る王太子の噂。これは、一部の女性院生から広がったという。
二つ目は、王太子が新たな婚約者を選ばなかったのは、元婚約者に未練があるためだという噂。これは、二人が魔導院で顔を合わせるたびに、穏やかに会話をしているのを目撃した院生が、あちらこちらで囁き出した、噂というより目撃談であった。




