社畜OL、転生する
懐かしい前世の夢を見ながら、わたしは深い森の中で目覚めた。
今、わたしが小さく体を丸めて横になっているのは、太い老木の根もとにぽっかりと空いた穴。ここは、ほかの仲間たちには内緒のわたし専用の寝床だ。
「……ん。もう朝?」
持ち上げた指先で重たいまぶたをこすり、睫毛を揺らしてゆっくり開くと、東の空が白み始めていた。
わたしは横寝の体勢からそっと上半身を起こした。その際、支えに突いた腕は華奢で、一糸纏わぬ裸体も日々の栄養不足によって全体的に小さく、折れてしまいそうに細い。肌は日焼けを知らない透き通るような白さで、腰まで伸びた豊かな髪はまるでそれ自体が発光しているかのような白銀だ。
この髪色がこの世界で一般的なものなのかは、森を一歩も出たことがないわたしには知る由もないけれど、前世の感覚からするとおばあさんのようであまり好きではなかった。ちなみに、わたしが『前世の感覚』と言ったのは間違いでもなんでもない。
どんな神様の悪戯か、わたしは日本で月乃として生きていた記憶を持ちながら転生を果たし、現在は――。
あっ!と思った次の瞬間。わたしは「ぽぽん!」という音とともに、人間からもふもふのヤマネコへと姿を変えていた。……そう、これこそが今世のわたしの本来の姿。わたしは現在ヤマネコに転生し、ヤマネコの社会で生きているのだ。
《ふみゃっ(ありゃ、変身しちゃった)》
四本足で地面を踏みしめて視線を上げたら、うっすらと浮かんでいた月は完全に消え、空の主役は太陽になっていた。実は、わたしは日中こそ本来の姿であるヤマネコの姿をしているが、月明かりが大地を照らしている夜間だけ人間の姿になって〝月の魔法〟が使えるのだ。
これを聞くと、魔法なんて便利なものが使えるなら、さぞお気楽な暮らしができるんじゃないか?って、きっとみんなは思うはず。だけど、わたしが持って生まれた月の魔法は、到底そんな便利なものじゃなくて……ぅうぅっ、神様はどこまでわたしに意地悪なのか。
まぁ、これについてはおいおい説明するとして、こんなふうに人間とヤマネコ、ふたつの姿を持つわたしのことを、母ネコはひどく気味悪がった。授乳期はなんとか育ててくれたが、乳離れを期にわたしは完全に捨てられた。
以来、わたしはこうしてひとり、仲間たちが暮らす森の端っこで細々と生き繋いでいる。ヤマネコとして生まれてから一年足らず。いまだに名前はないけれど、日頃、ヤマネコの仲間たちからは『この、役立たず』『おい、グズ』と侮蔑交じりに呼ばれている。わたしが月乃の時の感覚でヤマネコらしく振る舞えないのが原因とはいえ、まったくもって世知辛い話である。
ちなみに、前世の記憶を持って転生したわたしの意識が完全に月乃なのかといえば、意外にもそうでもない。ヤマネコの本能に引きずられてか、慎重だった前世の月乃より今のわたしの方が直情型で、思考も幼い。行き当たりばったりな行動を取っちゃうことも多かった。もっとも、これは単にわたしがいまだ成描にならない仔ネコだからかもしれないけれど。
――くぅぅう~、きゅるるるる。
その時、わたしのぺちゃんこのお腹が鳴った。
人間の姿の時の体格と、ヤマネコの姿の時の体格はリンクしている。ヤマネコ姿のわたしも人間の姿の時と同様、栄養不足によって片手でヒョイと持ち上げられる小ささで、骨の浮いたガリガリの体をしていた。なぜか白銀の長毛だけは、もっさりと生え揃って艶やかだったが。
《ふみゃぁ(くそぅ。ルルってばめっちゃおいしそうにステーキ食べて、ズルいよーっ(泣))》
わたしはもふもふの毛に覆われた肉球の前足を大合唱を響かせるお腹にあてて、夢の中でたらふくステーキを頬張っていたルルに恨み言をこぼした。
さらに、転生後もう何度目とも知れぬ悪態を叫ぶ。
《ふしゃぁっ(神様のバッカヤロー(怒)!)》
死の直後に『来世はわたしも、お気楽なネコになりたーいっ!』と願った通り、わたしはヤマネコに転生を果たした。しかし、神様には断固徹底抗議がしたい。
わたしは『お気楽なネコになりたい』と言ったはず。
《ふみゃぁあっっ(なのに、わたしのヤマネコライフが『お気楽』とは程遠いサバイバルなのは、なんでだー(怒、怒)!)》
わたしは涙をちょちょ切れさせて、朝ごはんを調達すべく寝床の穴を飛び出した。
わたしは森の中を歩きながら、朝ごはんになりそうな木の実を探していた。
……あ! 椎の実めーっけ!
落ち葉の上にコロン、コロンと仲良く並んだ椎の実に、ニコニコで前足を伸ばす。肉球のおててにふたつの実をキュッと握り、ゴクリと唾を飲み込んだ。
へへへっ、早く食べたい! でも、もっと落ちてないかな~?
《ニャーォ(おい、見ろよ。またクズが木の下を漁ってやがる)》
《ニャァー(ヤマネコのくせにネズミの一匹も捕れないってんだから、とんだ役立たずもいたもんだ)》
さらなる椎の実を求め、落ち葉をガサガサしていたら、ヤマネコ仲間の意地悪な声が聞こえてきた。
チラリと視線を向けると、みんなは朝ごはんの真っ最中のようで、口の周りに血を滴らせながら大きなネズミを分け合って食べていた。
《みゃぁーっ(やだーっ! 血みどろのスプラッタとか、無理だから~っ!)》
目にした瞬間、わたしはビクンと体を跳ねさせて、その場から逃げ出した。
《ニャーァ(ハッ! なんてぇザマだ。ヤマネコの風上にもおけやしねぇ)》
背中に仲間たちの嘲笑を聞きながら、わたしは短い四本足で必死に駆けた。
――テテテテテッ。
誰がなんと言おうと、ネズミなんて絶対に食べられない。……いいや、ネズミだけじゃない。
前世のわたしはお肉が大好きだったけど、それはこんがりと焼けているのが大前提。パパが好んだレアのお肉は、そもそも食べることができなかったのだ。
……ここまで来れば大丈夫かな。
はぁはぁと息を切らしながら、みんなの姿が完全に見えなくなったところで足を止めた。
あれ? ところでわたし、握ってた椎の実どこやっちゃった!?
ガバッと前足を持ち上げてみるが、案の定、両方のおてての中は空っぽ。握っていたはずの椎の実はなくなっていた。
《ふ、ふっ、ふみゃーん(う、うっ、うえぇーんっ! せっかく見つけた椎の実、落っことしちゃったよぉっ)》
椎の実は生でも食べられる貴重な食材であり、数少ないわたしの栄養源でもあった。
わたしはお腹と背中がくっ付いちゃいそうなひもじさ、そして大事な椎の実を落としてしまったことへの後悔や馬鹿にされた悔しさも、いろんな感情がごちゃ混ぜのままえぐえぐと泣いた。
椎の木は、仲間たちが朝ごはんを食べていたあたりにしか生えていない。わたしは泣く泣く椎の実を集めるのを諦めて、ぽてぽてと重たい足を引きずって森の東にある水場に向かった。
ここはゴツゴツした岩肌を湧き水が伝っており、喉の渇きを癒すことができる。ただし、仲間たちも水場として使っているから、鉢合わせしようものなら意地悪をされちゃうのだが。
……今はみんなごはん中だから、大丈夫だね。
わたしは岩に口を寄せ、空腹を紛らわせるように流れ落ちてくる水を高速でペロペロし、飲んで飲んで飲みまくった。
いっぱい水を飲んだら、一応お腹は膨らんだ。言わずもがな、水っ腹というやつだ。
《ふみゃ~(はぁあぁ~。最上級のステーキなんて贅沢は言わないよ。せめて、ほかほかのごはんが食べたいなぁ)》
連日の栄養不足でわたしの体力は限界だった。乾いた岩肌に背中を預け、頽れるようにコロンと小さく丸まった。
そのままクテンとして、吹き抜けていくそよ風に身を委ねていたら――。
――ギュル、ギュルルルルル~。ピー、ゴロゴロゴロ~。
ん!? 突如、お腹から不穏な音が大音量で鳴り響く。
《ふっ、ふみゃぁあっ(う、うわぁあんっ。お腹がイタイよーっっ!)》
水の飲みすぎによる激しいお腹イタがわたしを襲った。
ピョーンと飛び跳ねるように起き上がり、茂みにダッシュする。そうして茂みの向こう側で、わたしは大量のお花を摘んで、摘んで、摘みまくった。
茂みから出てきた時、わたしはまともに立っているのも難しい状態だった。
……ぅうううっ、目の前がぐわんぐわんする。
体力の限界で、目の前の景色が撓む。わたしはヨロヨロと沈み込むように地面に体を伏した。
――カサッ。
うしろで草を踏む足音があがる。
なけなしの力を振り絞って振り返ったら、一匹のネコがこちらを見つめていた。相変わらず視界は霞んでいたけれど、彼女のことだけは気配ですぐにわかった。
《みゅー(おかーさん)》
わたしによく似た白銀の毛をしたそのネコは、わたしを捨てた母ネコだった。
《ニャー(まったく、馬鹿な子だよ)》
母ネコはわたしの元へ歩み寄ると吐き捨てるように言い、銜えていたなにかをポイッと放って寄越した。ポトンという音がして、わたしの鼻先になにかが落ちた。
……これ、なぁに?
いまだ、視界はぼやけていた。
《ニャー(それ以上頑固を突き通すと本当に死んじまうよ。仲間たちには内緒で、お前のために取ってきたんだ。いいから、それをお食べよ)》
霞む目を何度かパチパチさせていたら、母ネコが寄越したそれに段々とピントが合ってきた。
《ふ、ふみゃあああっ(い、いやぁあっ! ネズミっ!!)》
目の前でグロテスクな様相を呈したネズミの死骸に、わたしは半狂乱で叫んだ。飛び退く体力はなかったけれど、鼻先が触れる近さにあるそれがどうにも我慢ならず、反射的に右前足の爪でシャッと引っかけるようにして放っていた。
ネズミの死骸は、放物線を描いて岩と岩の裂け目に落ちていった。
《クシャーッッ(せっかく取ってきてやったのに、なんてことをするんだ……っ! この、親不孝者がっっ!!)》
全身の毛を逆立てながら、母ネコは憤怒を燃やしてわたしを睨みつけた。
その目には薄く涙の膜が張っていた。それを見るに、怒りだけではない悲しみや、わたしへのやるせなさ、そんな彼女の胸の内が透けて見えた。
《ふみゅ(お、おかあさん。ごめ――)》
――トンッ。
わたしは震える声で母ネコに謝罪を口にしかけるが、その声を遮るようにして一匹のヤマネコがひと際大きな体を揺らしながら、わたしと母ネコの間に割って入った。
さらに、そのヤマネコの背後には、一定の距離を置いて多くの仲間たちが控えていた。
《ニィャー(マーサ。隠れてなにをコソコソやっているかと思えば、こんなところで〝禍の子〟に情をかけおって)》
……禍の子?
初めて耳にする単語だった。しかし、それがわたしを指しているのはすぐにわかった。
《ニャー(長老様、申し訳ございません!)》
ヤマネコのコミュニティの最高権力者である長老に名指しで指摘を受けた母ネコは、首を竦めて詫びを叫んだ。
長老はヤマネコ社会における重要な意思決定を一手に担っていたが、彼はこれまでわたしの存在も、わたしに対する仲間たちの傍若無人な態度も、静観の構えを貫いていた。当然、わたしを助けることもなければ、仲間たちを諫めることもなかった。
その彼が、今は鋭い眼光で、正面からわたしを見つめていた。そうして彼は無言のまましばらくわたしを見下ろし、やがてゆっくりと口を開いた。
《ニィャー(そなたを追放する。出てゆけ、そして二度と我らの森に立ち入ることは許さん)》
《ふ、ふみゅ(そ、そんな……)》
長老が口にした《追放》の一語を耳にした瞬間、目の前が絶望の色に染まってゆく。いくら前世の記憶があるとはいえ、わたしはいまだヤマネコ社会で成猫と認められる生後一年に満たない仔ネコだ。たったひとりでコミュニティを放り出されては、生きてゆく術はない。
長老は狼狽するわたしから、母ネコに視線を移した。
《ニィャー(マーサよ、我がこれまで〝禍の子〟の存在を黙認しておったのは、ひとえにそなたの心情を慮ってのこと。あれを追い出せば、情に厚いそなたが悲しむであろうと思ったからだ)》
《ニャー(長老様……っ)》
《ニィャー(だが、此度のことでそなたもわかったであろう。あれは、我らとは永遠に相容れぬ異端であり、禍いの種。これ以上ここに置けば、いずれ我らヤマネコ社会に大いなる災厄をもたらすことになろう。……許せよ、マーサ)》
《ニャー(……いいえ。追放に、異論はございません。あなた様の御心に感謝いたします)》
母ネコが楚々と頭を下げ、長老はそれに重々しくうなずいた。
《ニィャー(若い衆、〝禍の子〟を森の端まで運び出せ)》
《ニャーォ(承知しました!)》
わたしは茫然自失のような状態のまま、長老の指示で嬉々として集まって来たヤマネコたちの一匹に首のうしろを噛まれた。くしくも年若いヤマネコたちというのは、普段からわたしを虐めていたネコたちの筆頭だった。
乱暴に歯を立てられて運ばれる痛みと苦しさに、うめき声が漏れる。彼らの耳にも届いたはずだが、その後もわたしの扱いに変化はなかった。
母ネコは無言のまま、無慈悲に運ばれていくわたしの姿を見つめていた。
……おかあさん、最後までヤマネコになりきれなくて、あなたの娘になりきれなくてごめんなさい。
心の中でささやいた謝罪の言葉は、果たして彼女に届いたのかどうか……。母ネコとその隣に寄り添うように立つ長老の姿はあっという間に遠ざかり、生い茂る木々に隠れて見えなくなった。
もしかすると、母ネコが絶対に明かさなかったわたしの父は、長老だったのかもしれない。そして母ネコだけしか知らないと思っていたわたしの秘密を、本当は彼も知っていたのではないか。わたしがヤマネコと人間、ふたつの姿を持つことを知りながら、母のためにずっと黙認していたのでは……。
そんなことをぼんやりと考えながら、わたしはあれよあれよという間に森の端まで運ばれて、まるでゴミでも放るみたいにポイッと捨てられた。
《みゅあっ(い、痛いっ!!)》
したたかに背中を打ち付けて、その衝撃で目の前がチカチカした。
《ニャーォ(よし、ここまで運べば戻ってこられないだろう。あばよ、クズ!)》
《ニャァー(達者で暮らせよ。とはいえ、到底ひとりで暮らしていけるとは思えないがな)》
《ニャーァ(ハハハハッ。まぁ、どっちにせよ俺たちは役立たずがいなくなってせいせいしたけどな)》
《ニャーォ(言えてらぁ)》
朦朧とする意識の中、段々とヤマネコたちの意地悪な嘲笑と気配が遠ざかっていく。
ぶつけた背中とずっと噛まれていた首の痛み。さらには、今後への不安や恐怖。いっぱいの悲しみで胸が詰まり、目尻からポロポロと涙がこぼれた。
ついに気力体力が限界に達し、フッと意識が途切れる。その直前、前世の月乃が大好きだったパパによく似た逞しい腕に、宝物でも扱うような丁寧さで抱き上げられるのを感じた。