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仔ネコ、騎士団長のペットになる②


***


 俺が騎士団施設の中央棟の最上階にある騎士団長室に入った直後、始業開始を伝える鐘が響き渡った。

 ……ふぅ、なんとか間に合ったか。

 奥に視線を向けたら、ユーグはすでに業務を始めていた。

 俺が足早に政務机に向かうと、ユーグは目を通していた書類から顔を上げ、俺へと目線を移した。


「おはようございます。ギリギリのご出勤とは珍しいですね」


 ユーグの言葉に、俺の肩がピクリと跳ねる。

 今朝の俺は、いつも通りに朝食と身支度を済ませた後、出勤前の僅かな時間をルーナと一緒に過ごしていた。強請られるまま二本目のペロルを与え終わってからも、俺はルーナのあまりのかわいらしさに、なかなか頭をなでる手を止めることができなかった。そうして、いよいよ屋敷を出なければ間に合わないという段になり、大慌てで屋敷を飛び出してきたというわけだ。

 これをユーグに言えば、呆れた眼差しで小言のひとつもこぼされそうだ。とはいえ駆け込み出勤になってしまっただけで、業務にはなんら支障をきたしていないのだから、わざわざ詳しい経緯を伝える必要などない。


「あぁ、おはよう。出勤前に少し手が離せない状況になってしまってな。だが、こうして始業にも間に合ったわけだし、なにも問題はなかろう?」


 何食わぬ顔で答える俺に、ユーグは俺の頭のてっぺんからつま先までを流し見て、不服そうな表情で口を開いた。


「大ありです。着衣の乱れは心の乱れ」


 ユーグが言い放った台詞に、咄嗟の理解が追いつかない。眉間にもクッキリと皺が寄る。


「おいユーグ、それはいったいなんの標語だ?」

「以前、レリウスさまが新任の騎士たちを叱咤していた際の台詞です」


 俺は騎士団長という役職柄、人前で話す機会は少なくない。もしかすると、過去にそんな台詞を言ったこともあったかもしれないが……。


「それがなんだというんだ?」

「まったく、朝の身支度後になにをしているのやら……。レリウス様の騎士服、膝下がひどい惨状になっていますよ」

「ん?」


 ユーグの指摘を受け、おもむろに目線を落とせば……なるほど。

 たしかに、ズボンの膝下から裾にかけてルーナの爪でついてしまったと思しきほつれの他、皺や一度濡れて乾いたような痕が随所に確認できた。

 ふむ、そう言えばルーナが必死になって俺の足にジャレついていたな……。

 出がけの俺を引き止めようと、追い縋ってくるかわいい姿。ペロルの二本目を強請ってしがみ付く様子も、それはそれはおいしそうに食べるとろけた表情も。思い出すどれもこれもが愛らしく、頬が緩むのを止められない。

 ……おっと、いかん。ここでニヤついていては、ユーグになにを言われるかわかったものではないぞ。

 俺は意識的に油断すれば弧を描きそうになる口もとを引き結び、表情を引きしめた。とはいえ、騎士服は黒い生地だし、これくらいなら遠目にはわからんのでは……。


「間違っても『黒地だからあまり目立っていないし、この程度ならセーフ』などという安直な言い訳はなさらないでくださいね。白々しい上に、部下にも示しがつきませんから」


 俺が声を発するよりひと足先に、まるで俺の胸の内を読んだかのようにピシャリと釘を刺され、慌てて開きかけていた口を閉じた。


「……うむ。白状するとルーナを構っていて屋敷を出るのがギリギリになってしまったのだ。明日はほどほどで切り上げ、余裕をもって屋敷を出ることにする。もちろん、姿見の前で着衣の乱れがないか確認をしてからな」

「ええ。下手な言い訳をしようとせず、最初からそうおっしゃってください。まったく世話の焼ける」

「ふむ、すまん」

「騎士服の替えは、団長控え室のクローゼットに下がっていますから」


 俺は今まさに政務机に下ろそうとしていた腰を上げ、政務に使っているこの部屋と間続きの控え室へと足を向ける。


「恩に着る」


 俺が短く伝えた礼に、ユーグは無言のままヤレヤレといった様子でひとつ肩をすくめて答え、そのままなにごともなかったかのように再び手もとの書類に目線を落とした。

 小うるさいところもあるが、なんだかんだで痒いところに手が届く頼れる副官なのである。





 着替えを済ませて戻った俺は、いつも通り午前の職務を開始した。

 以前ユーグが『騎士団長というのは管理職』と言っていたが、まさにその通りで、俺が目を通し、裁可すべき書類は膨大だった。昼近くまでかかり、やっとうず高く積み上がった書類に終わりが見え始めた。


「……よし、これで最後だな」


 最後の一枚にサインをし、パサリと処理済みの束の上にのせる。

 俺がグッと伸びをして凝り固まった肩を回していたら、ユーグが自分の席を立ち俺のもとへやって来た。


「お疲れさまです。こちらの処理済みの書類をいただいていきます。……ところでレリウス様、あれからルーナにおかしな点はありませんか?」


 ユーグは俺の机から書類を取り上げながら、こんなふうに尋ねてきた。


「おかしな……? いいや、ルーナはおかしいどころか、これ以上ないくらいかわいいぞ」


 真顔で答える俺に、ユーグはなぜかこれ見よがしなため息をつく。


「では、夜はどうですか? 宿では夜中にルーナがいないと言って大騒ぎをしていましたが、昨夜のルーナはちゃんと寝床にいたのですか?」

「……ん、夜か」


 この質問に、俺は言い淀んだ。

 一昨日の晩、ルーナが宿の客室から姿をくらまし、俺はひと晩中彼女を探し回っていた。翌朝になるとひょっこり長窓から帰って来たので、俺は安堵の胸をなで下ろし、少し冷えたルーナの体を抱きしめ温めてやった。

 ネコは元来、気ままで気分屋なのだと同行する部隊員に聞かされたこともあり、あの晩はたまたま外の空気が恋しくなったのだろうと納得もした。ところが、ルーナは昨夜もピッタリ同じ刻限に再び姿を消したのだ。


「まさか、ルーナはあなたの屋敷でも夜にまた姿をくらましたのですか?」

「うむ。実は晩飯の後、俺が目を離した隙にまたどこかに消えてしまった。屋敷の中を隈なく探したがいなかったから、また屋外でひと晩過ごしたようだ。一昨日同様、日の出と共にひょっこり帰ってきたがな」

「……それはそれは。ルーナがどこぞで凍えていやしないかと心配し、宿の時のように毛布片手にひと晩中探し回るあなたの様子が目に浮かぶようです」

「いや。それが昨夜は、ルーナの寝床に用意しておいたブランケットがなくなっていてな。おかげで、俺は夜中探し回らずに済んだ。お前が『外でないと用を足さないネコもいる』と言っていたが、外でないと寝ないネコもいるんだな」


 しみじみと語る俺を、ユーグは怪訝そうに見返した。


「ちょっと待ってください。そのブランケットというのは、ルーナが自分で持ち出したのですか?」

「ああ、翌朝ルーナはちゃんと自分でブランケットを銜えて戻って来たぞ。どこぞでブランケットに包まって夜を明かしたのだろう。それにしても、寒空の下にブランケットを持って出るとはよく考えたものだ。……ん? どうかしたか?」

「いえ。ネコがブランケットを銜えて外に出ていき、それに包まって夜明かしするなど見たことも聞いたこともなかったもので」


 ユーグが小難しい顔で顎に手をあてているのに気づき尋ねてみれば、こんな答えが返った。


「ほぅ、ならばルーナが初か。やはり、うちのルーナは賢いのだな」

「……レリウス様、私もまたルーナに会いたいのですが、今度お邪魔しても?」

「そうか! お前もルーナに会いたいか! ならば今度の休みに屋敷に来い。特別にペロルを与える役を譲ってやろう。ペロルを夢中でペロペロするルーナは天使の如きかわいさだぞ」

「ぜひ、伺わせていただきます」


 ユーグの表情は『ぜひ』という言葉とは裏腹に、なぜか堅かった。

 会話はここで一旦終わり、ユーグは書類束を手に騎士団長室を出ていった。


「……やはり、ルーナは普通じゃない。ルーナに骨抜きのレリウス様はまったく頼りになりませんし、ここは私が目を光らせておかねばなりませんね」


 ユーグが扉を閉める直前に小さくこぼした台詞は、今頃ルーナはどうしているだろうかと思考を巡らす俺の耳を素通りした。







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