3 宿屋「ミレナ」
ミレナで働き始めて2週間。少しずつわかってきたことがある。
まず、サモエドはエルネストという名前だった。本人には言えないが、愛らしい見た目と反してかっこいい名前だったので意外だった。少し長いので、エルさんと呼ぶことにした。
そして、この世界では魔法を使えるのは一部の人だけで、素質と訓練が必要らしい。貴族の教養みたいなものだそうだ。
エルさんは庭仕事に土魔法、雨の日の布団乾燥には光魔法と、日頃から時々使っているのを見かけるが、そこにはつっこまないでいる。エルさんいわく「魔法は気配と感覚で扱うもの」だそうで、理論より体感重視の世界っぽい。
そして、この宿屋は「バース大陸」という広い世界の中でも、人里から遠く離れた森の奥にある。秘境の宿なんて呼ばれているようだ。普通に地図を見て辿り着ける場所じゃないらしい。
「本当に癒しを求めている人だけが、辿り着けるんです」とエルさんは言っていた。
魔法的な何かが働いてるんだろうか。俺は来ようと思って来たわけじゃないからよくわからないけど、言葉の響きが妙にしっくりきた。
宿の構造は、外観は洋風の木造ペンション。石畳の中庭には噴水があり、夜になると小さな灯りがともって幻想的な雰囲気になる。
エルさんが与えてくれた俺の部屋は2階の角部屋で、窓からは森が見える。聞こえてくるのは風の音と小鳥のさえずりだけで、ついこの間まで当たり前だった東京の喧騒がまるで幻のように思えてくる。
毎日の仕事は、朝の掃除に始まり、洗濯、ベッドメイク、料理の手伝い、接客……と、わりと忙しい。でも不思議と疲れない。誰かに怒鳴られることも、数字に追われることもない。
エルさんは、失敗しても優しく「慣れれば大丈夫ですよ」と言ってくれるし、やり直す時間もちゃんとくれる。心がすり減らないって、こんなに違うんだなと思った。
そして、もうひとつわかったことがある。
この宿、変わった客が多い。
こんなに辺鄙な場所にあるのだから、当然といえば当然なのだが……
例えば、今日の午前中に来た、旅人風の青年。背中には大きな荷物を背負い、ローブのすそが泥で汚れていた。
見た目はそこそこ爽やかだったのに、ドアを開けた瞬間、こう言った。
「道に迷って、2年間森をさまよいました。助けてください……」
どんだけ方向音痴だ。
「それは大変でしたね! ようこそ、ミレナへ。お疲れさまでした」
大変でしたね!で流していい話ではないような気がするが、エルさんは一切動じず、いつも通りフサフサの尻尾を振りながら優しい声で出迎える。
青年は宿の主がサモエドだったことに一瞬驚きながらも、すぐに安心したような顔になり、目に涙をためた。
青年はどうやら魔法使いらしい。杖を持っていたし、荷物の中には魔法書みたいな本が詰まっていた。方向音痴って、魔法ではどうにもできないんだな。
部屋に案内して、荷物を置いてもらい、俺は一息ついた。
青年の反応を見るに、サモエドが人の言葉を話すことは多少驚きはするものの、それほどあり得ないことではないらしい。
エルさんは人間と同じ食事を口にし、洗濯をしたり掃除をしたり、人間と同じように暮らしている。
エルさんって何者なんだろう。
夕方になり、ダイニングの準備をしながら、俺はエルさんに尋ねた。
「エルさんって、この宿、いつからやってるんですか?」
するとエルさんは、一瞬だけ遠くを見るような目をした。
「……そうですね。もう、何十年も前になります。気づけば、ずいぶん時間が経ってしまいました」
その口調に、少しだけ寂しさが混じっているような気がした。
どうして宿を始めたのかと尋ねようとしたが、魔法使いの青年がダイニングルームに来たので、それ以上は聞けなかった。
その夜、青年は風呂と食事を終えて、すっかり落ち着いた顔になっていた。エルさんの出したスープとパン、そして2年ぶりに食べる海鮮料理のアジフライに感動して、目をうるませていた。
「明日には街に向けて出発します。……でも、また来てもいいですか?」
「ええ、いつでもどうぞ。ここは、疲れた人のための宿ですから」
そう言って微笑むエルさんにつられて、俺もちょっとだけ笑った。
この世界はまだわからないことだらけだし、この先どうやって生きていくのかも正直不安だ。でも、ここにいていいんだと思えること。それが今は一番の支えだった。