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「ことこと」

作者: 三來



「もう何も考えたくない」

 

 健司の足は、まるで鉛を引きずっているようだった。


 終わりの見えない会議、意味を見出せない書類の山、矢継ぎ早の催促。すり減った心で乗り込んだ電車は息苦く、健司の気力を根こそぎ奪っていった。


 気づけば家路を急ぐ人波に逆らうようにふらりと降りていた。疲れてはいた。が、まっすぐ家に帰ってしまったら、どうにかなってしまいそうだったのだ。


 九月の終わりの冷たい夜風が火照った思考をわずかに冷ましていく。


 慣れない道を当てもなく歩く。

 影のような路地裏に迷い込んだ時、ぽつりと温かい光が灯っているのが見えた。


 古い民家を改装したような小さな小料理屋。軒先には『ことこと』と、ひらがなで書かれた小さな行灯が揺れていた。

 まるで夜道に迷った自分を呼んでいるかのように。


 吸い寄せられるように健司は店の格子戸に手をかける。


「…あの、一人なんですが」


 からん、と乾いた鈴の音が鳴った。


 そこは、年季の入ったカウンターだけの小さな空間だった。ふわりと鼻をくすぐる優しい出汁の香り。

 磨き込まれて艶を帯びた一枚板が、行灯の光を柔らかく反射している店内。


 その奥には、白髪を綺麗に結い上げた老婦人がいた。皺の刻まれた目元が、人の良さを物語っている。


「食欲はあまりないんですけど、なんだか、すごく疲れちゃって…。少しだけでも、いいでしょうか」


 我ながら情けない頼み方だと思ったが、女将は気にした風もなく、皺の多い顔にふわりと笑みを浮かべた。


「ええ、もちろん。どうぞ、ゆっくりしていきなさいな。世の中には、どうしようもなく疲れちまう日もあるからねぇ」


 その言葉に少しだけ救われた気持ちになりながら、カウンターの隅に腰を下ろす。

 

 壁にかけられた品書きを眺めるが、墨で書かれた文字がうまく頭に入ってこなかった。

 何を頼むか……。でも、本当に食べる元気もない。ただただ、消耗していた身体が何を求めているのかわからなかった。


 黙ってメニューを眺めていた健司をじっと見ていた女将が、やがて静かに立ち上がった。

 奥の厨房へと消え、そして戻ってきたかと思うと、うつむいた健司の目の前に、ことりと小さな土鍋が置かれた。


「まずは、お腹を温めなさい」

「え……?」


 蓋を取ると、ふわっと優しい湯気が立ち上る。

 昆布が静かに揺れる澄んだ湯の中に、絹のように真っ白な豆腐が一つ、鎮座していた。余計なものは何もない、ただそれだけの湯豆腐。


「これぐらいなら、食べられるかい?」

 女将が、薬味の入った小皿を隣に添えながら言った。注文はしていないのに。

 だが、その静かな心遣いが、ささくれだった心にじんわりと染みた。


「…いただきます。ありがとうございます」

 健司は礼を言って、熱い湯気で曇った匙を使い、ゆっくりと豆腐を小鉢にすくった。


 一口、口に運ぶ。

 大豆の素朴で豊かな甘みと、昆布の優しい香りがじんわりと舌の上に広がった。

 その温かさが喉を通り、身体の芯にゆっくりと届いていく。二口、三口と食べ進めるうちに、強張っていた肩の力が、ふっと抜けていくのを感じた。


 その瞬間だった。

 ふわりと、古い木の匂いがした。



 健司の意識は、陽炎のように揺らめきながら過去へと遡っていく。

 それは何十年も前の記憶。

 夕暮れの狭いベランダで父親が汗を流しながら何かを作っていた。

 父が下手な口笛を吹きながら、週末ごとに少しずつ進めていた、健司のための小さな本棚。   

 その不器用な手つきを幼い自分は飽きもせず眺めていた。


「ほら、できたぞ。お前の宝物棚だ」


 節くれだった、けれど温かい父の手。

 渡された本棚からは、誇らしさと新しい木の匂いがした。 嬉しくて、何度も何度もその表面を撫でた。

 自分のために、誰かが時間をかけて何かを作ってくれることの温かさを、あの時初めて知ったのだ。


「…ああ、そうだ」

 ぽつりと、声が漏れた。

 

 俺は、あの父の手みたいになりたかったんだ。自分の作ったもので、誰かに喜んでほしかった。ただ、それだけだったんだ。

 いつからだろう。仕事が「こなす」だけの作業に変わってしまったのは。あの頃の気持ちを、自分はどこに置き忘れてきてしまったんだろう。


 気づけば、土鍋は空になっていた。

 健司は、忘れていた確かな熱が、胸の奥に再び灯るのを感じていた。

 明日、やらなければいけない仕事はうんざりするほどある。だが、今は不思議と億劫ではなかった。

 あの本棚のように、誰かのためのものになるのなら。


「ごちそうさまでした。なんだかすごく元気が出た気がします」

 勘定を払いながら、健司は自然と笑みがこぼれていた。

「本当に、不思議ですね。あんなに疲れていたのに」

 彼は冗談めかして続けた。

「魔法みたいでした、ここの湯豆腐」

「あら、そうかい」


 女将は悪戯っぽく目を細めるだけだった。

「また、必ず来ます」

 深く頭を下げ、健司は店を出た。来た時とは比べ物にならないほど、足取りは軽く、街の夜景が少しだけ輝いて見えた。


 からん、と扉の鈴が鳴る。

 

 健司の背中が見えなくなるまで見送ったあと、女将は一人、静かにつぶやいた。


「疲れたらまたおいで。とっておきの魔法をかけてあげようね」



即興小説企画、テーマ「魔法使い」「湯豆腐」

 

 参加させていただき、書いたものになります。

あたたかい、思いやりの魔法を使える人になれたらいいなと思い書かせていただきました。

お読みいただき、ありがとうございます。

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