1 目が覚めたら、森の中でした
頭が割れるように痛い。
視界がぼやけて、息もうまく吸えない。
それでも、遠くで誰かが呼んでいるような気がして、俺は重たいまぶたを無理やり持ち上げた。
目を開けると、そこは静かな森だった。
緑の葉が風に揺れ、木漏れ日が地面にゆらゆらと落ちている。湿った土の匂いが鼻をくすぐる。
けれど、そんな自然の穏やかさよりも、まず俺の頭に浮かんだのはひとつ。
「……ここ、どこだ?」
原田裕也、22歳。
高専を卒業してすぐに就職し、営業マンとして、ここ最近は17時間労働の毎日だ。寝る間も、食べる間も惜しんで数字を追いかけてた。
今日も、ついさっきまで、誰もいなくなった真っ暗な会社の自席で経費処理をしていたはすだ。
夢でも見てるのか?
だが、夢にしては腕に刺さる小枝の痛みがリアルすぎる。スーツには泥がついていて、ネクタイはゆがんでる。スマホは見当たらない。
ただただ混乱しながら、とにかく森を抜けようと歩き出す。
1時間ほどさまよっただろうか。とっくに靴も泥だらけで、足は棒みたいになっていた。
そのとき。
ふわりと風が吹いて、どこからか懐かしい出汁の匂いがした。
「……え?」
腹が鳴る。鼻が勝手に匂いを追うように動き、足も自然と進んでいた。
やがて、木々の間から小さな建物が見えた。レンガと木でできた、赤い屋根の1軒の宿屋。
その入り口いたのは、真っ白でもふもふの、サモエドだった。
俺は思わず立ち止まる。
サモエドは扉の前に立ち、ほうきを器用に使って掃除をしていた。大きなふわふわの尻尾が揺れ、動きにはどこか年季を感じる落ち着きがある。
そして、俺の存在に気づいたのか、掃き掃除をする手を止めた――いや、手じゃなくて足か?
まぁそれはどちらでもいい。
「ようこそ、秘境の宿『ミレナ』へ。お疲れですね、旅のお方」
喋った。
今、確実にサモエドが喋った。
「へっ!?」
「どうぞ、まずは中でお休みを」
ぽかんと口を開けたままの俺をよそに、サモエドはにこりと笑い、流れるように中へと案内する。
中に入ると、そこはまさに癒しの空間だった。木の床、香る紅茶、静かに流れる水音。俺の知っている世界とはまるで違う。
ふかふかのソファに座らされ、湯気の立つ紅茶を手渡される。カップを手に取ると、カモミールの香りがふわりと広がった。
「落ち着きましたか、原田くん」
「……俺、名乗ってないですよね?」
「顔に書いてありますよ。『原田裕也です』ってね」
なんだそれ。
笑っていいのかどうかすら分からない。でも、なんだかもう、どうでもよくなっていた。
どうせ疲れすぎて夢でも見てるんだろう。夢の中くらい、ゆっくり休んでやろうじゃないか。
そこで再び、俺の落ち着きのない腹の音が響く。赤面していると、サモエドが何やら食事を持ってきてくれた。
「まぁ、腹が減ってはなんとやらと言いますから」
そう言って出してくれた夕食は、野菜たっぷりのスープと、炊きたてのごはん、そして脂の乗ったツヤツヤの塩鯖。
あまりにリアルな匂いに違和感を覚えながらも、夢だと思い込むことにして遠慮なく食事をいただいた。
まずはスープを手に取って、口に含む。
「……美味しい」。
涙が出そうになった。どこか懐かしい、胃に染み渡る味。こんなにあたたかいご飯を食べたのは、いつぶりだろう。
無我夢中でかき込み、ほんの10分ほどできれいさっぱり食べ終えてしまった。サモエドはそんな俺の姿を静かに見つめ、満足そうに尻尾を振っている。
「気持ちのいい食べっぷりで、作りがいがありますね」
「突然おじゃまして、その上こんなに美味しいごはんまでご馳走になってしまってすみません。なんとお礼をしたらいいのか」
慌てて礼を言う。
「お礼なんて気にしなくていいんです。疲れた体が癒えるまで、うちでゆっくり休んでください」
サモエドはそう言って、やわらかく微笑んだ。
腹を満たして正気を取り戻し、なんどか頬をつねってみたが、やはり夢から醒める気配はない。ここまで来るともう現実なのだと信じるしかなかった。
喋るサモエド、紅茶を入れるサモエド、ご飯を作るサモエド。どれをとっても俺の知っている現実世界では説明がつかないが、世界にはまだまだ俺がまだ知らないこともあるのだろう。
ひとまず謎の犬の言葉に甘え、1晩泊まらせてもらうことにした。湯船に浸かると、体中の疲れがじんわりとほどけていく。
その夜、俺は布団に入った瞬間、深く深く眠りに落ちた。上司に電話で起こされることも、メールの通知にビクつくこともない、静かな夜だった。
2作目です!
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