第4話
それからしばらくリョウちゃんには会わなかった。
団地の近くを通る時は早足で周囲を見ないようにしていたから。
彩音と一緒に団地の植え込みの中に隠れていたのをリョウちゃんに見つかったのは、一生のトラウマになるかもしれない。
でも、やっぱり運命の神様は存在するのか、私とリョウちゃんを引き合わせようとしてくる。
「ねぇねぇ」
部活後に顧問の先生に頼まれた仕事があっていつもより遅くなった帰り、一人で最寄り駅の近くのコンビニ付近を歩いていると、屯していた二人組の男たちに声をかけられた。
「ちょっと百円貸してくんない?」
二人はニヤニヤ笑いながら、柄悪そうにダボダボのズボンのポケットに手を突っ込んでこちらに近付いてくる。
一人はボウズ頭に顎髭、もう一人は黒髪ツーブロックにサングラスをかけている。この暗いのに。
私は無視して早足で通り過ぎようとする。
でも嫌な予感がした。
いつもの時間なら人通りがわりとあるけど、運悪く今日は辺りに人があまりいない。
走ろうかと思った時、がしっと乱暴に肩を掴まれた。
「!」
強制的に二人の方へ振り向かされる。
「うわ、やば。可愛いじゃ〜ん」
今度はヘラヘラと笑い出して気味が悪い。
あからさまに不快感を表情に出しているつもりでも、あまり伝わってないみたいで二人はこちらをじろじろと見てくる。
「やっぱぁ、百円じゃなくて俺らに付き合ってよ。一晩中〜」
ヒャッハーと二人は興奮したようにまた笑う。
唾が飛んできて、気持ち悪くて仕方ない。でもどうやって振り払えばいいのか分からない。なぜか声も出ない。
脚が震えてる。
振り払えなければどうなるか、想像したくもない。
こういう状況でもさすがに抵抗くらい出来ると思ってた。でも出来ない。全然出来なくて、ただ猛獣に狙われた小鹿のように震えてるばかりの自分が情けない。
(誰か助けて……彩音……リョウちゃん!)
「ねぇ、何してんの?」
その声にハッとして、そっと顔を上げる。
見ると私の正面、二人の男たちからすると真後ろに黒ジャージ姿のリョウちゃんが立っていた。全身黒なのに、何だか存在感があって神々しく見える。
(……リョウちゃん?)
涙ぐみそうなのを必死に我慢して、私はリョウちゃんを見つめる。
まだ脚は震えてるけど、知っている顔を見て少し安心したのか頭は冷静になってくる。
「はぁ? 誰だ? テメェ。見て分かんねぇ? 女、口説いてんの」
ボウズに顎髭の男は、輪っかのピアスの刺さった分厚い唇を突き出してリョウちゃんにやたら語尾を強調して言う。
「ちょっとその子俺の知り合いだからさ、勘弁してやってくんない?」
対してリョウちゃんは冷静に、というかちょっと薄笑いな表情で言う。まるで友達に話しかけるように。
「ぷはハッ、キミは何者なんですかぁ? 俺らに意見出来るような大物なワケェ?」
ヒャハハッとまた男たちは下品に笑う。
「『俺の知り合いだからさ』って、どーでもいー情報ありがとー」
馬鹿にするように、男たちはヘラヘラ笑っている。
リョウちゃんは、ハァと溜息をついて後頭部をカリカリと掻く。
「困ったなー、引き下がってくれないと俺、またお世話になっちゃうじゃん、オッサンに」
「あん? 誰の世話になるってぇ?」
「おいオッサンじゃなくて、ママの間違いだろぉ?」
そう言いながらリョウちゃんに近付いて、馬鹿にするように顔を睨め付けたボウズの男は、今度はリョウちゃんの頭に手を置いて茶色い髪の毛を乱暴に掴む。
「はー腹立つなぁこの顔面。正義のヒーロー気取りしてりゃあ女にモテるってか? あんまり世の中舐めねー方がいーぞニイちゃん」
そしてズボンのポケットから光るものを取り出した。
(ナ、ナイフ!? ……駄目!!)
リョウちゃんの首筋に短いナイフの刃が当てられる。
「へへへ。泣き叫ぶか平謝り、どっちがクるかなぁ」
「土下座一択っしょ」
下品に笑いながら、二人の男はターゲットを完全にリョウちゃんに変更したように見える。
私のことは少し意識から外れたようだ。
(今なら逃げられるかもしれないけど……でも)
脚が震えて動けない。
それに、リョウちゃんを見捨てて逃げることなんて出来ない。
私が逃げた方がリョウちゃんはやりやすいかもしれないけど。
「いや、あのさぁ、そんなのじゃ俺ビビらんから」
何故かリョウちゃんは、こんな状況でも二人を挑発するように飄々とした声を発する。それを見てヒヤヒヤする私。
こんな時に限って、なかなか通行人が通らない。
「ああん?」
「刺してみろよ。首んとこ、グサッと」
そしてボウズの男のナイフを持つ手首を握り、自分の首により強く刃を当てる。
「お、おい」
グググ……とナイフの刃は、リョウちゃんの首筋に食い込んでいく。
やがて何筋もの血がリョウちゃんの首をつたっていく。黒い服だから分からないけど、おそらく服の襟元は血で濡れているだろう。
「な、何やってんだテメェ」
ボウズの男は本気で焦りだしたように見える。サングラスの男も。
「ほら、ここをこうザクッとやれば俺を片付けられるよ? やれよほら。この口だけの〇ンカス野郎」
「なんだと!?」
「おい! ちょっと待てコイツ! 見たことあるぞ!」
サングラスの男が思い出したようにいきなり叫ぶ。
「あ?」
「そうだ! コイツ“ブライツ”の頭だ!!」
(“ブライツ”……?)
それを聞いたボウズの男も慌てだす。
「は、はぁ!? こ、この軟弱野郎がブライツの頭なわけねーだろ!?」
明らかに動揺した様子のボウズ頭は、すでに戦意を消失したのか挙動不審だ。
「軟弱野郎ねぇ」
ゆらりとリョウちゃんはボウズ頭に顔を近づける。ナイフを持つ彼の手首を握ったまま。
「試してみる?」
血のついたナイフを今度はボウズ頭の首に突きつける。
ボウズ頭は掴まれた自分の腕を動かせないようで、慌てて叫ぶ。
「い、いや! 悪かった! 許してくれ!!」
「俺じゃなくてさ、そこの女の子に謝って」
リョウちゃんは男の首にナイフを突きつけたまま、こちらに視線を寄越す。
「じょ、嬢ちゃん悪かった!!」
「許してもらえるまで言い続けろ」
「許してくれ!!」
「も、もういいです!」
私は慌てて言う。
電車が着いたのか人通りが増えてくる。
周囲を気にしながら、ナイフを持つ男の手首を掴むリョウちゃんを見る。
リョウちゃんはやれやれという顔で、男の腕をパッと離した。
ボウズの男は腕を離された途端、すぐさま踵を返し、つんのめりながら一目散に駆けていく。サングラスの男がそれに続くように慌てて走り出す。
「やっぱり……ヒーローだ」
無意識にポツリと口から出た言葉。
そしてその場にストンと尻もちをつく。
「大丈夫?」
ゆっくりと近付いてきたリョウちゃんは、私の顔の前に大きな手を差し出す。
その途端、何とも言えない安心感に包まれて、私は号泣してしまったのだった。
気付くと団地の前にいた。思いっきり泣いた後、リョウちゃんに手を引かれて歩いてここまで帰ってきたようだ。少し冷静になってきた。
「帰れる? 一人で」
リョウちゃんは私の顔を覗き込んで言う。
泣きすぎて恥ずかしい私は、そんなリョウちゃんから顔を背ける。
「送ってこっか。さすがに。一人は怖いよね」
何となく、リョウちゃんは私の家まで来るのが嫌なのかなと思った。前に家へ誘ったのを断られたことを思い出す。
私は無言で横に首を振る。
「じゃどうすんの? 一人で帰るの?」
そしてまた首を横に振る。
リョウちゃんはやれやれと言う風に、私の頭にぽんと手を乗せる。
「ルカはどうしたい?」
優しいリョウちゃんの言葉に、また胸がキュウっと締め付けられる。
好き。
リョウちゃんのことが大好き。
離れたくない。一緒にいたい。
ずっと。
止めどなく溢れる気持ちを何とか抑えても、顔は正直に赤くなってしまう。
それを隠すように、私は慌てて口を開いた。
「け、怪我……してるでしょ? 放っといたらバイ菌が入って大変なことになるかも」
私がそう言うと、リョウちゃんは合点したように言う。
「ああ。それを気にしてたの? 大丈夫。慣れてるから。舐めときゃ治る」
「そ、そんなわけないでしょ!? 私のせいで怪我したんだから、手当てくらいさせて」
「いーよ、だいじょぶだから。それより早く帰らないとママ心配するんじゃない?」
確かにいつもより時間は遅いはずだし、家族は心配していると思う。
でも。
リョウちゃんの言葉に、何だか子ども扱いされたような気がしてチクリと胸が痛みながらも、どうしてももう少し一緒にいたくて、私は何とかリョウちゃんを説得出来る言い訳を探す。
「だ、駄目だよ! リョウちゃんがその怪我が原因で高熱出して寝込んだら、私罪悪感で獣医学部に進めなくなっちゃうから!」
何とか捻り出した私の言い訳を聞いたリョウちゃんは、目を丸くする。
「……それは駄目だ」
私の苦し紛れの策は、何とかリョウちゃんを打ち負かせたようだ。
そしてリョウちゃんの家に再び上がらせてもらうことになった。
今度は自らの意思で。