プロローグ
――ジュワァァアアッ。
なんとか仕事に折り合いをつけ、一年ぶりに帰省したわたしを出迎えたのは、仲睦まじい両親に飼いネコのルル。そして、ママの手に握られたグリルパンの上で魅惑的な焼き音を立てる最上級のステーキだった。
『さぁ、焼けたわよ。月乃ちゃんはしっかり目のウェルダン。パパはレアで、ママはミディアム。焼き加減もバッチリよ』
ママが対面のキッチンカウンターから熱々のステーキがのったお皿を差し出す。
『うわぁ~、美味しそう! このお肉どうしたの?』
お皿を受け取ったわたしは、見るからにおいしそうなお肉に感嘆の声をあげた。
そうして、さっそく各々の好みの加減に焼き上がったステーキをダイニングテーブルに並べだした。
『ふふふっ。月乃ちゃんが久しぶりに帰ってくるからってパパが買ってきたのよ』
『え! パパってばそんなに気を遣わないで、いつも通りでよかったのに』
『なに。たまたまデパートに行ったら、いい肉があったんだ』
わたしがパパに視線を向けたら、パパはルルを撫でる手を止めて、ちょっと早口で答えた。元刑事のパパはゴリラのような巨体で、目が合った子供が漏れなく泣きだすほどの強面だが、その性格はとても温厚でシャイだった。
『そっか。ありがとう、パパ!』
出不精のパパがふらっとデパートになんて行かないことはわかりきっていたけれど、わたしは素直に頷いてお礼を言った。
パパは照れたようにクシャリと笑った。
『月乃は昔から肉、好きだったからな』
『うん! お肉大好き!』
だけど、美味しそうなのはお肉だけじゃない。付け合わせのほうれん草のソテーに人参のグラッセ、既に卓上で温かな湯気を立てている具だくさんのスープも、どれもこれもが目にまぶしいくらい。
パパとママには口が裂けても言えないけれど、お肉を抜きにしたって、わたしがこんなふうにまともなご飯を食べるのはずいぶんと久しぶりのことだった。帰宅して倒れ込むように眠るだけの生活の中、食事に割ける時間などあろうはずもない。最近はもうずっとカロリーバーかゼリー飲料しか口にしていなかったのだ。
目の前で温かな湯気を立てるママの料理が、涙が出そうなくらいうれしかった。
『はははっ、喜んでもらえてよかったよ』
小さい頃からパパとママはわたしの自慢であり、憧れだった。パパみたいな旦那様を見つけて、ふたりのように温かい家庭を築きたいと夢見ていた時期もある。でも、そんな未来はきっとこない。日々の業務はあまりに過酷で、わたしには恋愛をする時間も心の余裕もないのだから。
なにより今は、時間があったら寝ていたいというのが本音だった。願わくば次に生まれてくる時は、パパのお膝でとろけた目をしたルルみたいに、お気楽に暮らしたいものだ。
ブラック企業に勤め、息つく間もない日常が、わたしをすっかり無気力にしていた。
『さぁさ、熱い内に食べましょうか』
ママがエプロンを外しながら、キッチンからダイニングにやって来る。
『それじゃあ、いただこうか』
ママがテーブルに着き、三人揃っての食事が始まる。
『うんっ、いただきまーす!』
わたしは暗くなりかけていた心を切り替えて、ナイフとフォークを手に取った。
大きめにカットして、大きく開けた口にステーキを頬張ると、香ばしさが口内に広がって、噛みしめるごとに肉汁が迸る。
上質なステーキ肉は幾度か咀嚼するだけで、スーッととろけるように口の中から消えていった。
『おいしいっ! なにこれ、しっかり焼けてるのにとろけるくらいやわらかいの! しかもクセがなくて、お肉自体がすっごく甘い!』
おいしいお肉に目を輝かせるわたしに、パパがルルにひと切れ分けてやりながらさりげなく口にする。
『月乃、またこの肉を買っておくよ。だから、もっとちょくちょく帰っておいで』
はぐはぐとステーキを食べたルルは、よほどおいしかったのか目を真ん丸にして、『もっとくれ』と言うようにパパの手をペロペロしていた。
『そうよ。月乃ちゃんがなかなか帰ってこないものだから、最近はパパがすっかりしょぼくれちゃって。もう、見ていられないんだから。また、帰ってらっしゃい』
『……パパ、ママ、ありがとう。来月も、時間を作るよ。絶対に、また帰ってくる!』
『そうか!』
『まぁ! よかったわね、パパ! また来月も、三人でステーキを食べましょうね』
わたしの答えにパパとママは笑顔を弾けさせた。嬉しそうなふたりの姿に、わたしはどんなに忙しくても必ず来月も帰ってこようと心に誓った。
ところが、神様はどこまでも非情だった。
この帰省の翌週に、わたしはまさかの過労死。あっけなくこの世を去り、二度とパパとママに会うことも、おいしいステーキを味わうことも叶わなかった。
魂だけの存在になったわたしは、ふわふわと自宅の上空を漂っていた。
だけど、残る時間はもう僅か。天からの引き寄せが、かなり強くなっていた。
『……パパはもう二度とステーキが食べられる気がしないよ。これはルル、お前がお食べ』
『あなた……っ』
自分の遺影が掛けられた仏壇の前で涙に噎ぶパパとママ、『やったー♪』とばかりに尻尾を振ってステーキに噛り付くルルを眼下に眺めながら、わたしはついに吸い寄せられるように天高くへと飛び立っていった。
《ふみゃ~(お肉うまうまうま。やわらか、とろとろ。おいしくって、ほっぺたが落っこちちゃう~)》
魂だけの存在になったせいか、なぜかステーキを頬張るルルの暢気な声が、明確な意味を持って聞こえていた。
……神様のバッカヤロー(怒)! もう過労死なんて絶対に御免だ。来世はわたしも、お気楽なネコになりたーいっ!
わたしはパパとママにありったけの感謝と別れ、そして先立つ親不孝を詫びた後、こんなふうに声にならない声で悪態を叫んだ。それが残る記憶の最後。わたしの魂は、真っ白な光の中に吸い込まれて消えた――。