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克樹と上田の事件帖 その一 再会と怪盗シグマ

作者: 月沢あきら

 飛行機が成田空港に着いた。

 彼は半年ぶりに日本の土を踏んだ。と言っても実際はコンクリートの地面であるが。

午前11時。乗り継ぎを含め20時間のフライトの末、ようやく日本に降り立った。何度乗っても慣れることのない飛行機のランディング。タッチダウンの衝撃から、舗装の悪い滑走路ををガタガタ進み、機体が止まるとほっと息を吐き出した。彼は頭上の荷物入れから小さなボストンバッグとカメラを入れた重い耐水性バッグを取り出し、足元のデイパックと三脚を背中に担ぐと飛行機を降りた。

 日本人離れした褐色に日焼けした肌。頑丈そうな太い黒いフレームの眼鏡もキズが多い。色褪せあちこちほつけたデニムのパンツと、同じく色褪せよれよれになったダンガリーシャツ。底が擦りきれたスニーカー。それらは彼が長い旅をしてきたことを物語っている。髪はぼさぼさでで髭も伸び放題。ホームレスのような格好の彼は、それを気にするでもなくゲートに向かった。入国手続きで胡乱な目で見られ、眼鏡を外し、前髪をかき上げ笑顔を見せる。怪しそうな目をされながらようやくパスし、やっと日本に入国できた。

 外した眼鏡をかけ直し、デイパックを背負うと慣れた様子で到着ロビーからバス乗り場に向かう。空港内には大勢の人が行き交っている。大きなトランクで覚束なく歩くインバウンドの人の間を縫い、バス乗り場に向かっていた彼は、トイレの表示を見つけ中に入った。三つある小便器は二人の先客が左右で用を足していた。その間に立ち、荷物を背中に回すと用を足す。右側にいた人物が先にそこを離れ、後ろの手洗い場で手を洗う。左の男も同じように手を洗う。その時、小さな雑音がした。二人は瞬時に反応した。彼らの耳にはイヤホンが装着されている。手を口元に持っていき何か一言呟くと、横目で見ていた彼に鋭い一瞥をくれ、足早に出て行った。一人残された彼はゆっくり手を洗うとトイレを出た。そして先ほどよりゆっくり歩を進めながら、周囲に視線を走らせた。すると辺りには先ほどの二人と同じ警察の人間とおぼしき男達があちこちに見うけられた。

「何の事件だろう。空港に張り込んでいるって事は麻薬の密輸…」

彼が妄想のような考えを巡らせて歩いていると、左前方に見知った顔があった。

 その男は吹き抜けの下へ通じるエスカレーターの横のガラスの柵の所に立っている。すらりとした長身に端正な顔立ち。細身のスーツが似合っていて、モデルといっても通用しそうだ。だが鋭い眼光がそれを裏切っている。その男も手を口元にやり何か喋っている。男の様子を見ていた彼は懐かしさに思わず声を出した。

「上田さん!」

 呼ばれた人物はパッと顔を上げると彼を見返した。記憶を手繰る。だが上田の記憶バンクにヒットする人物は見当たらなかったようだ。表情を曇らせると首を傾げた。

彼は笑って「上田さん、僕です」と近づいて行った。その声には聞き覚えがあった。

「まさか。北山さん?」

彼の名を呼んだ。北山克樹は大きく頷いた。上田は克樹を上から下まで見るとやや遠慮がちに

「ずいぶん雰囲気が変わられましたね」

と言った。「野性味が増したというか…」

克樹はアゴひげを撫でながら「小汚なくなっているだけですよね」と笑った。

「ああ。でもその笑顔は前のままですね」

上田も昔のままの人を安心させる笑顔を見せた。その時、小さな雑音がした。上田は克樹を手で制し、イヤホンからの声に集中した。

「すみません。行かないと。良かったら電話下さい。番号は変わっていません。積もる話はまた」

早口に告げると急ぎ足でその場を離れた。克樹は後ろ姿を見送り、三年前のことを思い出した。

 上田は、克樹が巻き込まれたある事件の捜査を担当してくれた刑事の一人だった。上田の熱意や誠実な考え方は、克樹に勇気をくれた。だが。克樹はそこから逃げたのだ。再会は嬉しかったが、醜い自分を呼び戻した。いや。違う。あれからずっと逃げ続けているのだから。その時館内アナウンスが離陸時間の迫った飛行機の搭乗案内を告げた。克樹は我に返るとバスターミナルに向かって歩き出した。




 その夜、克樹は池袋駅の東口の前で上田を待っていた。無精髭はきれいに剃られ、髪も短く散髪し、服はきちんと洗濯をしてアイロンをかけたブルーのストライプのシャツと色落ちしていないジーンズで、昼間とは別人のようにこざっぱりして見えた。だが日焼けした肌だけはそのままなので、一見したところでは日本人に見えないのは変わらない。克樹は腕時計を見た。約束は8時だがまだ上田は来ない。

 8時15分に上田は現れた。こちらは昼間と同じ格好だ。克樹が手を上げると人混みをかき分けるように走り寄った。

「すみません。遅くなりまして」

「いえ。急にすみません」

「また印象が変わりましたね」

克樹は顎をなでた。

「家に帰ったら母に汚なすぎだと。家に上がるなと言われて。それでそのまま散髪に行って髪を切って、髭をあたってもらったんです。散髪屋さんにこんなに無精髭が伸びてる日本人はそういないって文句言われました」

上田は面白そうに笑った。「じゃ行きましょうか」

上田は克樹を案内するように少し前を歩いた。交差点を渡り、飲食店が立ち並ぶ通りの中にある和風の居酒屋に入る。

「ここは魚が美味いんです」

店の壁には造りや焼き魚、寿司などを書いた貼り紙があちこちに貼られている。間にビールの広告もあり、にぎやかな雰囲気だ。

「いいですね。久しぶりだし、嬉しいな」

壁のあちこちに目をやり、弾んだ声で言った。

「そうだろうと思ってここにしました」

上田はスーツを脱いで席に座った。克樹はおしぼりを渡してくれた店員に「生ビール」と言った。食い気味の反応に笑顔を見せると、「私も」と言ってネクタイを緩めた。すぐに生ビールが二つと付き出しの枝豆が運ばれてきた。ジョッキも冷やしてあり、外側に霜が付いている。「乾杯」グッとあおるとキンと冷えたビールが喉を滑り落ちていく。

「はあ。美味い。やっぱりビールは日本が一番美味い」

上田はははと声を出して笑った。

「本当に久しぶりですね。あれから、三年くらいたちますか。その様子だとずいぶん前と違う生活をされているようですが」

 まじまじと克樹の顔を見つめた。上田と出会った頃の克樹はサラリーマンで、どちらかといえば線の細い、都会でしか暮らせないようなタイプの人間だった。だが今の克樹は肩幅も広く、腕も太くなっていて、強い目の光は生命力があふれている。克樹は日焼けした頬を撫でた。

「そうですね。実は、あの後すぐに会社を辞めて日本を離れたんです。その時に携帯電話も解約して。上田さんに挨拶できないままだったこと、ずっと心に引っ掛かっていたんです」

「そうでしたか。それで今日も固定電話から連絡くれたんですね」

「ええ。家から電話しました」

 造りの盛り合わせが運ばれてきた。鯛とマグロの赤身、アジのなめろうがシソの上に乗っている。克樹はアジのなめろうに手を伸ばした。新鮮なアジのこりっとした食感に味噌と大葉が効いている。「美味い」笑みがこぼれる。上田も鯛を口に運んだ。

「気にいってもらえたみたいで良かったです」

「すごく美味しいです。海外ではあまり魚を生で食べる習慣がないんです。海が遠い土地とか新鮮な魚が手に入らないという事もあると思うんですけど。やっぱり日本はいいですね」

「そうですね。あれからずっと、海外で生活なさってるんですか?」

「いえ。ずっとではないんですが。行ったり来たりです」

ビールをグッとあおると眉を下げた。

「あの頃。僕はとてもひどい事をしていたんです。でもなんとかそれを償いたくて」

上田も箸を置いた。

「自分なりに決着をつけようと思ったんですけど。でも結局はもっとひどい事をしただけで。その上、日本から逃げ出しました。卑怯でクズな人間です」

「北山さん」

「それで。やっぱり逃げ続けているのはもう限界だと思って、去年日本に帰ってきた時に彼女達に会いに行ったんです」

「彼女、達?」

克樹は自分の腹をかきむしるような仕草をした。

「二股を…」

上田は息を吸い込んだ。「なるほど。それはいけませんね」

「そうですよね。それで…やっと去年、二人に、もちろん別々にですが、謝りに行ったんです」

「そうでしたか。それで、許してくれましたか?」

「ええ。二人とも、結婚していました」

克樹は恥ずかしそうに耳の後ろを掻いた。

「それはそれは」

「何だか、自意識過剰みたいで恥ずかしかったです」

上田は酸っぱいような顔をした。

「まあ、でも良かった…ですよね?」

「ええ。まあ。少しは罪悪感からは脱却できました。とはいえ、最低な行動だった事にかわりはないんで

すが」

「そうですか。それで、今はどこの国に住んでいらっしゃっるんですか?」

「どこという決まった国にいるわけではなくて。世界のあちこちを旅して歩いているんです」

「そうでしたか。それで、今はお仕事はされていないんですか?」

上田の質問に克樹はちょっと照れくさそうにビールを飲んで、咳払いをした。

「まあ、なんというか。…写真を…」

「写真?」

 克樹は持っていた鞄の中から一冊の雑誌を出すと上田に見せた。それはビジネスマン向けの月刊の情報誌だった。中央あたりを開き、二三ページめくる。そこにはヨルダンのペトラ遺跡の写真が掲載されている。写真の紹介の短い文章の記事の最後に、『写真と文-北山克樹』とある。

「へえ」

克樹の見せた雑誌を受け取り、目を通した上田は感嘆の声をあげた。

「すごいですね!芸術家じゃないですか」

克樹は飲みかけのビールを吹き出しそうになってむせながら慌てて手を振った。

「とんでもない!そんなたいしたものじゃないです。必要にかられて、というか」

大仰に手を振る克樹だが、上田は感心した様子で雑誌を仔細に眺める。

「それで、世界中を写真に収めて回っておられるわけですね」

「いやあ」克樹は頭を掻いた。

「逆なんですけどね。遺跡を見て廻りたいんです。でもそれだけじゃあ収入がないんで、じゃあ写真を撮ってそれを商売にできないかって。旅をするようになってからカメラを買って、写真の勉強も始めたんです」

「それはすごい。そういえば成田でお会いした時も、大きな荷物に三脚とかお持ちでしたね。でもそれが軌道に乗っているということは、才能があったということですね」

「いやいや。とんでもないです」

上田はもう一度しげしげと雑誌を眺めた。

「その写真は前回日本に帰ってきた時に売り込んでいたものなんですけど。今日見本刷りが上がると連絡いただいたんで、日本に帰ってきたんです。それで、散髪に行った後その雑誌社に行って一部もらってきたんです」

「そうですか」

上田は感心したように何度も頷いて雑誌を見ていたが、名残惜しそうに閉じると克樹に返した。

「これ、いつ発売ですか?私も一冊買わせていただきます」

「いえ。とんでもない。見ていただけるなら差し上げますよ」

「それはいけません。売り上げが減ってしまうじゃないですか」

「変な譲り合いですね」

二人は声を出して笑った。上田はジョッキを空けるとおかわりを頼んだ。

「それで、今回はどちらに行ってらっしゃったんですか?」

「直近でいたのはトルコです。トルコの南西部にリュキア遺跡というのがあるんですが、そこにいました」

「全く聞いたことのない名前です。浅学で申し訳ありません」

 上田は頭を掻いた。克樹はそんな上田を好ましく思った。彼は以前と少しも変わっていない。正直で飾らない。

「トルコは古来から西洋と東洋の中間地点として栄えてきました。ほら、シルクロードとかよく聞くでしょう?その中継地だったんで交易で莫大な財を成した場所が幾つもあって、遺跡も沢山あるんです」

「へえ。そうなんですか?その、リュキア遺跡?もその一つなんですか?」

「ええ。アジアと西洋、二つの文化の交流点だったトルコには、二つの文化の混ざりあった独特のものが多くあるんです。リュキア遺跡は日本ではまだあまり知られていない場所の一つです」

「そうなんですね。私はこういう方面には本当に疎くて」

また頭を掻きながら上田は言った。

「それより、上田さんの話も聞かせて下さい。上田さんって、捜査一課でしたよね?殺人事件とか捜査する…今日空港にいらっしゃったという事は成田で殺人事件でもあったんですか?」

克樹は雑誌をカバンにしまうと、タコとキュウリの酢の物を頬張り、パリパリと噛み砕いた。

「いえ。実は所轄署から異動になりまして。今は警視庁の捜査二課にいます」

「捜査二課?」

「窃盗とか強盗とか。そういう犯罪を担当しています」

「そうなんですか」

 警察内部の事情はよくわからないが、捜査一課がエリートだという認識はあった。だが、所轄から警視庁に異動というのは栄転なのか?と考えたが、正面きってその事を訊ねるのははばかられた。

「それで、今日はどうして成田に?」

上田はちょっと眉を寄せると「すみません。それは話せないんです」

「そりゃそうですよね。捜査上の秘密ってやつですね」

上田は苦笑いだった。

「二時間サスペンスとかご覧になるんですか?」

「いや。ドラマはあまり見ないんですが。横山秀夫さんとか誉田哲也さんみたいな、警察小説とかは時々読みます」

「警察小説、ですか」

「ええ。その中では警察の方は捜査内容を絶対明かさないんです」

上田は頷いた。克樹はニヤリと笑う。焼きたてでまだぷしゅぷしゅと脂がはじけているホッケが運ばれてきた。克樹は早速身をむしると口に放り込んだ。

「美味しいな。久しぶりに日本の味です」

「良かった」

克樹は通りかかった従業員に生ビールを頼むとまたホッケに箸を伸ばした。

「北山さんの旅の話を聞かせて下さい。何しろ一度も日本から出た事がないんです」

「え!そうなんですか」


 こうして久しぶりの日本での夜は楽しく更けていった。


 翌朝。克樹は7時に目を覚ました。昨夜帰ってきたのは遅かったが、旅ではいつも早起きが基本だ。おかげで朝は早く目が覚める。今日はいつもより遅いくらいだ。

 階下で父の博明が出勤していく様子が聞こえてきた。枕元の眼鏡をかけると階段を降りる。

「おはよう」

 玄関から出ようとしていた博明に後ろから声をかける。博明はちらっと振り向くと「うん。行ってきます」と出かけていった。克樹はダイニングに入った。

「おはよう」

「あら。早いじゃない」

「うん。仕事があるから」

「そう。ご飯食べる?」

「お願いします。顔、洗ってくる」

 克樹は洗面所で顔を洗い、歯を磨いた。ダイニングに戻ると、静子がなめこの味噌汁と白いご飯、目玉焼きを用意していた。すべてが温かく、湯気を放っている。克樹は深呼吸した。

「ああ。やっぱり日本はいいなあ」

静子は吹き出した。

「なあに。その言い方。昨夜はずいぶん遅かったみたいだけど、よく眠れた?」

克樹はダイニングの椅子に座り、両手を合わせると茶碗を持った。

「よく寝れたよ。やっぱり家はいいなあ。ちゃんと屋根があって布団と枕があって」

「え?いつもそんなひどい所にいたの?」

「まあ。たまにはね」

静子は不安そうに克樹を見たが、その事には触れなかった。

「じゃあ、私はパートに行ってくるから。片付け頼むわよ」

エプロンをダイニングの椅子にかけると、出かけていった。

 克樹はTVを付け、朝の情報番組を見ながら朝食を食べた。食事を終えると食器を流しに運び、両親の分も一緒に洗い物をする。TVではニュースが流れている。

「…といういたずらと思われる封書が警察や美術館に届いています。警察は愉快犯と見て捜査をしていますが、犯人に繋がるものはまだ何も掴めていないということです。なお、この怪盗シグマを名乗る犯人からの予告状は…」

 洗い物を終えた克樹はTVを消した。あくびを一つして身体を伸ばす。もう一度眠りたい欲求にかられるが、寝ている場合ではない。部屋に戻るとパソコンを立ち上げた。そこにUSBを差し込むとデータを開いた。旅先で撮影した写真のデータを整理しなければならない。項目毎にファイルを分け、色調を調整し、トリミングしたり、肝になる写真にタイトルを付けたりと、やる事はいくらでもあった。出来上がった写真に短い紹介文を付け、契約している幾つかの出版社に持っていく。

 写真は大きな仕事なら雑誌の特集記事に、小さなものなら旅行会社のツアーパンフレットやガイドブック、教科書などの写真として掲載される。そしてそれに応じた掲載料が支払われる。

 克樹は何時間も一心不乱にパソコンに向かっていた。と、一通のメールを受信した。「誰だろう?」パソコンのメールアドレスを知る者は数少ない。送信者のアドレスを見るが覚えのないものだった。迷惑メールかと削除しようとしたが、件名を見ると『上田肇です』とあった。開いてみると携帯から送信しているらしい。昨日の挨拶とメールアドレスを知らせる内容が短く綴られている。最後は「また機会があれば飲みに行きましょう」と締めくくられていた。克樹は微笑んで手帳にアドレスを書き写した。携帯を所持しなくなってから、電話番号やアドレスはすぐ手書きで手帳に控える習慣がついた。海外からでもパソコンが使える環境であれば、メールを送ったりできるようにとすべて書き写している。克樹が行く場所は携帯も使えない所も多いし、パソコンなど望むべくもない環境も多い。

だが。そろそろ携帯のない生活は限界だろうか。と自問自答する。手帳を閉じると文章を打ち込み返信する。『良ければ住所も教えて下さい』と添えておいた。パソコンや携帯は通じない場所でも、葉書ならすぐ書ける。一方的な連絡手段だが、克樹はその場にある写真の裏に短い文章を書き、葉書として送ることも多かった。ただ、相手には届いていない場合も多いが。治安や交通網が確立されていない地域からは、郵便物が届くことはまれのなのだ。

 メールの受信画面を消すと、またデータの整理に没頭した。


 どこからか声がする、と思ったらガチャリと部屋のドアが開いた。

「いるんじゃない!返事くらいしなさいよ!こんな暗い部屋で電気も付けないで」

静子はドアの右にあるスィッチを入れた。パッと周囲が明るくなった。克樹は眩しさに目を細め、立ち上がった。身体を伸ばしたり、横に曲げる。

「おかえり。ああ。もうこんな時間か」

壁の時計を見ると夕方の6時を過ぎていた。窓の外はラベンダー色に染まっている。窓を開ける。

「晩御飯、何、食べる?」

静子の言葉に、昼を食べていなかった事に気がついた。と、猛烈な空腹感が襲ってきた。

「腹減ったあ」

静子はあきれて「たまに帰ってきたと思ったらそれですか。いいご身分ですこと」と笑った。克樹は「手伝います」と慌てて言った。

「あらま。珍しい。雨でも降らしたいのかしら?」

「いや。座ったままご飯食べるだけなんて贅沢だって事が、海外にいるとよく分かる。だから」

「じゃあ、お願いします」

克樹は静子と並んで台所に立った。「さて。何からすればいい?」

覚束ない手付きの克樹に母は辛抱強く付き合ってくれた。出来上がる前に父が帰ってきたが、母に台所から追い出され、缶ビールを飲みながら待っていた。

「母さん、改めて尊敬します」

やっと食卓に三人並んで座った克樹は、ビールを飲み干して言った。

「これから精進して下さい」

静子は肩をそびやかして言った。克樹は平伏して「よろしく」と笑った。



 それから三日間、克樹はろくに外出もせず、写真のデータ整理と資料作成に明け暮れた。合間に食事の支度の真似事もしたが、それはいい気分転換にもなった。

 それが一段落つくと、今度はあちこちの出版社に電話をかけた。アポイントを取り、写真と短い記事の売り込みに行くのだ。昼間は出版社を回り、帰りに本屋に寄る。旅行雑誌をあさり、夜はデータ整理と次の旅先の準備。渡航先の勉強をする。

 その日、朝から二つの出版社を回り、帰りに警視庁のある桜田門駅近くを通りかかった。ふと思いついて有名な扇型の建物を見に行った。前に立ち、見上げる。迫力のある建造物だ。上田はここに異動になったと言っていた。

「何かお困りですか?」

声に振り返ると、まだ若いパンツスーツ姿の女性が立っていた。曖昧に頭を下げる。

「どうされました?」

重ねて訊いてきた。

「いえ。用事はないんです。知り合いの刑事さんがここに異動になったって言ってたんで。たまたま通りかかったんですけど、どうしてるかなあって」

女性は歩み寄ってきた。少し頭を傾け「そうですか。あなたも警察関係の方?」

「いえ。全く違います。以前、ある事件でお世話になって」

「そうでしたか。もし良ければご案内しましょうか?当人の手が空いていれば会えると思いますが」

克樹は慌てて手を振った。

「いや、そんな!わざわざお仕事中にお邪魔するわけには…という事はあなたもここの方?」

「ええ」

スーツ姿の小柄な女性は警察官というには不似合いな気がした。

「刑事さん?」

彼女は笑って首を振った。

「車輌課で勤務しています。事務職員です」

「事務職員?警察に、警察官以外の方がいるんですか?」

「ええ。沢山いますよ。普通の会社と同じです。経理とか総務とか」

克樹は感心しきりで

「そうなんですね!あなたのお仕事は具体的にどんなお仕事なんですか?」

「刑事さん達の車の手配です。まあわかりやすく言うと会社内のレンタカーみたいな」

克樹が具体的にイメージ出来ず首を傾げると

「警察にある車輌ってどんなものだと思います?」と訊いてきた。

「そりゃパトカーですよね?」

「ええ。一般的には白と黒に塗り分けられた、いわゆるパトカーがメインですけど、それ以外にも色々あります。バイク、白バイと言われるものやミニパトカー、通常車輌、覆面パトカーと言われるものもあります」

「ああ」

 克樹は頷くと敷地内に止められている車を見た。紺やシルバーといった地味な色の普通車が多かった。

「僕も一度覆面パトカーに乗せてもらった事があります」

彼女は意外そうに瞬きをしたが、その事については何も言わなかった。

「ここに止めてあるものは個人所有の車輌も多いですけど。車輌はすべて一括で管理していて、どこの部署に何台という風に割り当てられてはいないんです。予算の関係で。それで使用する際に、例えば今日は飲酒検問で何台使用します、とか申請して貸し出すという形になっているんですが。大きな事件とかあると皆が使うんで、それを管理調整しているのが私の仕事です」

「それで、社内レンタカー」

「そうです」彼女は笑顔で応えた。

「それで、車輌が足りない場合はどうなるんですか?」

克樹の質問に、彼女は止めてある普通車輌を差した。

「個人の車輌で現場に行ったり、という事になりますね。その場合は個人車輌を使用する届けがいるんですけど。それは守られていない事が多いんです」

「へえ」

感心したように克樹が何度も頷いていると

「こら!部外者に何を話している!」

と声が飛んできた。彼女は首をすくめ、克樹とともに声のした方を振り返った。そこには40がらみの小柄な男性と、30過ぎくらいのがっしりした体格の男性が歩いていた。声を発したのは若い方の男であるようだった。二人ともスーツ姿である。

「警察内部の事をむやみに喋るんじゃないぞ」

彼は幾分笑いを含んだ調子で言った。彼らは警視庁に戻ってきたところらしい。聞きこみの帰りなのかと克樹がぼんやり考えていると、

「違いますよー!」ふくれた声で彼女が言った。その声の調子で顔見知りなのだとわかった。

「この方が知り合いが警視庁で働いてるっておっしゃるから」

立ち去って行く後ろ姿にそこまで喋った時、若い方の男が振り返った。立ち止まり、しげしげと克樹を見る。年配の男は「先行くぞ」と建物の中に消えていった。それを目の端でとらえながら、克樹は首をひねった。目の前の男に見覚えがあるような気がしたからだ。

「えーと。どこかでお会いしたこと、ありますよね?」

「北山さん。北山さんでしょう?」

克樹の言葉に被さるように彼が言った。克樹は目を丸くした。

「あ、もしかして」

「白川です。上田さんと一緒にあなたの事件を担当していた」

「白川さん」克樹の脳裏に当時の事が鮮やかに甦ってきた。と同時に白川の顔もはっきりと思い出せた。

「あの時はお世話になりました」

頭を下げる。白川は上から下まで克樹を見ると「ずいぶん印象が変わられましたね」と言った。

克樹は苦笑いを浮かべた。

「上田さんにも同じ事を言われました。いや。上田さんは僕だとわからなかったんですが。白川さんはよく気付いてくれましたね」

日焼けした顔を撫でながら言う。

「自分は人の顔を覚えるのが得意なので。警察官に必要な要素でもあります」

そんな二人のやり取りに退屈したのか

「あの!私、戻りますね」

彼女が割って入った。頭を一つ下げ、歩き出した。

「高峯さん!」

白川は庁内に入って行く彼女を呼び止めた。

「盗犯課の上田さんが手が空いてそうだったら、北山さんがお見えですと伝えてもらえますか?」

「はあい」ゆるい返事を残して、彼女は戻っていった。その後ろ姿を見送ってから視線を戻し

「という事は、上田さんには最近お会いになったんですか?」

「ええ、先週。偶然成田空港で再会しました。その時の僕は無精髭だし、頭もボサボサで。上田さんは僕が誰だかわからなかったんです」

克樹はその時の上田の顔を思い出して笑った。「すごくビックリされて」

「そうですか」

「白川さんも今は警視庁に?上田さんと同じ部署ですか?」

白川は首を立てに振り、そして横に振った。

「ええ。自分は最近異動になったんですが。課は違って、自分はマタイという課に所属しています」

「マタイ?」

「麻薬取り締まりです」

「そうなんですか。この前、お仕事中の上田さんにお会いしたのが成田空港だったんで、上田さんがそういう課にいらっしゃるのかと思ったんですけど、違ってて」

「そうですね」

話している時に白川の内ポケットから振動が聞こえた。白川は「失礼」と言って携帯を取り出した。表示を見て「上田さんです」と告げ、電話に出る。

「はい。白川です。はい、はい。ちょっとお待ち下さい」

白川はそのまま携帯を克樹に渡してきた。克樹は受け取ると電話に出た。

「お電話代わりました。北山です」

二言三言受け応えすると電話を切り、白川に携帯を返した。

「ありがとうございました。今はお忙しいみたいで。また飲みに行きましょうという事でした」

「そうですか。わざわざお越しいただいたのに申し訳ないです」

「いえ。今日は偶然通りかかっただけなんで。じゃあ失礼します。久しぶりに白川さんに会えて嬉しかったです」

白川は目を細めると

「そう言っていただけると。今度上田さんと飲みに行かれる時はぜひ自分も誘って下さい」

「ええ。ぜひ」




 家に帰ると静子が夕食を用意してくれていた。今日のメニューは煮込みハンバーグだ。克樹の子供の頃の好物だ。「もう少しだから待ってて」静子は忙しそうに台所を動き回っている。手を洗った克樹は「何かする事ある?」隣に立った。

「テーブル拭いて、グラスとお皿出して。それとご飯炊けてるから、ほぐしてお茶碗によそってちょうだい」

 克樹が言われた事をしていると、「お味噌汁もね」と声が飛んできた。味噌汁を注いでテーブルに置くと、冷蔵庫からビールを出した。座って、グラスに注ぐ。静子がハンバーグを乗せた皿をそれぞれの目の前に置いて克樹の斜め前に座った。静子が無言でグラスを出してきたので、ビールを注ぐ。

手を合わせ「いただきます」と、二人でグラスを上げた。冷たいビールが喉を通る感覚は格別だ。

「はあ。うまい」

じゃがいもやにんじん、玉ねぎをトマトソースで煮込んだところにハンバーグも一緒に入れて煮込んだこの料理は、克樹の子供の頃からの好物だ。「うまい」克樹が言うと静子が嬉しそうに「久しぶりに作ったわ」と、自分も食べ始めた。

「親父は?」「遅くなるって」


 食事を終えると部屋に戻って、パソコンを起動した。満腹になった腹をさすりながらファイルを開くと、作成した資料のタイトルを見る。今日売り込みに行った二つの出版社は、どちらも記事を掲載してもらう契約が取れた。その二つのデータを掲載済みのファイルに移動する。克樹は上機嫌で作成中のファイルを呼び出した。明日訪問する別の出版社にプレゼンする資料を仕上げなければならない。メガネを外し、目薬を差すと記事を書く。

 一心不乱にパソコン画面を見つめ、時にはパソコンの辞書を引き、記事を仕上げ、写真を取った場所の地図をプリントアウトする。一段落つくと、ようやく椅子から立ち上がった。時計を見ると午後10時を過ぎたところだ。克樹は伸びをし、肩や腕を回した。メガネを外し、目薬を差す。「そうだ」カバンの中から今日契約してきた携帯を取り出す。充電コードを差し込み、コンセントに繋ぐとメールアドレスや指紋認証を設定し、いくつかのアプリをダウンロードした。「よし」またパソコンにむかうとメール作成の画面を呼び出し、各出版社の担当者宛にメールを作成し、それに携帯電話の番号とメールアドレスを添付して送信した。

「そうだ」と呟くと、上田にも携帯を買った旨と番号を記し送信した。もう一度腕と肩をほぐし、パソコンの電源を落とすと風呂に入る事にした。日本ではいつでも熱い風呂に入れる。それをしみじみありがたいと思った。


 翌日、克樹は朝から出版社の訪問をしていた。朝一で約束しているのは京陵社という出版社だ。子供向けの教育誌を主に作っている。会社の入っているビルの三階に到着すると、「おはようございます」と周囲に挨拶し、机の間をぬって克樹を担当してくれている石沼のところに行く。資料や校正された原稿が山積みになった机に埋もれるように、石沼が記事に赤で修正を入れている。

「おはようございます」

克樹が遠慮がちに声をかけるとパッと顔を上げた。

「ああ。北山さん。こんにちは。どうぞ」

山のような紙の間を抜け、申し訳程度に置かれた窓際の長机に案内する。そのテーブルの端横の棚には14インチのテレビが置いてあり、付きっぱなしのテレビからは昼のニュースが流れている。”怪盗シグマを名乗る犯人からの…”ブツッと電源が切れた。石沼はリモコンをテレビの上に置くと、向かいの席を示し、自分も座った。

「ご無沙汰してます」

 克樹は座る前に頭を下げた。石沼は頷くと「では早速」と身体を乗り出してきた。克樹は持ってきたカバンの中から封筒を出した。パソコンからプリントアウトした写真と資料と記事を書いた原稿を出した。写真の場所の地図や資料を見せながら説明する。石沼は克樹の話を一通り聴き終えると、二三質問をした。そして、もう一度写真だけを一枚ずつ仔細を確認するように見つめると、しばし沈黙した。克樹にとって最も緊張する瞬間だ。

「この記事なんですが」

写真を置き、原稿を取る。克樹は背筋を伸ばした。

「この部分にもっと具体的にこの写真についての記述が欲しいんですが」

胸ポケットに差していた赤のボールペンで、原稿に書きこむ。「はい」

「それ以外はいいと思います。訂正したものをファックスしていただければ。それでこの記事はほぼそのまま採用させていただきます。小学校六年生向けの社会の月刊誌に掲載させていただく予定です。ただ、文章はページの都合で変わるかもしれません」

克樹は「ありがとうございます」と平身低頭した。

「今、ここで書き直します」カバンの中からシャーペンを出す。「15分待っていただけますか」

「分かりました。では私は仕事に戻ってますんで、できたら声をかけて下さい」

 克樹は十分で書き直すと、石沼のデスクに持っていった。

「どうでしょう」

石沼は目を通すと、顔を上げた。

「O.Kです。ではこれでお預かりします。掲載時期は四ヶ月後くらいになると思います。原稿料はいつもの口座に振り込みさせていただきます」

 石沼は掲載予定の月刊誌の名前を挙げ、それに掲載すると話してくれた。克樹は礼をいうと意気揚々と京陵社を後にした。

 次に約束している出版社にむかうため地下鉄の駅の構内を歩いている時、右腕に振動を感じた。「?」

電車がホームに入ってきた。克樹はそれに乗り込んだ。車内は空いていて、ほとんどの人は携帯を見ている。「あ」声を出すと、前の学生らしい男性がチラッと目を上げ、すぐ携帯の画面に戻った。口を押えた克樹はそっと席に座るとカバンを探った。携帯を取り出す。見ると数分前に着信の履歴があった。先ほどの振動はこれだったのかと一人で納得する。着信は上田からだった。

に、しても。会社員をしていた頃は携帯のある生活が当たり前だった。いや、学生時代から、携帯のない生活など考えられなかったのに。人間はどんな状況にもすぐに慣れるのだ。

 電車を降りるとすぐに上田にかけ直した。コール音が三回鳴り、繋がった。

「北山です」

「どうも。昨日はすみませんでした。今日は早く終われそうなんですが、一杯どうですか?」

「ぜひ」

「良かった。じゃあまた後で連絡します」


 午後から訪れた出版社とは折り合いがつかず、克樹はそのまま原稿を持ち帰ることになった。家に帰るには時間が中途半端だったので、本屋に寄ったりして時間をつぶした克樹は、約束の七時よりかなり早く新橋駅に到着した。雑踏の中待っていると上田の長身が現れた。上田も気づき足早にやってきた。

「すみません。お待たせして」

「いえ。早く着いたんです。それより、すごいですね」

克樹は上田が小脇に抱えていた新聞の数を見て、目を見張った。

「今から新聞配達ですか?」

「まさか」上田は声を上げて笑った。「各紙の朝刊と夕刊ですよ。情報収集に」

 上田が先導するように歩きだし、克樹がついていった。すぐに飲食店ばかりが入っているビルの前で立ち止まる。

「ここの五階です」

 狭いエレベーターに乗り込み五階に着くと、エレベーターホールには三つの店舗の入り口があった。狭い中にひしめくように立て看板が置いてある。ドアが開くと同時に様々な食べ物の匂いが漂ってきた。上田は左の店を指し「焼き鳥、大丈夫ですか?」と聞いた。「大好きです」克樹の即答ににやりと笑うと「じゃ、行きましょう」と店に入った。席に着くと同時に「生ビール二つ」と上田が注文した。「で、いいですか?」「もちろん」

店員が戻っていくと「ここの焼き鳥、美味いんですよ」とメニューを広げた。なるほど鶏を焼く香ばしい薫りがエレベーターホールにまで漂っていた。

「日本食はもうだいぶ召し上がったでしょうから」と白い歯を見せた。

「ええ。でもやっぱり日本人だなあと思います。和食はいくら食べても飽きることがありません」

「へえ」

 上田がお薦めだというハツやズリは新鮮で、塩で注文した。運ばれてきたビールで乾杯すると、克樹はジョッキの半分ほども一気にあおると「うまい」と息を吐いた。

「やっぱりビールは日本のものが一番美味しい」

「違い、ありますか?」

「ええ。まず、温度が。だからのど越しが違いますよ。夏はこれに勝るものはありませんね」

上田は「同感です」と言った。

「所で、情報収集ってなんのですか?」

 椅子の上に積まれた新聞の束から一部取り上げ、訊いた。上田は別の一部を取ると、一面を上から下まで見た。

「今、怪盗シグマを名乗る人物が世間を騒がせているのはご存知ですか?その人物は、明後日から東京国際美術館で開催されるグスタフ.クリムト展の『接吻』を盗むという予告状を出しているんです」

克樹は目を丸くした。

「怪盗シグマ?予告状?古!この21世紀にそんなやついるんですか!?」

「いるんですよ。ほら」

上田は新聞の一面を克樹に見せた。そこには"犯人"からの予告状の写真と、どういう形で送られてきたのかという経緯が書かれた記事があった。

「なんだなんだ?金田一か?明智小五郎か?アルセーヌルパンか?怪人二十面相か?」

上田は笑った。「同じ事、二回言った」

「え?」

「明智小五郎と怪人二十面相は同じ物語の登場人物ですよ」

「あ、そっか」克樹は頭を掻いた。

「しかし。映画やマンガじゃあるまいし、今時予告状なんて、警察は本気にしていないでしょう?ただの愉快犯でしょう?」

「と、思いますよねえ。やっぱり」

焼き鳥のねぎまとせせりが運ばれてきた。皮の焦げた匂いが食欲をそそる。上田はねぎまを一本取り、ぐいっと串から食べた。克樹も手を伸ばした。胡椒の効いた塩味が香ばしい身を引き立てている。

「警察に予告状が送られてきて、翌日に新聞各社。続いてテレビ局。報道が先行してしまったせいで、警察としても愉快犯だろうと無視するわけにもいかず。毎日報道関係の人間が捜査の進捗状況はどうだと押し寄せてくるのでね。しかもこういう派手な感じって、マスコミが好きそうなネタでしょ」

苦笑しながら言う。克樹はキュウリの浅漬けをぱりぱりとかみ砕きながら相槌を打った。

「もう連日、新聞もテレビも怪盗シグマあおり倒しですよ。もちろんネット上もね」残っていたビールを飲み干すと「生おかわり」とカウンターの中に声をかけた。「二つ」振り向いたハチマキの大将に克樹はジョッキを上げて見せた。威勢のいい返事が返ってきた。

「じゃあもう完全に愉快犯じゃないですか。警察や世間の混乱を見て楽しんでるだけじゃないですか。だってそれだけ注目されて、クリムトの絵みたいな大きなものを盗み出せるわけないじゃないですか」

上田は一瞬無表情になった。

「どうしました?」

「いえ。北山さんは『接吻』の本物をご覧になったことがあるんですか?」

「ないですけど。どうしてですか?」

「恥ずかしい話なんですが、今回初めて認識したんですけど、絵の大きさってその絵によってちがいますよね」

「ええ。確かハガキの大きさが一号ていうサイズで。倍の大きさだと二号というようになるはずです」

「私は今回の件で初めて、そのクリムトの絵が人の背丈よりも大きい事を知ったんですけど。北山さんもご存じだったところを見るとそれって常識的に皆知っているものですか?」

「さあ。モナ・リザの絵でも、本物を見た人はこんなに小さいんだって驚く人は沢山いますから。印刷されたものじゃ実物のサイズはわからないですから。僕は割と絵画が好きなんで、テレビのドキュメンタリー番組とかよく見るんです。それでクリムトの接吻が人間の実寸大で描かれているのを知ったんです。ピカソのゲルニカって知ってますか?美術の教科書に載っていたと思いますけど、あれなんて横幅10メートルくらいありますよ。小さく印刷されているものだと、実際の大きさはわからないですよ」

「ですよねえ。でもまさか予告を出した人間が対象の大きさを知らないとは考えられないし。やっぱり愉快犯だろうと思いますよね」

また新聞を手に取り、息を吐いた。

「でも、これだけ注目されて万が一ってことがあれば、警察の面目は丸つぶれですよ。だから万全の準備で臨む必要があるんです」

「なるほど」

鶏ももの鉄板焼きが運ばれてきた。熱い鉄板のうえにもやしが敷かれ、その上に鳥ももが乗っている。皮がジュウジュウいっている身を切り分け、口に放り込んだ。ニンニクの香りとパリッとした皮、身のジューシーさが口の中に広がった。

「でももし」上田が独り言のように言う。「犯人に何か別の狙いがあるとしたら」

口いっぱいに鶏ももを頬張っていた克樹はビールで流し込んだ。

「え?」

「これが陽動作戦みたいなもので、何か別の目的があるとしたら」

「陽動作戦?」

克樹は肘をつき、重ねられた新聞の一部を抜き取った。頬杖をつき、活字を追う。

「だとしたら……」

「犯人の狙いは何だ?」上田が引き取って言う。

「例えば」目を新聞から上田に移し「ほかにも絵画は展示されますよね?本当の狙いはそちらにあるとか?」

「それは我々も考えました。だから警備は展示する買いがすべてで抜かりなくやります。警視庁総動員で大わらわですよ。こんなに大胆不敵なことをされて、あげく犯罪成立じゃ警察の威信にかかわりますからね」

「大変ですね」

「猫の手も借りたいとはこうい時に使うんだな、と実感していますよ」

「うーん。じゃあその混乱に乗じて何か別の犯罪を犯そうとしているんですかね?」

「愉快犯じゃないのなら、おそらくそうなんでしょう。でもそれがどういう種類の犯罪かわからない。窃盗なのか密輸、殺人、詐欺……」

克樹は眉根を寄せた。「そんなの、防ぎようがない」

「それじゃダメなんですよ」上田が強い調子で言った。

「どんな犯罪だって許されるべきじゃない。だが、こんなことで犯罪が成立してはいけないんです」

その言葉を聞いて、克樹は上田と出会った時のことを思い出した。あの時も上田には強い信念があった。変わらないんだなと、口元を綻ばせた。克樹はもう一度新聞を手にすると「何か手がかりはないですかねえ」とページをめくった。

「と、思って買ってきたんですけどね」

上田も一紙取った。克樹はビールを飲み干し、通りかかった従業んにおかわりを頼んだ。上田はその声にかぶせるように、「もう一つ」と手を上げた。二人で新聞を読み漁っているとビールが運ばれてきた。

「『接吻』が展示されるのはどこでしたっけ?警備は警察がやるんですか?」

ビールを片手に新聞に目を通していた上田は顔を上げた。

「今回の展示は東京だけですか?他の地方も回ります?警備は24時間体制?」

「東京だけです。警備は警察がやっています。まだ犯罪が起きていないうちに警察が警備するなんて、サミットやオリンピックの時しかあり今回は特例で。開催場所はここです」

新聞のある一面を克樹に見せた。そこには古い石造りの重厚な建物が写ってる。

「帝都美術館です。搬入は先日終わりました。この前、成田で北山さんと再会した時、あの日にベルギーから到着したんです」

「そうでしたか」克樹は納得顔で頷いた。

「あの後、警察車両で会場まで護送しました。その時は怪盗シグマもそこまで有名じゃなかったんですけど。警察が護送したというのでかえってマスコミの注目を浴びて。それで、どんどん報道合戦みたいになっていって」

「で、この騒ぎに」

「ええ。で、何でしたっけ?あ、開催期間は三週間で昨日からやってます。怪盗シグマ騒動で、初日からすごい動員ですよ。開館時間前から美術館を三周するほどの集客で、二時間も前に開場して、閉館時間も伸ばして。だから警備も大変です。もちろん閉館してからも厳戒態勢で24時間警備してます」

「そうですか。……まさか、その主催者側の客寄せの宣伝ってことはないですよね?」

「と、いう線もありますね」上田はニヤッと笑った。

「そういう可能性もあるという事で関係者のパソコンや携帯などを調べてみましたが、文書を作成したりメールを送信したりといった痕跡は見つかりませんでした」

「なるほど。僕が考え付く程度の事はとうにチェック済みですか」

「ちなみに新聞社やテレビ局に送られている予告状は、封書で各社に郵便として届けられているようです」

「それって、どこから郵送されているんですか?消印は?」

 上田は少しの間克樹を見つめた。克樹は、切れ長で黒目がちの大きな目に吸い込まれるような感覚を味わった。

「北山さんは雑誌社に顔が利くんでしたね」

「利くというほどではないですが、写真を掲載してもらう出版社はいくつかあります」

「じゃあその辺りから話を聞けるでしょうから隠さずお話しますが、実は消印はすべて東京都内なんです。場所はいくつもありますが、犯行予告の美術館も東京都内ですし、おそらく犯人は都内に土地勘がある人間だろうという説が有力です」

「そうですか。じゃあおそらく怪盗シグマを隠れみのにした犯罪も都内で行われるのは間違いないでしょうね。とは言ってもまだ範囲が広すぎますね」

「ええ。彼ら、いや彼女かもですが…は、この騒ぎに乗じて一体何をするつもりなのか」

上田の言葉に引っかかりを感じた克樹は「女性の可能性もあるんですか?それと、複数犯?」と訊いた。

「男か女か、単独犯かどうかも断定できる材料は何もないですから」

 克樹は息を吐き出し唸った。別の新聞を広げる。開いたページには全面広告で国産自動車メーカーの新車が掲載されている。それを見るともなく見ていた克樹の頭の中に閃くものがあった。克樹がバサッと新聞を置くと、ねぎま串を口にくわえ串を横に引っ張ろうとしていた上田は「○△□×○?」と訊いた。克樹は吹き出した。「何言ってるかわからないです」上田はねぎまをビールで流し込むと「どうしました?、です」

克樹はフフと笑うとすぐに表情を引き締めた。

「猫の手も借りたいほど忙しいんですよね?」

身を乗り出す。

「ええ。警視庁総動員です」

「まさか警察官以外、例えば民間の警備会社に応援を要請するとかってありますか?」

「それはありません。他府県の警察官に応援を要請する事はありますけど、民間企業は動員される事はないです」

「そうかあ」克樹は消沈したように肩を落とした。

「なるほど。民間の警備会社に化けて絵を盗み出すというアイデアですか」

「ええ。いいアイデアだと思ったんだけどなぁ。あと、警察官に変装するとかどうですか?」

上田は声をあげて笑った。「それじゃ本当に怪人二十面相じゃないですか。いくらなんでもそれはあり得ない」

「やっぱり、無理ありますかね」

「一人で運び出せる大きさじゃないですから。たとえ複数犯だとしても、運搬時にチェックする人間まで全部犯行グループというのはちょっと現実味がないですね」

克樹はまたため息をつくとジョッキのビールを一気に飲み干し、「すみません、ハイボール」と声をかけた。威勢のいい返事が響く。

「そういえば昔、確か1911年のことですけど、ルーブル美術館でモナリザの絵が盗まれたという事件があったのはご存知ですか?その時に限らず、モナリザは何度も盗難騒動があるんですけど」

「ええ。今回のことでどういう手口が考えられるかを調べた時に知りました。確か盗難はフェイクだったんですよね?」

「まあ、フェイクというか、盗難にはあったんですけど。依頼した方はモナリザの盗難というニュースが必要だっただけで、実際に盗みをはたらいたイタリア人の大工は、依頼主がいつまでたってもモナリザを取りに来ないことにしびれを切らし、自分で売り払おうとして発覚し逮捕されたんです。そしてモナリザを盗むよう依頼した方はモナリザが欲しかったわけではなく、モナリザの盗難という事実が必要なだけだった。盗まれたモナリザはこれだと言って贋作のモナリザを何枚も、闇で富豪たちに売りつけていた。富豪たちは贋作だとわかっても盗品を買おうとしたんだから訴えることができない。…今回の事件もそれを狙っている、という可能性はありませんか?」

上田は感心したように「詳しいですね」と言った。

「モナリザ、好きなんですよ。去年、フランスに行ったんですけど、その時期お金がなくて。知り合いの知り合いっていうつてにもならないような人のお世話になって、三ヶ月くらいその人の仕事の手伝いをしていたんですけど。その仕事場がルーブル美術館から近い所にあって、時間のある時はよく行ってたんです。さっき言った実物のモナリザが思ってたより小さいって話も、周囲の観光客がよく話していたのが聞こえてきたんで」

「三年の間にずいぶん様々な経験をされてきたんですね」

「行き当たりばったりもいいとこですけどね」

「でも。どうでしょう?今の話だと、まず”盗まれた”という事実がないと成立しない。今の厳重警備では盗まれたように世間を信じさせることも難しいでしょう」

克樹は頭をぐしゃぐしゃとかき回した。

「じゃあなんだ?他にどんな事が考えられる?絵画盗難に注目を向けて、全く別の犯罪を犯すつもりなら対処のしようがない」

上田は申し訳なさそうに新聞を片付けた。

「すみません。北山さんが頭を悩ませる必要はないですよ。犯罪を阻止するのは我々警察の仕事ですから。この話はもうやめましょう」

克樹はキッと目をあげた。

「そうはいきません。こんなことで犯罪を成立させてはいけません。未然に防ぐために万全の体制を取らないと」

上田は少しの間呆気にとられたような顔をした。そして嬉しそうに笑った。

「北山さんも警察官になれますね」

克樹は照れくさそうに鼻をこすった。「受け売りですけどね」二人はまたそれぞれに考えを巡らせた。

 ハイボールを片手に新聞をめくる。その手が止まった。そのページにはご丁寧にクリムトの絵を展示している位置など、詳細に書かれた帝都美術館の見取り図が描かれている。克樹は眼鏡のズレを直すと仔細に見取り図を眺めた。

「どうしました?」

「これ」克樹は新聞を見せた。「こんなものを掲載したら犯人に情報を与えることになってしまう。犯人はこれで逃走ルートなどを割り出しているんじゃないですか?犯人の狙いはこれなんじゃないですか?」

上田は新聞に目を通すと首を振った。

「この館内図ならHPなどで簡単に見れます。それを手に入れるために警備が厳重になるのなら、リスクの方が大きすぎる」

克樹は何度目かのため息をついた。

「やはり『接吻』を盗むというのはフェイクと考えた方が良さそうですね」

「この間隙を縫って別の犯罪を犯すとしたら…」

広げたままの新聞に目を落とす。そこには先ほど見た国産セダン車の広告があった。

「一番人員が必要な時っていつですか?」

「それは絵を移送する時でしょう」

「具体的に言うとどういう人員配置になりますか?」

上田はどこまで喋っていいものかと一度開きかけた口を閉じた。

「詳細は明かせませんが。絵の梱包や配送準備は配達のプロである配送業者がするので、私達はその周辺ですね。配送車両の前後に警護車両を配備し、配送車両の中にも人員を配置します。途中の道路各所にも警察官は待機します。あと、ヘリコプターも出します。それから、絵にはGPSも付けます。目的が『接吻』でなかった時のために、展覧会で展示する絵すべてに同じ対策を取ります。あと、」

ここでいったん口をとじると克樹を見た。

「それからこれは機密事項なので他言しないで下さい。くれぐれも。絵のダミーを用意して別ルートで運ぶことになっています」

克樹は目を剥いた。そして「わかりました」と小さく言った。

「偽装の車両と前後の警備車両を用意して別ルートで空港に向かいます。こちらには通過点の車両配備やその他はないんですけど。でもそこは犯人側にはわからないでしょう。GPSも付けるので、どちらが本物かはわからないはずです」

「大がかりですね」

「ええ。総動員です」

「ルパン三世じゃあるまいし、そんな厳重警備の中、絵を盗むなんて有り得ないですね」

上田はキャベツを手で取り口に放り込んだ。

「上田さん、車は持っていますか?」

「へ?」

いきなり話が変わったのについていけず、上田はキョトンとした表情になった。それを見てにこやかに笑うともう一度「上田さん、車はありますか?」と訊いた。面食らいながらも上田は「ええ。所有してますけど」と答えた。

「それって捜査に使ったりできます?警察車両の代わりに」

「ええ。代わりというか、現場まで乗って行ったりすることはありますよ」

「そういうのって許可はいるんですか?」

「いる場合といらない場合があるんですが。警察車両に見せかけて何か犯罪を犯すという読みですか?」

克樹は頷いた。

「絵画盗難に便乗するとしたらどんな犯罪が可能か…」

「なぜ、車を使うと思うんです?警察に化けるだけじゃダメなんですか?」

「そういえばそうですね。でも仕掛けがこれだけ派手なら、警察官に化けるだけじゃなくてもっと大がかりな犯罪じゃないかと思ったんです」

 上田は左手を顎に添え考え込んだ。そこに空になった皿とグラスを下げに店員がきた。テーブルの上に並んだ皿はほとんど空になっている。上田は右腕の時計を見ると「出ましょうか」と克樹を促して店を出た。エレベーターを降り外に出るとぬるい風が吹き抜けていった。克樹は風がきた方を向き「空が見たいな」と呟いた。上田は首を傾げ、天を仰いだ。「空ですか?」そこには地上の光を映して灰色の雲がたなびいている藍色の空があった。克樹は物憂げに

「電線やビルに切り取られていない空が見たい。地上の光を映す雲ではなく、川の流れるような星空が見たい。…空を見上げて閉塞感があるなんて変なんですけど。東京で空を見上げると圧迫感がある感じがします」

胸を抑え息苦しそうに言う。「空に圧迫感ですか」二人で空を見上げている。とサイレンの音が遠くから響いてきた。高低差をつけて、唸るように聴くものの心をかき乱す。

救急車だ。

 道路を走っていた車は皆端に寄って救急車に道をあけた。救急車はサイレンとともに「左に曲がります」とアナウンスをしながら交差点に進入し左に折れた。行儀よく並んで待っていた車たちは救急車が通り過ぎると進路を正し走り出した。克樹は食い入るようにそれを見ていた。

「さて、どうしましょう?」

上田は克樹に言う。だが克樹は返事もせずに考え込んでいる。

「北山さん」

克樹の目の前で手を振る。克樹は顔を上げた。だが焦点は上田に合っていない。

「北山さん!」

上田は不審げにもう一度名前を呼んだ。

「ちょっと待って下さい」

克樹は手で制し、道の端に寄った。手を口元にやり何か呟いている。上田は克樹の考えがまとまるのを待つことにした。脇に抱えた新聞を一つ抜き、また広げた。

「そうだ!」

「何かひらめきましたか?」

克樹の目は大きく輝きをはなっている。

「調べたい、いや、知りたいことがあるんですが、お願い出来ますか?」

「私にわかることでしたら…」

「上田さんでなければ分からないと思います」

ニヤッと笑って克樹は言った。



       •



 それから二週間が過ぎ、クリムトの絵が盗難に遭うこともなく展覧会は大盛況のうちに終了した。主催者側は会期の延長を希望したが、ベルギーの美術館からの返答で絵の貸出期間の延長は認められなかった。そこで主催者側の取った策は開場時間の最大限の延長だった。朝七時にオープンし、夜十一時まで。それでも連日の長蛇の列は閉館ぎりぎりまで途切れることはなかった。克樹も一度見に行こうと足を運んだが、表に並んだ列の最後尾にいる係員が、二時間待ちのプラカードを持っているのを見て、回れ右で帰ってきたのだった。だがその異常ともいえる盛り上がりの中、大きな事故やトラブルもなく会期は終了した。

 そしてその翌日、厳戒態勢の警備の中それぞれの美術館に返却される準備が進んでいる。すべての絵画が遺漏なく梱包され配送の準備が整えられる。大勢の警察官が配備され、マスコミが取材と称して邪魔する中輸送車両に『接吻』は積み込まれた。

 その時、上田は全く別の場所にいた。銀座にある画廊の向かいの喫茶店だ。窓際の画廊の入り口が見える席に座り、対面には克樹が座っている。二人はそろって窓の外を見ていた。

「本当にくるでしょうか?」

「たぶん」

「今日みたいな日にこんな所でのんびりコーヒーを飲んでいるなんて」

苦笑しながらキリマンの薫り高い湿気をたっぷり吸いこんだ。

「でも…多分ここが正解ですよ」

克樹も画廊から目を離さずコーヒーを飲む。

 通りに白の軽自動車が止まった。後ろの大きなワンボックスタイプの車だ。上には覆面パトカーが使うパトライトが明かりを付けないまま乗せられている。覆面パトカーがパトライトを乗せるのはサイレンを鳴らして走行する時だけだ。サイレンを鳴らさずに走行するのなら、パトライトを乗せたままにすることはない。運転者は画廊の真ん前に車を横付けすると、足早に画廊に消えた。グレーのスーツの後姿を見て上田はため息をついた。

「行きましょうか」克樹は伝票を持ってレジに行くと急いで会計を済ませた。

二人は横断歩道を走って渡り画廊の前に立った。一枚ガラスの引戸から中が見える。そこにはある人物が画廊のオーナーらしい男性に何かを説明している。オーナーは顔を引きつらせて聞いている。

「では緊急事態ですので、今言った絵画だけ至急移動させます。梱包をお願い出来ますか?」

「はい。すぐに」

オーナーは慌てた様子で奥にいた従業員に声をかけた。

そこに重いガラス戸を押し開けて克樹と上田が入ってきた。従業員と二人で奥にかけてあった絵を外そうとしていたオーナーは反射的に「いらっしゃいませ」と言った。彼女が振り返る。彼女は大きく目を見開いた。

「どうして…」

オーナーは彼女を見た。克樹は彼女の前に立った。上田はその隣に立ち、入り口からの動線を塞ぐ。

「こんにちは。先日はどうも」

彼女は首を傾げた。

「先日、警視庁の前で署内レンタカーの話を聞かせていただいた北村です」

「ああ。上田さんのお知り合いの」そう言いながら彼女は上田を見た。「偶然ですね」

克樹は上田を伺い見た。

「高嶺さんに会いに来たんですよ」

上田の言葉に高嶺はわずかに眉を引いた。

「あの…」オーナーが声をかける。上田は警察手帳を見せた。

「警視庁捜査二課の上田といいます。オーナーの方ですか?」

穏やかな口調できいた。

「はい」困惑した表情でオーナーは応えた。

「刑事さんが絵を運んでくださるということでしょうか?」

「いえ」上田は首を振ると眉尻を下げて高峯を見た。彼女はふてくされた顔で横を向いている。克樹はオーナーと彼女を交互に見た。

「詳細はわかりませんが、こちらの女性が言った事は事実無根なんです。おそらくですが今回のクリムトの絵画盗難の騒ぎに乗じてここの絵画も狙われているから絵を移動させましょうとか、そういう話だったんですよね?」

 克樹が喋っている間に高峯はジリジリと身体に位置を変えたが、それを見て上田も彼女と入口との間に向きを変える。高峯は憮然とした表情で裏の扉との距離を測る。オーナーが口を開き、克樹はそちらを見ているが、上田は話を聞きながらも彼女から意識をそらさない。

「価値があって小さな物はすべて移動させて、騒ぎが収まったら返してくださるという事で。警察で預かっていただけると」

上田は厳しい表情で高峯を見た。

「警察はそういう事はしません」

「え?」

「脅迫状が届いたというような通報があれば捜査はしますが。申し出もないのに絵画や、宝石などでもいいですが、そういった物を預かるなど有り得ません。もし都内の絵画が狙われるという可能性があるなら、まず巡回に来た警察官が警戒してくださいという告知をします。勝手に絵を預かるなど絶対にしません」

「という事は。詐欺…?」

オーナーは険しい顔で高峯を見た。

「こちらからはまだ何も搬出していませんか?」

「ええ。梱包を始めたところです」

「では絵はそのまま飾っておいていただいて大丈夫ですから。その絵も戻しておいて下さい。我々はこれで失礼します。また後日改めて事情聴取に伺いますので、その時はよろしくお願いします」

「はあ」

何がどうなっているのか行のかよくわかっていないオーナー達を残し、三人は画廊を出た。高嶺の前後に付き、逃亡を阻止しようと挙動を注視する。だが彼女はさっさと歩を進めると自分の車に近づいた。克樹は慌てて高嶺の隣に立った。彼女はスーツのパンツのポケットから車のキーを取り出して車に向けた。ヘッドライトが一度点滅し鍵が開いた。車の中は後部座席のシートが倒されている。もう何軒かの画廊を回ってきたのだろう、絵画のものらしい薄い箱がいくつも並べてある。克樹はそちらに気を取られたが、上田は油断なく高嶺の行動を見ている。高嶺は助手席側に回りドアを開けると、屋根の上のパトライトを外しコードを乱暴に巻き取ると助手席に放り込んだ。車の屋根に手をかけ「それで?今からどこに行きます?」と挑戦的に言った。

「警視庁です。詐欺、窃盗の現行犯です」

高嶺はフンと鼻で笑った。

「この車で行きますか?ちょうど押収物も乗せてあることだし」

と嫌味を込めてに言った。その嫌がらせは上田には通じず、上田は「そうしましょう」と四角四面に言った。高嶺がカクっとこける真似をするのを克樹は笑いをこらえて見ていた。

上田が克樹を見て頷いた。克樹も顎を引くと「じゃあ僕が運転します」と高嶺の方に手を差し出しカギを受け取った。後ろのハッチを開け、いくつかの箱を助手席に移動させると倒してあった後部座席を元に戻し、残っていた箱を後部座席の後ろに収めた。多少もたもたしながら一連の作業を終えると、高嶺の後ろに立っていた上田に「出来ました」と声をかけた。上田は高嶺を促し、二人で後部座席に座った。それを確認してから克樹も運転席に座る。車が動き出すと高嶺は「どうしてわかったの?」と訊ねた。バックミラー越しに高嶺を見た克樹は、

「今回の騒動の最大の謎はなぜ予告状なんかを出したのか、という事でした。この科学捜査時代にそんなことをしても何のメリットもない。実際に絵画を盗むつもりなら警備が厳重になるだけで、リスクしかない。ならやはり愉快犯か?しかしいたずらというには周到すぎる。主催者側の宣伝行為か?だが関係者からはそんな痕跡は見つからなかった。では残るのは別の犯罪のカモフラージュしかない。では一体どんな犯罪が可能だろうか?この騒動を隠れ蓑にできる犯罪とはどんなものだろうと考えたんです。その時、ふと思い出したんです。高嶺さんがおっしゃっていたことを。警察官が総動員されると車両が足りなくなると、個人の車両を使うこともあると。それで、車を使うという事と今回の騒動に乗じるという二つからいくつか仮説を立てたんです」

克樹の説明を聞きながら上田は手錠を出し、高嶺の両手にかけた。

「2月21日、午後1時45分。確保です」

高嶺は嫌そうにみをよじったが抵抗はしなかった。

「その仮説から車両の登録状況とか、電話の発信記録とか、当日駆り出される警察官以外の動向をね、検索したんです。警視庁と所轄署の」

上田が引き取って言った。高嶺は眉根を寄せて上田を見た。

「警察内部だけ?どうして一般人は調べなかったの?誰にでも可能な犯行だと思うけど」

「まあね」克樹はバックミラー越しに笑った。

「まずは警察内部から調べてもらいました。一般人にはわからない情報もあったので。そしたら、クリムトの絵の輸送ルートとか、ダミーの輸送車とか、それらのどこにどれだけの配備が敷かれるかといった関係者じゃないとわからない情報が、検索されていたパソコンが警視庁にあったんです。そのパソコンへの外部からのハッキングの可能性はなかったんで、そのパソコンの使用者が犯人でほぼ間違いないだろうと」

「それで、絵画の移送の警護を外れて別行動をとることを、主任に掛け合って許可をもらったんです」

高嶺は悔しそうに自分の膝を叩いた。

「知らないうちに外堀を埋められたのね」

「すみません。クリムトや展覧会の絵以外がターゲットになるんじゃないか、それを警察車両を偽装した車で運ぶんじゃないかと思いついて。上田さんに警視庁のパソコンとかいろいろ調べて頂いて。でも僕にその話をしてくれた高嶺さんが犯人だったなんて」

「まさか、そんなことからバレるなんて。あんなこと言わなきゃよかった。口は禍の元って本当なのね」

「もう着きますよ」

克樹はバックミラー越しに上田を見る。見慣れた建物が近づいてきた。




      •




 一週間後。

 上田と克樹が再会した同じ成田空港に、同じく二人で立っていた。

 午前六時。

 まだ人影もまばらで静かだ。各航空会社のチケットカウンターが並び、頭上には出国の時間と行先、搭乗ゲートが表示された大型の電光掲示板が掲げてある。克樹は帰国の時と同じ色のあせたディバッグを肩から下げ、もう片方に大きなボストンバッグをかけている。服装も、洗濯はされているものの、色褪せヒザの抜けたジーンズと綿のシャツ姿。上田の方はいつもと同じ紺色のスーツ姿。決して高級とはいえない量販品だが、背が高くすらりとした体格のおかげでモデルといってもいい風情である。

「わざわざこんな朝早くからすみません。見送りなんてよかったのに」

克樹は恐縮して言った。

「とんでもない。今回はいろいろお世話になりましたから。せめて見送りくらいさせてください」

にこやかに上田は応えた。

「いや、あれは。偶然というか、当てずっぽうを言っただけで。それがたまたま正解だっただけで」

「でもそのおかげで世間を騒がせた怪盗シグマを捕まえることができました。北山さんのおかげですよ」

「そんなことないです。上田さんやみなさんの地道な捜査で裏付けが取れたからですよ。僕は当てずっぽうを言っただけです」

上田は真顔になると首を振った。

「でも北山さんのひらめきがなければ逮捕できませんでした。本当に感謝しています」

「役に立てたなら良かったです。僕みたいな部外者を同行させてくれてありがとうございました。あれが正解でよかった」

「そうですね。本部でもあれが陽動作戦の本当の目的かどうかというのは意見が分かれていましたから。可能性の薄い案件でしたんで、ご一緒できたんです」

広い屋内に搭乗時刻を知らせるアナウンスが響いた。

「それで、今回はどこに行かれるんですか?」

「前回と同じトルコです。トルコは東洋とヨーロッパをつなぐ場所に位置しているんで、古くから交易で栄えているし、遺跡も多いんです。まあ今回は一か月くらいなんで、すぐ帰ってくるんですけど」

「はあ。すごいですね」

門外漢ながらも何か言わねば、という返事だった。克樹はフフと笑った。

「僕もまだまだ勉強不足で。旅をしながら勉強してきます」

「そうですか。それで、今回の旅での目的というか、目指している所はあるんですか?」

「明確な目標というのはないんですけど。トルコがヒッタイトと呼ばれていた頃、マケドニアの王あたりでしょうか?目標がないと目移りしてしまって、実りのないまま帰ってきてしまうこともあるんですが、東京にいると息が詰まるんです。ここには何でもあるけど、何にもないから」

上田は少し首を傾げた。大きなガラス戸越しの滑走路と薄い色の空を見た。

「それはこの前仰っていた切り取られていない空とか、そういうことですか?」

克樹は嬉しそうに顔をほころばせた。

「そうです。どこにでもコンビニがあって、蛇口をひねればお湯が出てきて、トイレにトイレットペーパーがあって。でも空や星や風、地平線、そんなものは何もない」

克樹も外を見た。ちょうど滑走路から飛び立つジェット機があった。窓に途切れて一度見えなくなったが、やがて旋回して空に昇っていった。

「何でもあるけど何にもない、か。でもトイレットペーパーがない生活は厳しそうですね」

克樹は声を上げて笑った。

「まあ、そこまで究極なところはなかなかないですけどね」

「それは良かった。帰っていらしたらまた飲みに行きましょう。和食のうまい店を探しておきます」

克樹は嬉しそうに頷くと頭を下げた。

「じゃあそろそろ行きます」

荷物を担ぎ直すと歩き出した。

「行ってらっしゃい」

上田は手を上げると克樹とは逆方向に歩きだした。克樹が振り返ると、外のまぶしい光の中遠ざかっていく上田の後姿があった。
















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