第三章:式子内親王の導き
三日目の夜が来た。
風は止み、隠岐の島には不気味なほどの静寂が広がっていた。
後鳥羽院は再び夢の中にいた。
望月の光が、白砂の浜を照らす。
波の音が遠くで響いていた。
その中に、一つの影が浮かび上がる。
「—— 帝よ、旅立ちの時が近づいております」
静かな声。女性のもの。
目を開くと、そこに 式子内親王 が佇んでいた。
彼女はかつての宮廷の姿ではなく、白い衣をまとい、穏やかに微笑む霊人の姿だった。月の光に照らされたその姿は、自らも 黄金のオーラ を放っていた。
彼女は、後白河天皇の皇女にして賀茂御祖神社(下鴨神社)の斎宮を務め、後鳥羽院の従姉にあたる。建仁元年に亡くなったので、既に38年が経過している。
「……式子」
後鳥羽院は息を呑んだ。
「お久しぶりでございます、後鳥羽院さま」
彼女はゆっくりと歩み寄る。
その姿はまるで、流れゆく水のように儚く、それでいて確かな存在感があった。
「なぜここに……?」
「あなたさまを導くためです」
彼女はそっと袖を翻し、懐から 和歌が記された紙片を取り出した。
「この歌を、お読みください」
玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば しのぶることの よわりもぞする
—— 命が絶えるなら、それでもいい。生き長らえれば、あなたを想う心が弱ってしまうから。
後鳥羽院の心が震えた。
「……これは……」
式子内親王が詠んだ、切なる愛と絶望の歌。
かつて宮廷に咲いた孤高の歌姫。
彼女が生前に詠んだその和歌は、時を超えて彼の魂を揺さぶった。
「あなたさまの『 魂の緒』が間もなく途切れようとしています」
「この世から旅立つ時が近づいているのです……」
後鳥羽院の声が詰まる。
「我は……怒りと……憎しみと……まだ死ぬことはできない……」
式子は微笑んだ。
「では、ご覧ください。これは、あなたさまが渡ることになる“川”でございます」
気づくと、後鳥羽院の目の前に大きな川が横たわっていた。
それは静かで澄んだ流れでありながら、底知れぬ深淵を秘めているように見えた。対岸には大きな柳の木が風に揺れており、その下に老夫婦が焚き火をしているのが見える。更にその先には桜の咲く丘 があり、霞がかった美しい景色が広がっているのだ。
「——あれは?」
「三途の川です、陛下」
式子内親王の声が聞こえた。
「この川は、魂が肉体から離れてあの世へ渡るための場所。しかし、あなたさまがどの道を進むかを選ぶことはできません」
後鳥羽院は、静かに式子を見つめる。
「……では、どう決まるのだ?」
「地上世界に生きていた時の思いと行いによって、渡り方が決まるのです」
その言葉が胸に重く響いた。式子は静かに川を指さす。
「三途の川の渡り方は四通り」
「一つ目は、水面を浮いて渡る道 。
心が清らかであった者は、風に乗るように渡ることができます」
「二つ目は、橋で渡る道 。
生前に善行を積んだ者には、黄金の橋が現れます」
「三つ目は、舟に乗って渡る道 。
生前、善業と悪業が拮抗していた者には、渡し舟が現れ、導き手が助けてくれることもあります」
後鳥羽院は、ゆっくりと川面を見つめた。
静かに流れる清らかな道と、光り輝く橋、そして舟——
しかし、そこにはもう一つの道があった。
「—— そして、最後の道があります」
式子の声が、一瞬だけ悲しげに響いた。
「それは 溺れながら渡る道 です」
後鳥羽院の目の前に、地獄の流れが広がっていた。
血のように赤く染まり、激しい渦が巻いている。
その流れの中には、無数の影があった。
手を伸ばし、もがき、悲鳴を上げながら沈んでいく魂たち。
「これは、この世の執着に囚われた者が進む道です」
式子の目が、深い哀しみを帯びる。
「名誉、権力、財産、怨念——
それらを手放せない魂は、この流れに飲み込まれるのです」
後鳥羽院は、深く息を吐いた。
「……ならば、我はどうすればよい?」
式子は、静かに微笑んだ。
「あなたさまの心がどう在るかによって、道が決まります。
それは この瞬間にも変わるもの」
彼女は、月を見上げる。
「陛下が心の澄んだ和歌を詠むことによって、
陛下の魂の波も、穏やかに変わっていくことでしょう」
後鳥羽院は、空を見上げた。
そこには、静かに輝く 満月 があった。
(つづく)