都会の森に硫黄が香る
「おい、おい、どうした?」
「え?」
「なにボーッとしてんだよ。頼んでたものは? ほら、早く出して」
「えっと……」
「やってねーのかよ。はぁ……マジなんなんだよ。眠くなるなら昼飯なんて食うなよな、はーぁ」
先輩はそう言うと舌打ちをして離れていった。眠く……なっていたのか。確かにボーッとしていた。寝起きのような感じだ。おれは寝ていたのか?
『ひどいですねぇ。あの言い方はないと思いますよ』
背後から声がし、おれは驚いた。後ろを振り返ると、そこには白衣を着た男がいた。おれが「誰ですか……?」と訊ねると、男は「わかってるくせにぃ」と言うように、ニヤリと笑った。ああ、確かにそうだ。おれはこの人に見覚えがある。
「えっと……そうだ、医者。ああ、先生じゃないですか」
『ええ、まあ。医者ではなく、心理カウンセラーですがね』
先生はそう言いつつ、何となく気まずそうに笑った。心理カウンセラーを名乗るのには国家資格が必要がない。先生もたぶん、資格を持っていないのだろう。だから、この先生は医者というものに対してどこかコンプレックスを抱いているのかもしれないと、おれは思った。
「でも、なんで先生がおれの会社のオフィスにいるんだ?」
先生はおれの質問に答えなかった。その必要がなかったからだろう。その答えは、もうおれの頭の中に浮かんでいたのだ。
――あんたは幻覚だな?
おれが先生を見つめながらそう思うと先生は頷いた。これが現実だと分かれば、職場で独り言などできない。見渡すと、すでに何人かがおれの方を向いて、怪訝な顔をしていた。彼らはすぐに興味をなくし、自分の仕事に戻ったが。
――なんで、あんたがここに現れたんだ?
おれがそう念じると、先生は肩をすくめた。さすがに「それは、あなたがイカれてるからですよ」とは言えないようだ。
でも、おれはラッキーだと思った。カウセリングに通い始めて確か……何回目だろうか。まあ、診察費用もバカにならない。金を払わなくて済むのなら、幻覚でも大歓迎だ。
と、おれが思うと、先生は困ったような顔をした。まあまあ、いいじゃないか。次に診察してもらう時は、菓子折りを持っていくから。しかし、我ながら大したものだと思っていいかは分からないが、忠実に作られているようだ。これは都合がいい。おれがカウセリングに通うのも、こうして幻覚を見ているも、十中八九、職場でのストレスが原因だ。それを先生に直接見ていただけるのだ。ただソファーに横になって、話を聞いてもらうよりも、よほど治療の役に立つだろう。
『ところで先ほど、あなたにひどいことを言っていたあの人。あれは誰ですか?』
おれは、おれの作り出した幻覚なのだからわかってるくせにと思った。しかし、ここは形式にのっとって、しっかりと説明した方がいいだろう。
――先輩ですよ。前に話したでしょう。
『ああ、あれが噂の。強者には弱く、弱者には強く、典型的なタイプですな。他の人にはあたりがいいんでしょうねぇ』
そうなのだ。だが、問題は他にもある。おれは背筋を伸ばし、三木さんのデスクのほうを向いた。
『ほぉ、美人ですなぁ。彼女とセックスしたいのでしょう?』
おれは思わず笑ってしまった。その表現はストレートすぎる。まあ、おれの幻覚なのだから、おれに遠慮する必要はないと思っているのかもしれない。
――違いますよ。美人は苦手なんです。
『ほう、それは、なんでまた』
その理由も何回目の診察か忘れたが、話したはずだ。でも仕方がない。繰り返し喋らせるのも治療の一環なのかもしれない。
――よく美人に冷たくされるんですよ。たぶん、小学生の頃からじゃないかな。
『ほう、それはどうしてだと思いますか?』
――さあ、たぶん変に意識して、そのせいで気持ち悪い感じになっちゃってるんじゃないですかね。
『あなたは自意識過剰なところがありますからねぇ。自然体で話せばいいのに、変にカッコつけたりしますよねぇ。それに、相手が自分に惚れてるんじゃないかと思ったり、変なところで前向きというか、都合よく考えてしまうんですよね。それで距離感を間違えたり、と』
――まあ、はい……。
『自分の見た目があまりよくないと自覚はあるが、それでいてナルシストな側面もあり、いやぁ、自己愛が強いのは他人から愛された経験に乏しいからでしょうかねぇ』
そう、美人に好かれないのは単純に、おれの見た目がよくないのもあるだろう。彼女と親しくなりたい気持ちはあるが、おれは昔から人に限らず、望んだものが手に入った経験がない。勝者側の人間を眺めることしかできなかったのだ。そして、それが当然なのだと……。
『だから、己の欲を押さえつけているのですね。恋に限らず、色々と』
それもまたストレスの一因なのだろう。先生はそう言いたげだった。
――そういえば中学生の時も失敗したなぁ。体育祭のリレーの練習中、バトンを受け取る場面で、おれにバトンを渡す子が美人だったから、おれはつい見惚れてしまって、それで……いや、あの、なにして
『いやぁ、美人さんですなぁ、う、う、う、うぅ!』
おれは驚いた。いつの間にか先生は、三木さんの前に行き、彼女の体に自分の股間を擦りつけていたのだ。先生はまるで芋虫のように体をくねらせて、彼女に体を擦りつけたまま、彼女の机の上に乗り、彼女の顔の前まで自分の股間を持っていった。
――駄目ですよ! あんたなにしてるんだ!
『あ、あなたは本当は彼女にこうしたいんだ! でも! それが! できずにいるから! わたしが、うぅぅぅぅぅおおぉぉぉぉ!』
「な、なにか用ですか?」
「え、いやあの、別に……」
三木さんからは当然、先生の姿が見えない。だから放っておけばいいのに、おれはつい席を離れ、彼女の近くに行ってしまった。
『ふぅ、イキましたよ。おや、呼ばれているみたいですよ。上司ですか?』
なんとも身勝手な人だ。おれは先生に呆れつつ、三木さんに軽く頭を下げて、上司のもとへ向かった。三木さんはおれが頭を上げた時にはもうおれを見てはいなかった。もしかしたら下げたところも見ていなかったのかもしれない。
「来たか。しかし、どうも君の顔は見ていて腹が立つなぁ」
『話の導入からパワハラですなぁ。これは逸材だ』
――いつものことです。
『こうしてやれればいいのに。この! このってね!』
「ふふっ」
「ん? なにがおかしいんだ?」
「あ、いえ、べつに、その」
「はぁ……その態度、どう生きたらこんな社会性も何もない人間に育つのかねぇ」
『どう生きたらこんなに禿げ散らかすのかねぇ』
――ちょ、ちょっと、やめてくださいよ!
先生は上司の髪を毟る真似をした。他にも、殴りつけたり、また顔に股間を当てたりとやりたい放題だった。
おかげでおれは笑いを堪えるのに必死で、上司の話が頭の中に入ってこなかった。「もう行けと言っているだろう! ほら行きなさい!」と、どうやら何度か席に戻るように言っていたらしい。おれは頭を下げて、自分の席へ戻った。
――ああいうことは、もうやめてくださいよ……。
『でも、ああしたかったんでしょう? 鼻を殴り、悲鳴を上げるあの男の胸ぐらを掴み、眼鏡を叩き割り、割れたレンズを眼球に押し込んで股間を蹴り上げて、倒れたところを後頭部を蹴り上げ顔面を踏みつけて、ああぁ、やってやればよかったのに。誘ったでしょう? ああ、あなたは幼い頃、大人の男性に理不尽な怒鳴られ方をし、それが原因で恐怖心を抱いている。それと同時に憎しみも。しかし、その屈辱を晴らす機会に恵まれず、あなた自身も大人になってしまった。そして社会のルールに縛られ――』
仕事を終え、会社を出た後も、先生はおれが本当はこうしたいんだと言っては、おれの精神分析を始めた。
『うるさいガキが歩いてますねぇ。ほら、引き倒したらどうですか? あなたは子供を嫌悪している。それはあなたが幼い頃、いじめられたからです』
『この社会のことも嫌悪している。あなたをいじめた連中が大人として普通に生き、迎え入れられているこの社会がどうしようもなく気持ちが悪いんだ』
『本当は自分はその連中とは別のステージで生きたい』
『芸能界や、何か一芸に秀で、それを認められる世界に』
『でも、あなたは何の才能がない』
『あなたは昔あった嫌なことをよく思い出しますよね。ふとしたことで、連想して。日々の生活があなたにとってはまるでトラウマの地雷原ですね。普通の人なら忘れちゃうのに、繰り返し思い出すせいで、いつまでも忘れられない。生まれつき、生きにくい性格なんですよ』
『悲観的だが、時に楽観的でもある。だから馬鹿を見る』
『線路。近いですね。ホームと地続きのようだ』
『ほら、前に出てみたらどうですか? 大丈夫、落ちませんよ』
『あなたは死にたいのではない。生きたくないのです』
『ほら、簡単な方法がありますよ』
『そうです。ああ、いいですよ。さあさあ』
悲鳴が上がった。一瞬、静寂が訪れ、また少しずつざわつきが広がっていった。しかし、おれはその中にはいなかった。「押した!」「あいつだ!」「逃げた!」という声が上がった時には、もうおれは階段を駆け上がっていた。
やった、やってしまった。でも違うんだ。おれは先生を押したつもりだったんだ。うるさく言うから。だから、先生のせいなんだ。先生が悪いんだ。先生が、先生、先――
駅から出たおれはあの精神クリニックを目指して走り続けた。しかし、ようやくたどり着いた精神クリニックが入っているはずの建物はどうみても廃ビルにしか見えず、施錠されていた。
おれは窓ガラスを割り、中に入った。だが、やはりただ今日が休みというわけではなさそうだった。階段を上がり屋上へ行った。鋭い音を奏でる風が、どこからか硫黄のような嫌な臭いを運んできた。
このビルのはずだが、よく思い出せない。おれは本当に精神クリニックに通っていたのだろうか。
もしかしたら、あの先生は悪魔だったのではないだろうか。……だからそう、悪魔のせいだ。先生のせいだ。悪魔の、先生の。
――他責思考は幸せを生みませんよ。
今の声は、おれのものだろうか。
先生はおれなのだろうか。
今聞こえるこの笑い声は誰のものなのだろうか。
おれにはわからない。ただ、自分のせいだと思うと少しだけ楽な気分になり、柵を乗り越えることに抵抗を感じなかった。