ニナ・フォルテは見ていた
魔法薬学科棟の四階と五階は、薬術科講師の研究室や図書室、書庫、薬品庫、その他が詰め込まれた講師の空間である。講師たちは、それぞれの研究に忙しいことが多く、整理整頓などという概念は二の次だ。よって、この区域にとって清掃員や事務員が重要な役割を占めているのは、どこの学科棟でも共通の認識である。
棚いっぱいに並んだ瓶と資料に埋もれ、魔法薬術学科講師ニナ・フォルテは、今日も机の上に山積みになった調合記録をめくっていた。
「ニナさん! 聞きたいことがあるのだけどっ!」
ばーん! と勢いよく扉を開けて入ってきたのは、ライラック色の瞳を輝かせた侯爵令嬢シシリア・ミラ・リュミエラだ。
20代前半という若さで特級魔法薬術師免許を持つ真の天才。しかし、その実は、研究バカで一度考え出したら寝食を忘れる、素材回収まで自分で行かないと気が済まない、出火も爆発も、当たり一体が氷漬けになっても「素晴らしい」の一言で片付けてしまう問題児。そして、素の行動がどう見ても子ども。令嬢教育どこいった?
そんなシシリアとニナは、研究においてはお互い良き理解者だ。
「あら、シシリア。何か面白い話でも持ってきた?」
ニナは机に積まれた薬草と魔力計測器の山から顔を上げたので、シシリアは手にした皮袋を、机の上のとても狭い空きスペースに置いた。
袋の内側から、微かに空気が震えるような魔力の波に、ニナが眉を上げる。
「……あら? 今の揺れ、魔力の“転調”よね?」
「そうなの。ニナさんも、やっぱりそう思うよね」
シシリアは袋から、乾燥させた《スピルマウスの尾羽根》と、《黄花オルレア》の根片を取り出す。魔鳥と一般植物。一般植物は魔力を持たないため、魔法動植物の素材と掛け合わせると魔力の“歪み”が生じるのが一般論だ。
「魔法動物素材と一般素材を掛け合わせられないのは、魔力が”歪む“からよね。それは分かってるんだけど……今回はどうも性質が違う気がするの。ほら」
シシリアが二つの素材を近づけた瞬間、ひゅ、と小さな風が走った。
魔力を帯びないはずの植物片が、吸い寄せられるように震える。
「……何で魔力があるような反応をするの? それに、反応が早いわ」
「そうなの。しかも逆向きの位相で共鳴してる」
シシリアはワクワクした子どもみたいな笑みを浮かべる。
ニナも同じだ。研究者特有の、危険をおやつみたいに扱う顔になる。
「これ、下手に混ぜたら“爆ぜる”タイプのやつじゃない?」
「混ぜたら危険、よね。でも、もし安全に固定できれば――魔力効率が倍以上に跳ね上がる理論が作れるかも。違う視点からの意見が欲しいわ」
「そうね……スピルマウスの尾羽根には魔力導線があるから……もしかして、植物の内部構造が“魔力回路みたいに”変化してる?」
「そう、それが気になって! 観測結界を張って再現してみたいんだけど、協力してもらえない?」
「うん。いいね。これは面白い。リスクはあるけど、観測結界なら最悪でも研究室が吹き飛ぶだけだし」
「そうね! それだけで解明できるなら、やるべきよね!」
危険な意見の一致が生まれた。
ちょうどその時、アーシェルがひょっこり顔を出す。
「リュミエラ先生、ここにいたの——え、何しているんですか?」
二人の手元でいまだに震え続ける尾羽根と根片を見て、明らかに不安そうな表情になる。
「ロウゲン君。ここ、講師エリアよ? あなたは院生でしょう?」
ニナは平民、アーシェルは侯爵令息だが、ここは魔導院。講師と院生という立場が揺らぐものではない。
「リュミエラ先生のお手伝いです」
アーシェルはキラキラした笑顔で答えたが、シシリアは「何かお願いしたかしら?」と首を傾げている。
あなたの専攻は魔導理論科でしょう、という無駄な言葉を飲み込んで、ニナは大きなため息をついた。
「――もう、いいわ。確かに、講師エリアに院生が入ってはいけないという決まりはないものね。リュミエラ先生に用があったの?」
「まあ……二人で何をしていたんですか?」
アーシェルは、二人の手元に目を戻した。
「研究してるだけ」
ニナが淡々とした声で言う。
「危なくはない……はず」
シシリアが、小さく付け足す。
「“はず”って言ったよね!? 今“はず”って!」
アーシェルが思わず声を上げる一方、シシリアとニナは同じタイミングで楽しげに頷いた。
「大丈夫大丈夫、成功したらすっごく面白いことになるんだから」
「エル、平気よ! ちょっと何かしら吹っ飛ぶかもしれないけれど、結界も張るからっ!」
その直後――
研究室の廊下で、「シシィ!」「ご……ごめんなさい、エル! でも、これ本当に面白くて……っ!」という声がしばらく続き、説教されて縮こまるシシリアと、それをメモをとりながら楽しそうに観察しているニナの姿が、目撃されたとか、されていないとか……
*
昼間の暑さが少し緩んだ時間、ハスの庭の東屋の中から池を見つめるシシリアは、このハスはどうやって年中咲かせているのかしら、と真剣に考えていた。どこかに魔法紋を仕込んでいるのか、何か魔法薬を使っているのか、水に何か秘密があるのか……先ほどまでアーシェルがいたのだが、午後から講義が入っているとかで、魔導理論棟へ戻っていった。
シシリアは、その後もハスについて考えていたが、いつの間にか目の前にユリアスが立っていた。
いつもより柔らかい目、そして距離が近い。
「リュミエラ嬢……少しいいか?」
そういえば、先日は有耶無耶のままに話が終わっていたと思い出したシシリアは、立ち上がって礼をとる。今の会話は、完全にプライベートだから、講師と院生の立場にはならないだろうと思ってのことだ。
「先日は、お話が途中で途切れてしまいまして、申し訳ありません。――お座りになりますか?」
ああ、と言ってユリアスは東屋のベンチに腰掛けると、シシリアに隣に座るよう促した。
「殿下、婚約者でもないのに、隣に座るのはちょっと……」
「立っていては話しにくい。座ってくれないか?」
ユリアスの寂しそうな表情に負けて、シシリアは少し離れてベンチに座った。
ユリアスは、一転して満足そうに微笑み、そのままシシリアとの距離を一歩詰めた。
「リュミエラ嬢、まずは、謝罪の続きを。君は、私に虚像を見せていたと言っていたが、私はそれに気づけなかった。私の視野が狭かったために、君に辛い思いをさせていた。すまなかった」
苦しそうな顔をしながら、ユリアスは謝罪する。
ユリアスとの距離に戸惑いながら、シシリアは頷いた。
「はい、殿下。わたくしも、殿下が見えていませんでした。そのように言っていただいて、もったいない限りです」
そのシシリアを見て、ユリアスは苦笑した。
「それも、もうやめないか? 私――俺は、本当の君が見たい。”殿下“はやめてくれ。君と、しっかりと向き合いたいんだ。」
シシリアは、こてりと首を傾けた。
それを見て、ユリアスがさらに距離を詰める。膝と膝が当たりそうだ。
「そう、そうやって――」
ユリアスは、彼女の手ををっと包みこむ。
「自然な反応をして欲しい。敬語もいらない」
アクアブルーの瞳が、ライラックの瞳とぶつかって輝く。
「――ねえ、シシリア。俺のことも、名前で呼んで?」
声は甘く、どこか切実で、強引。
「ね、シシィ?」
――甘い追い打ち。
「……え……え…………あ、え……?」
シシリアの頭の中は、混乱の極地だった――その時。
「……へぇ。殿下、ずいぶん余裕が出てきたんじゃない?」
空気が一瞬で締め上げられた。
アーシェルが背後から現れる。また、笑っているのに目がひとつも笑っていない。
それを見て、ユリアスはささくれた表情をして舌打ちした。
シシリアには、何が起こっているのか、もはや理解不能だった。
「シシィにそんな顔して近づくなんて。……何のつもり?」
「何のつもり、とは失礼だろう。私は――」
「“元婚約者”として距離詰めようって? ふぅん?」
アーシェルの声のトーンが低い。
庭の植物がざわりと揺れるほどの殺気が、ほんのり漂う。
「エ、エル、ちょっと! 少し落ち着いて!?」
シシリアが慌てて止めるが、二人の視線はぶつかったまま。
「ほら、シシィは、親しくなれば自然と呼び方を変えるんですよ」
「十年の付き合いがある俺は、お前よりも親しいということだ」
「人間関係は、“時間”より“質”ですよ。ねぇ、シシィ?」
「質より積み重ねが重要だろう。ねぇ、シシィ?」
「ちょっと待って!? 私、何に巻き込まれているの!?」
――その様子を見る者が一人。
(あっはー。やだ、あの三角関係みたいな空気……最高じゃない)
研究棟二階のバルコニー陰から、ニナが紅茶片手にほくそ笑んでいた。
メモ帳には素早く走り書き。
――《本日の観察記録:シシリアを巡る縄張り争い、発生。とても良い。続報求む。》
(このまま観察進めよっと♪)
そんな研究者じみたテンションで、ニナはひっそりと次のページをめくった。
*
昼下がり、真夏の学院中庭。
カディル・アルナスルは、陽光を嫌う砂漠の民らしく、木陰に身体を預けて風を感じていた。
――その時、ふわりと甘い薬草の匂いが漂う。
視線を向けると、白金の髪の女性が大きな薬草の束を抱え、中庭に面した廊下を楽しげに歩いていくところだった。
歩くたび、髪が光を弾き、ライラックの瞳がきらきらと揺れる。黒いローブは明らかに季節に合わない色なのに、軽やかな足取りに合わせて揺れる裾は、銀糸の縁取りと白金の髪のおかげで、むしろ涼しそうにも見えてしまう。
カディルは、思わず目を細めた。
「……これは、面白いね。砂漠にも吹かない風だ」
だが、次の瞬間。
少女は足元の石につまずき、薬草を散らかしかけ――
慌てて抱え直し、間抜けなほど驚いた顔で固まる。
その小さな表情の変化が、彼の好奇心を刺す。
「――そして不安定。ああ、なるほど」
カディルは周囲の学生のひそひそ声に耳を傾けた。
「リュミエラ先生だ」「講義はすごいけど危なっかしい」「ロウゲン様がずっと側にいるよね」
聞けば聞くほど、青年の口元に笑みが深まる。
「才能があって、無自覚で、周りを振り回す……それなのに、本人は何も気づいていない、か」
声は明るいのに、その真意は底が見えない。
「――ああ、これは。放っておく方が不自然じゃないか」
一歩、また一歩。
陽光を浴びた黒い瞳が、獲物を逃さぬようにシシリアを捉えながら、飄々とした笑顔を浮かべて歩き出した。
「可愛い上に、危険。……観察しない理由が、どこにある?」
その様子を、中庭の反対側の廊下から見つめる影があった。
ニナ・フォルテが手にしたメモ帳には、巻き起こる一つ一つが記録されていく。
(やっぱりあの子、見てて飽きないわぁ)
ニナのペンは、さらに忙しなく動き続けた。




