第2話
家に帰ったものの、リョウちゃんのことが頭から離れない。
部屋にバッグを置いて、勉強机の椅子に腰掛ける。
帰り道を歩いている間に、怒りは収まってきた。
「リョウちゃん……カッコよくなってたなぁ」
こちらを見上げたリョウちゃんの綺麗な顔を思い出して、ほう、となる。
同時に、腹が減ったと言っていたリョウちゃんをそのまま置き去りにした罪悪感が、今更胸に燻る。
「……やっぱり、行こうかな」
階段を降りて、母がいないことを確認すると、炊飯器に入った残りのご飯で大きめのおにぎりを二つ作って海苔を巻き、冷蔵庫にあったたくあんと、冷凍庫の唐揚げをチンしてタッパーに入れる。保冷バッグにまとめて入れて、玄関でスニーカーを履くと、ちょうど買い物から帰ってきた母と鉢合わせた。
「あら、どこ行くの?」
「あー……ジョギング!」
「保冷バッグ持って?」
「ちょっと小腹が空いたから、公園で食べてから走ろうと思って。じゃあ、行ってきます!」
「……行ってらっしゃい」
そそくさと家を出て、真っ直ぐリョウちゃんの家へ向かう。
母はいつも何かと鋭いので怪しんでいたかもしれないけど、何も材料を与えていないので、リョウちゃんと会うことはバレないはずだ。
(お母さん、ごめんなさい。遅くならずに帰るから許してね)
急ぎ足でリョウちゃんの家の扉の前まで来たものの、突然緊張してくる。
(わざわざ帰ってからご飯を持ってくるなんて……やりすぎかな?)
と思いながら扉の前で突っ立っていると、中から人の話し声と物音が聞こえる。
(誰かいる……?)
このまま帰った方がいいのか少し考えたけど、勇気を出して、ドアの横に小さくくっついているインターホンのボタンをえいっと押してみた。バスケで鍛えたプレッシャーへの強さは、こういう場面でも役に立つ。
するとまもなく、人の声は止んで、パタパタと歩くような音が大きくなる。
建物の防音効果は今ひとつみたいだ。
ガチャリとドアが開くと同時に、私は動揺した。
「はい。誰?」
中から出てきたのは、金髪ストレートロングヘアにジャージ姿の若い女の人だったから。
「え!? え、え、えっと……私は……」
思わず激しく吃ってしまう。
じーっと私を見る女の人。化粧はバッチリなのにジャージ姿なのが何だかアンバランスに思えてしまう。
「ねえ! 女の子来たんだけど! 誰なの!?」
金髪の女の人は、中にいるのであろうリョウちゃんに聞いているのか、後ろを振り返りながら言う。
「あ? 知ら……って、ルカ?」
カップ麺と割り箸を持ったまま顔を出したリョウちゃんは、私の顔を見るなり驚いた表情をした。
「どしたの?」
優しげなリョウちゃんの声を聞いて、慌てて言い訳をするように私は口を開く。
「あ、あの、ごめんね、彼女が来てるって知らなくて。お腹空いてるって言ってたから、これ。お、お母さんから! じゃあ、私帰るね! 入れ物は返さなくていいから!」
女の人に保冷バッグを渡して帰ろうとして、リョウちゃんに呼び止められる。
「待って待って! 帰るならこっちでしょ。りさ、帰って?」
「は!? なんであたしが!」
「お前急に押しかけてきただけじゃん」
「押しかけ……て、死にかけてたあんたを救った命の恩人に向かって言うことっ!?」
「カップ麺に湯入れただけだし」
「なっ……!! わざわざ来てやったのに何なん!? 泊まる用意持ってきたっつーの!!」
「ずーずーしー。帰れ?」
「嫌!」
(何で私、ここにいるんだろ……)
一連のやり取りにうんざりして帰ろうとした時、穏やかだったリョウちゃんの表情が急に変わって、背筋がぞくりとした。
「何度も言わせんな? 帰れ」
それまで威勢よく吠えていた女の人は、急に大人しくなって、「わ、分かったよ」と言って、荷物を持ってさっさと出て行ってしまった。
ぼーっと突っ立ったままその様子を見ていた私に、カップ麺を持って箸をくわえたリョウちゃんが、空いた手で来い来いと手招きするので、躊躇いながらも玄関に入った。
「良かったの……? 彼女」
「“カノジョ”じゃないし。仲間内の一人。ルカが帰った後、グループのメンバーにヘルプ出したらなぜかアイツが来たの」
『泊まる用意持ってきた』とか言ってたけど。とツッコみたかったけど、やめておいた。
置き去りにして帰ってごめんね、とも言いたかったけど、それも何故か言えなかった。
「グループって、不良グループ?」
はぐらかすように私が言うと、リョウちゃんは一瞬二重の目をパッチリと開けて、アハハッと笑う。
「そ。『不良グループ』」
何がそんなに可笑しかったのか、不可解に思いながらもリョウちゃんの笑顔から目が離せなくなる。
やっぱり、リョウちゃんはカッコいい。
無理矢理目線をそらして、保冷バッグを渡す。
「あ、これ。良かったら食べて? お、母さんからの差し入れ」
「ありがと。めちゃ嬉しー」
そしてまた人懐こい笑顔を向けてくる。
もう、やめてほしい。恥ずかしくて目を合わせられなくなるから。
「そこ、寒いからさ。入ったら?」
私から保冷バッグを受け取ったリョウちゃんは、コタツのないテーブルに向かいながらチラリとこちらを見て言う。
そこらに転がっていた空き缶は、スーパーの袋にまとめられて、奥のキッチンの隅に置いてある。
(さっきの女の人が片付けたのかな)
剥き出しの小さなキッチンには、湯を沸かした後のやかんがポツンと置いてあって、まだ先端から湯気を出している。
「わざわざ戻ってきてくれるなんて、やっぱルカは優しーなぁ」
リョウちゃんは、倒れていた時とは別人のように普通に元気そうに鼻歌を歌いながらテーブルの前に座り、保冷バッグを開けて私の作ったおにぎりを頬張り始める。そう言えば鼻血は完全に止まったのか、鼻に詰めていたティッシュは取れている。
私は小さく「お邪魔します」と言って扉を閉め、靴を脱いで揃えテーブルの前に胡座をかいて座るリョウちゃんの向かいにそっと腰を下ろす。テーブルを挟んでも意外に距離が近い。
何となく、胸がむず痒い。
お母さんから、と誤魔化したけど、リョウちゃんが今食べているのは私が握ったおにぎり。
そう思うと、頬が熱を帯び始める。
(駄目だ駄目だ。何考えてんの。なんか変態みたい)
おにぎりを食べるリョウちゃんの口元に目がいってしまうのを誤魔化すように口を開く。
「リョウちゃん、い、いつまで不良やるの?」
私が聞いたと同時に、ぶっと米粒を吹き出すリョウちゃん。
そして袖で口とテーブルを拭きながら豪快に笑う。ひとしきり笑って、目元を拭ったリョウちゃんは言う。
「別に期間限定じゃないから。俺、好きでこうしてるわけじゃないし」
それを聞いて、率直に思ったことを言ってみた。
「そうなんだ。やりたくないなら、やらなければいいんじゃない?」
好きで不良をやっているわけじゃないなら、やめればいい、という単純な発想から軽々しい言葉を発してしまったことを、私は後々後悔する。
「……ルカは、こんな俺はイヤ?」
そう聞かれて、迷わず私は答える。
「うん。嫌」
ハハッとリョウちゃんは笑って、テーブル越しに私の頭をくしゃくしゃする。小さい頃にしていたみたいに。
そして、静かに言った。
「ルカと俺は住む世界が違うんだよ。ルカはお姫様。俺は乞食」
大きな手の隙間から覗くリョウちゃんの顔は、笑顔だった。
のに。
何故か冷たい空気が、頬を撫でた気がした。
その言葉の意味が分からないほど、私は子供じゃないつもりだ。
「お姫様の気持ちは乞食には分からないし、乞食の気持ちは、お姫様には分からない」
超えることの出来ない、絶対的な境界線があると宣言された気がした。
「……」
何も言うことが出来ない。言葉が出て来ない。
「でもさ、ルカが来てくれた時嬉しかった。昔の俺の気持ちを思い出した。また前みたいにルカと仲良く出来るかなって。でもやっぱ無理だ。ルカは、こっちに来ちゃダメ。もうここには来たらダメだよ? 分かった?」
「容器は今返すから、ちょっと待って」と言って、おにぎりを豪快に頬張るリョウちゃんの姿を、黙ったまま呆然と見つめる私。
なんで何も言えないんだろう。
リョウちゃんだけ言いたいことを言って、ずるい。
それでも、私の意思に反して口は開かない。
持ってきたご飯をあっという間に完食して、リョウちゃんは容器を綺麗に洗った。水気を拭いて、保冷バッグにしまう。
(リョウちゃんは、やっぱ几帳面)
一滴も水のついてない容器が、綺麗に隙間なく詰められた保冷バッグを渡されて思う。
「ありがと。旨かった……って、おばさんに伝えて?」
にっこり笑って、リョウちゃんは言う。
「……うん」
と答えるのが精一杯で、私はそのまま何も言えない子供のように、すごすごとリョウちゃんの家を出た。
「送って行きたいけど、俺といると逆に危険かもしれないから」と、リョウちゃんは玄関先で私を見送った。
「気をつけてね」と言うリョウちゃんの笑顔を横目に、ドアを閉める。
夕方の冷えた風が、私を打ちのめす。
やっぱり、日が落ちると結構肌寒い。
ぶるっと肩を震わせて、そういえば容器を洗って返されたら、お母さんになんて言い訳すればいいんだろうと今更ながら考える。
あの時は、そこまで考えられなかった。
リョウちゃんに拒否された衝撃で、頭が回っていなかったから。
家に着いて、お母さんがキッチンにいないタイミングを見計らって容器を全て食器棚にしまった。
そして自分の部屋へと急ぐ。いたずらがバレる前に逃げる小学生のように。
部屋に入ってそのまま勉強机の椅子に乱暴に座って、机に置いた腕の中に顔を埋め独り言を言う。
「じゃああの女の人は? ……リョウちゃん」
リョウちゃんの家から出て来た、金髪ストレートヘアの女の人を思い浮かべながら。
最後は少し怖かったけど、気心の知れた仲間同士の会話に見えた。
(あの人は同じ世界の人で、私は違うってこと?)
嫉妬心が頭をもたげる。
(私が無神経なことを言ったから、リョウちゃんは怒ったのかな……)
はぁ、と溜息をついて冷たい机に頬を当てる。
『住む世界が違う』とはっきり言われて、なんと言えばよかったのか。
今でも返す言葉が思い浮かばない。
(おばさんはずっと前に出て行ったって言ってた。男と……ってことは、リョウちゃんは捨てられたってこと?)
胸をギュッと掴まれたように苦しくなる。
(そんなことも知らずに、私はぬくぬくと部活をして、勉強をして、リョウちゃんを不良扱いして……そりゃあリョウちゃんは怒るよね)
軽々しいことを言ってしまったことを反省する。
『俺、好きでこうしてるわけじゃないし』
リョウちゃんの台詞を思い出す。
それは、状況的にそうなるしかなかった、という意味だったのだと今更ながら思う。
そして、抜けようと思って抜けられるものではないとも。
「そうだよね……」
ポツリと呟き、頬をぺたりと机にくっつけたまま、私は後悔の念を噛み締めるように目を閉じた。