第31話
「よう、リョウ。浮かない顔してんな」
15時から16時半までの仕込み準備時間に、バーテンダーの師匠、重島さんが厨房に入ってくる。
重島さんは16時半開店の夜の部からの出勤だ。たまに休みを取る時があるけど、基本毎日出勤してくれている。
ジイサンの古くからの知り合いで、四十三歳バツイチ子持ち。
「別に、そんな事ないですよ」
「いや、ほら、顔に書いてある。なんか悩み事がありますよ〜って」
重島さんは、俺の顔面に人差し指を向けて、絵を描くように動かす。
この人は妙に鋭いところがあって、俺はちょっと苦手なんだけど。
「あ、もしかして昨日の……」
アラタがまた余計な口を滑らせる。
「昨日? 俺の休みの間になんかあったのか?」
「あー……実は……」
チラチラとこちらを見るアラタの説明を遮るのも面倒で、俺は厨房を離れる。
いつも俺がジイサンのところへ介護に行く間、重島さんはその時間を埋めてくれる助っ人……どころか、今のところはメインでバーに立ってくれてるんだけど。俺なんか、まだまだヒヨッコだし。
働きながら学ぶところが沢山あるから、ジイサンが重島さんをつけてくれたのは素直に有り難かった。
重島さんの本業はバーテンダー講師だ。
輝かしいコンテストの成績があるわけではないらしいけど、名のあるバーで働いていた経験で、生徒は集まるらしい。
俺自身も、東京に来てすぐに、ジイサンに紹介されて重島さんの生徒になった。
実際、腕はすごい。
そんな重島さんを助っ人に呼べるジイサンはタダモノじゃないと思った。
古くからの知り合いと言っても、重島さんとジイサンは親子ほど歳が離れてる。実際、ジイサンの元妻が連れて行った息子と重島さんは同い年らしい。
それもあってか、ジイサンは若かりし頃の重島さんをいたく気に入って、目をかけていたそうだ。
ジイサンは俺に、息子の話をしたがらない。
だから、これは重島さんから聞いた話だ。
ジイサンはずっと仕事漬けで、家庭を疎かにしすぎて、ある時愛想を尽かした妻が息子を連れて出て行ったらしい。後日離婚が成立しても、なかなか実感が湧かなかったのだという。
一人息子の記憶は断片的なものばかりで、いかに自分が無関心であったかを離婚後に徐々に痛感し、家庭を疎かにしてきた罰だと受け入れて、遠くから成長を見守っていたそうだ。
幼い頃はたまに会っていたが、成長するにつれて会う機会は減ったらしい。
だから、弁護士から送られる息子の写真と現状報告だけが、息子を知れる唯一の機会だったという。
そんな息子は、二十代の時にバイク事故で死んだ。
ジイサンが悲しみに暮れていた時、重島さんと出会ったそうだ。
重島さんがバーテンダー講師としてやっていけるのも、ジイサンの援助があったかららしい。
だから、重島さんはジイサンには頭が上がらないんだと。
厨房に戻ると、重島さんがニヤニヤしながら近付いて来る。
「リョウ、お前〜罪な男だなぁ、おい。超美人の幼なじみを故郷に残してきたんだってぇ?」
「……」
重島さんの肩越しに、その奥に突っ立ってるアラタを睨む。
「あ、ぼ、僕、ペーパーの補充してきまーす!」
慌てて厨房を出るアラタを目で追いかけてると、重島さんが俺の肩をポンと叩く。
「暗に責めてきたそうじゃねぇか、昨日の女の子。置いてきた女の友達なんだって?」
「……」
「お前にもトラウマがあるんだろうが、これだけは言っとくぞ、リョウ。これと決めた女は逃がすな。一生後悔し続けるぞ」
「それ、バツイチの重島サンに言われたくないんですけど」
違いねぇと豪快に笑う重島さん。
『これと決めた女』、ねぇ。
重島さんにとって、それは別れた元妻なのか。
じゃあ、重島さんは今も後悔し続けているのか。
それについては聞かずに、俺は強引に今日の仕事の話に話題を逸らした。
誰に何を言われても、俺の意思は変わらないから――――。
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「なぁ、リョウ」
深夜1時過ぎ。
仕事が終わって、後片付けも終わった後、重島さんがカウンターにどっかり座って話しかけてくる。
隣のチェアをポンポンと手で叩くから、仕方なくそこに腰掛ける。
「たまにはゆっくり飲もう」
と言って、底の厚いウイスキーのボトルを傾ける。
何も入っていないグラスの中に、琥珀色の濃厚な液体がトクトクと注がれていく。同時に香ってくるバニラっぽい甘い匂い。
重島さんの好む『マッカラン』だ。
重島さんは大体の酒はストレートで飲む。
おまけにそれを何杯飲んでも酔わないくらい酒に強い。
俺は正直、ロックの方が好みなんだけど。バーテンダーしといてアレだけど、俺まだ21歳だから。
こういう時、重島さんとの経験の差を思い知らされる。
重島さんは、このストレートのウイスキーのように濃厚だ。
俺は、まだカルピスくらいに薄めた水割りかな。
って、思うんだよね。
「お前が地元を出て、4年くらいか」
重島さんが、マッカランの入ったグラスをこちらに寄越して話し始める。
同時に、自分のグラスにもマッカランを注ぐ。
「ええ、まあ」
「お前の過去は、明男さんから聞いてる。でもその女の子の話は初めて聞いたぞ。明男さんにも言ってないのか」
“明男さん”っていうのは、ジイサンのことだ。
重島さんは一気にストレートのマッカランを飲み干す。水を飲むみたいに。
重島さんの手からボトルをもらって、グラスを再び琥珀色で満たすと、重島さんは満足そうな顔をした。
重島さんは、今までずっとモテてきたんだろうなぁって感じの容姿をしてる。今も幅広い年齢層の女性にモテる。
オールバックに固めた、少しだけ白髪の混じったストレートの黒髪は、前髪がほんの少しハネてる。女性客によると、それがイイらしい。
ちょっとだけ生やした顎髭は、しっかり管理されてる芝生みたいに、いつもまったく同じだ。
「別に言う必要ないでしょ? 結婚するわけじゃないんだから」
そう言って、自分の口にもマッカランを含む。フルーツの濃厚な甘みが鼻腔を刺激する。そして、アルコールの強い熱と後から来る苦み。
表面上は甘いけど、仕事には厳しくて、苦い人生経験を積んでる重島さんみたいな酒だなと思う。
「リョウ。お前は“ラガヴーリン16年”だな」
俺の心の声を聞いていたみたいに、重島さんが言う。
「通称『アイラの王』。飲む者を虜にする。煙に巻くような深くスモーキーな味に、仄かな甘さ、切ないほど余韻の残る後味。まさにお前のような酒だ」
ラガヴーリン16年……。
研修では使ったことがない高価な酒だ。
店には重島さんに勧められて置いたはず。
酒のボトルが並ぶ目の前の棚に目を向けていると、重島さんが立ち上がって、カウンターの向こう側へ移動する。
棚の端から「ああ、これだ」と言いながらボトルを一本取って、再び隣に腰掛けた。
「“ラガヴーリン16年”、味見してみるか?」
「それ、高いんですけど」
「まあいいから、いいから。これも勉強のためだ」
ただ単に自分が飲みたいだけだろ、と思いながらも、重島さんがボトルを開けるのを許してしまった。ジイサンに怒られるぞ、これ。まあ、マッカランもなんだけど。
マッカラン12年と、ラガヴーリン16年の合計金額を後でキッチリ徴収しないと、後が怖い。
コポッという音と共に、一風変わった強烈な香りが立ち込める。これが“アイラの息吹”ってやつか。
ジイサンの資産の一部であるラガヴーリンをほんの少し、香りを楽しむ程度にマッカランとは別のグラスに入れてもらった。
確かにどこまでも深い、スモーキーな香りだ。
一癖も二癖もある酒だと分かる。
――――焦げた匂い。
なるほど、と思う。
この匂いは、俺の過去だ。
焼け焦げて、再生不可能な俺の過去。
グラスを傾けて、ラガヴーリンを口にゆっくりと含む。
途端、何故かルカの顔が浮かんだ。
――――甘み。
俺自身と重ね合わせているからか、自分の中の甘みを思い起こそうとすると、ルカの顔が思い浮かぶ。
苦味の中にある仄かな甘み。
それが、俺の中のルカなのか――――。
その後に来る、スパイシーな余韻。
「その酒は強い癖に、最後は静かに余韻を残して消えていく。そして、いつまでも記憶に残る。彼女の中のお前も、そんな感じなのかもな」




