5 留守中の来客
「じゃあ買い物に行ってくるよ。夕方までには戻るから、留守番お願いね」
そう言って、サモエドのエルさんはひょいと皮のリュックサックを背負い、宿の玄関を出ていった。
普段はのんびりしてるのに、今日はやたらと足取りが軽い。きっと、街でお気に入りのパン屋とかあるんだろうな。
「……さてと」
宿に取り残された俺は、ゆっくりと息を吐いた。
ミレナの従業員として初めて迎える「留守番」。
朝から掃除も洗い物も全部やって、ようやく一息つける。今日は予約もない。
何事もなく、終わる――はずだった。
カラン。
控えめなドアベルの音が、宿に響いた。
「うそでしょ!?」
玄関に飛び出すと、そこには旅装束の男が立っていた。年は40代後半くらいだろうか。どこか虚ろで寂しげな目元が印象的だった。
「……宿、やってるか?」
「は、はいっ! 一名様ですか!? い、いらっしゃいませっ!」
完全にテンパっていた。手の動きもぎこちないし、声も裏返るし、情けない。
でも男は、ふっと口元をゆるめて笑った。
「おおげさな歓迎だな。……ああ、一晩頼む。落ち着ける宿を探していた」
「はい、かしこまりましたっ!」
エルさんに教わった通りに、荷物を預かって、チェックインの手続きをして、夕食の時間を聞いて――
そして、いちばんの難関。
「よろしければ、紅茶をどうぞ。少し味を変えてあります……あっ、毒とかじゃないので!」
「毒だったら、わざわざ自分から言わないだろ」
男はくすっと笑ってカップを口に運んだ。
そして、ふうっと息を吐いた。
「……なんだか、不思議な味だな。さっきまでモヤモヤしていた心が、落ち着いたような気がする」
「よかった……!」
それが俺の、初めて1人で接客をしたお客様だった。
***
夕暮れ、エルさんが袋をぶら下げて帰ってくるのを玄関で待ち構え、一目散に飛びついた。
「聞いてくださいよ! お客さん来たんです。俺、1人で接客したんです!」
「ほんとう? それはそれは、頼もしいなあ」
ふわふわの手に頭をくしゃりと撫でられて、なんかちょっと泣きそうになる。
「で、そのお客さん、なんて言ってた?」
「落ち着ける宿を探していたって」
「そうか、では今日はリラックスしていってもらおうね」
***
次の日。
昨日の男、エリックは、早朝から身支度を整えてチェックアウトの手続きに来た。
「ご飯も美味しいし、静かで自然が豊かで、この宿はいいな。何より紅茶が美味かった。また来るよ」
そう言ってやわらかく微笑む。昨日まで生気のなかった目は、本来の鋭さを取り戻していた。
俺は外に出て、背中が見えなくなるまでエリックを見送った。
「……なんか楽しいな、この世界」
フロントに戻り、ポツリとこぼした俺の言葉に、エルさんは優しく目を細めた。
しかしその瞬間――
ドンドン!
玄関のドアが勢いよく叩かれた。
「ちょっと! 開けなさいよ、お金ならあるわ!」
高飛車な少女の声が響く。
俺は慌てて玄関へ向かった。
でも、ドア、開いてるはずなんだけどな。
そこにいたのは、真っ白なマントに金髪をなびかせ、ツンと澄ました少女だった。