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2 ここで働きませんか

「おはようございます、原田くん。よく眠れましたか?」


 落ち着いた声に目を覚ますと、昨日と同じふわふわ姿がそこにあった。小さな白い体に、くるんと丸まった尻尾。けれど、そこから発せられる落ち着いた声と気配はどこか懐かしくて、そのギャップに風邪をひきそうになる。


「あ、はい。ぐっすり……でした」


 言葉にして初めて気づく。どれほど深く眠ったのか。アラームも上司からの電話もない夜なんて、いつぶりだったろう。


「それはよかった。朝食をご用意しています。ダイニングへどうぞ」


 トコトコと歩くサモエドについていくと、案内された先は、昨日のロビーとは違う、木のぬくもりが感じられるダイニングだった。壁には絵画と乾燥ハーブが飾られ、窓からは森の朝日が差し込んでいる。


 テーブルには、焼き立てのクロワッサン、ポタージュ、カリカリのベーコンとスクランブルエッグ。香りだけで胃が目を覚ます。


「いただきます!」


 俺はいそいそと席につき、クロワッサンをひとくちかじった。生地が何層にも重なったサクサクの食感とともに、バターの香りが鼻を抜ける。思わず口角が上がってしまう。


 美味しすぎる……


 ひと通り朝食を堪能したあと、俺はサモエドにこの世界について尋ねた。


「……ここって、やっぱり、俺の知ってた世界とは違うところなんですよね?」


 サモエドは、ほんの少しだけ首をかしげてから、静かに答えた。


「そうですね。あなたの世界には、魔法はありましたか?」


 魔法、という単語に俺は息を呑んだ。


 サモエドは、テーブルの上に置かれていたティーカップを前足でそっと指し示す。するとそのカップが、ふわりと浮かび上がった。まるで重力を忘れたように、ゆっくりと宙を舞い、もとの位置に戻る。


 目の前で起きた出来事に、言葉を失った。


「これが、魔法です」


「ほ、本物だ……」


「これはほんの初歩の魔法ですから、練習すれば原田くんも出来ますよ」


 サモエドがやわらかく微笑む。


 俺、魔法使えるようになるの!?


 異世界かどうかの確認をするつもりが、思いがけない話に胸が高鳴る。誰もが一度は夢見たことがあるであろう魔法を、俺も使えるなんて!

 もう間違いない。ここは異世界だ。ファンタジーでしか見たことのないような、魔法が存在する世界。


「魔法があるってことは、元の世界に戻る方法もあるんですかね」


 期待するような俺のつぶやきに、サモエドはしばらく黙ったあと、静かに答えた。


「噂程度でしか聞いたことはありませんが、あるにはあるかと。ただ、相当な運と人脈。そして魔法が使えるようになる必要があったはずです」


 しばらくは難しいということか。部長、怒ってるかな。こんな時でも仕事のことを考えてしまうブラック気質の俺は途方に暮れ、ため息をついた。


 すると、サモエドがゆっくりと優しい声で言った。


「せっかくのご縁ですから。原田くん、ここ『ミレナ』で一緒に働きませんか?」


 ここで……?


 サモエドが続ける。


「ここには人間から魔族まで、さまざまな人が訪れます。ここで働きながら情報と協力者を集めたらいい」


「でも、そこまでお世話になるわけには――」


「嫌ですか?」


「こんな素敵なところで働けるなんて、嫌なわけないじゃないですか!」


「じゃあ、決まりですね。では、まずは掃除から始めましょう。意外とやることは多いですよ?」


「はいっ……あっ、はい」


 なんだその返事は、と自分でツッコミながらも、しっかりと頭を下げる。


 どうして何も持っていない自分に、ここまで優しくしてくれるんだろうか。そして、なぜサモエドが人の言葉を話せるのか。

 聞きたいことは山のようにあるが、この人――犬か、は信頼していい。それだけは確信を持っていた。


 まずはこの世界に慣れて、宿屋のお荷物にならないようにしよう。聞きたいことはタイミングを見て、ちょっとずつ聞いていけばいい。時間はいくらでもある。

 異世界での暮らしに、不思議と不安はなかった。


 こうして不思議な宿屋ミレナでの俺の生活が始まったのだった。

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