たぶん、シンデレラじゃない私のスリッパ
我が校では上履きの代わりに、スリッパを使用している。
おかげでどこに行くにもぺったんぺったん、間抜けな音が響いてイライラするったらありゃしない。特に今日のそれの不快指数は、スーパーヘビー級。工事現場の騒音でも聞いていたほうがまだマシ、というぐらいだ。
苛立つままにスリッパを踏みならし、職員室に向かうと私は英語教師・山田の元を尋ねる。冴えない眼鏡をかけ、この世の不幸をいっぺんに背負ったみたいな顔をしているこの男はいつもテンションが空回りしている。やれ辞書は電子辞書ではなく紙の辞書を使うべきとか、やれサリンジャーだの誰それの文章が素晴らしいだとか、いきなり熱く語り出したかと思うと「そう思うだろう?」と前の席にいる生徒へ同意を求めてくる。
クラスメートはそんな山田を嫌い、こぞって眼鏡やコンタクトレンズの度を上げ山田に話しかけられる率が高い前の席になるのを全力で避けようとしている。それも無理はないだろう。山田は冷静に耳を傾けると良いことを言っているものの、英語への情熱がいつも斜め上に突っ走っているのだ。おかげで得意だったはずの英語が、近頃はちっとも面白くない。
特に嫌なのが、今から提出する小テストのやり直し。テキストに載っている英文を丸ごと——文法とか単語とかいうレベルではなく最初の大文字から最後のピリオドまで、まるまる暗記して一言一句、間違えないように書かなければいけない小テスト。規定の点数を下回ったら、書けなかった文章を五回も書いて提出しなければならない。そんなものを授業の度にやらされるものだから、どうしたって「やり直し」は溜まってくる。
「やっと来たか。君みたいにやり直しを何枚も溜めて提出してくる生徒は他にいないよ。この英文、ちゃんと覚えてるのか?」
相変わらず不幸そうな顔の山田にそう言われ、言葉に詰まる。それでも「えっと……」と英単語を口にしてみたがどうやらそれは間違いだったらしい。
「ちゃんと覚えてないなら意味が無いじゃないか!」
そう山田は怒鳴りつけられ、私は逃げ出すように職員室を出た。
ぺったんぺったん、耳障りな足音は爆発へのカウントダウンだ。
こんちくしょう。何枚も溜めてくるって、お前が何回も小テストをやるからそうなるんだろうが。だいたい「私の妹は一昨日からずっと入院しています」なんて英文、実際その状況に陥った時以外絶対に使わないだろうが。それを丸暗記させて、一体何になるっていうんだ。だいたい言語なんて実際に使ってみて始めて覚えるのだからお前のくだらない戯れ言を聞いているより、実際に外国人と会話させる方がよっぽど英語の勉強になるだろう。なのに山田は「とにかく教科書・参考書を覚えろ」とぎゃんぎゃん吠え続ける。うざったいたらありゃしない。
いや、山田だけじゃない。「自称」進学校である我が高校の教師はみんな、そうなのだ。大して学力アップになるとも思えない小テストとそのやり直しを繰り返し、勉強時間だけを長くすればいいと思っている。それに逆らおうものなら、さっきの山田みたいにヒステリックに喚き散らすのだ。やれ勉強と部活を両立しろとか、やれ髪型や制服の着方がどうだとか、ああだこうだ言うばかりでどれだけ学生が大変な思いをしているかちっともわかっていない。「大人はわかってくれない」なんて大人ぶった子どもの言うことだが、この学校の教師はそう言われても仕方のないカッチカチの頭の持ち主ばかりなのだ。
そんなことを考えているうちにとうとう、私のぶつけようのない怒りが爆発する。
「あーもう、やってられるか!」
勢いのまま、私は誰もいない廊下で思いっきり空を蹴った。
その途端、私の履いていたスリッパがスコーン! と飛んでいった。
それはもう見事に、ぴょーん! と飛んでいった。某ゲゲゲの少年の下駄のように、あるいはサッカー選手が放った強烈なシュートのように。もしあのスリッパがスキージャンプの選手だったら、金メダルは間違いなかっただろう。しかし、あれはアスリートではなく私のスリッパだ。
所詮、スリッパはスリッパ。私のスリッパはそのまま美しい弧を描くと廊下の向こう、吹き抜けの階段へと飛び出し落下していく。
「うわっ、誰だ!」
階段の下から聞こえてくる叫び声に、私はさっと血の気が失せるのを感じた。
階段を駆け上がってくる音から逃れるように、咄嗟に廊下の角へ身を隠す。
現れたのは、原始人みたいな顔をしたいかにも凶暴そうな顔つきの野球部員だった。
ウチの野球部は大した大会成績を出せないくせに異常にプライドが高く、本来なら部活に精を出すべきこの時間も校内を我が物顔で占拠しダラダラとだべっている。どうやら私のスリッパはそいつの坊主頭に天誅よろしく、激突したらしい。頭の悪そうな顔を真っ赤にしながら、ヤツは辺りを見回している。
「クッソ、名前が掠れてて読めねぇ。いや、でも下の『田』って字は読めるぞ。おい、なんとか田、出てこい!」
コイツは思ったことをそのまま口にするタイプの人間らしい。馬鹿丸出しだなと思いつつ、私は自分の心臓がびくりと跳ね上がるのを感じる。
人間、怒り方にも個性が出るもので淡々とキレるタイプや泣き出すタイプ、怒りつつ巧妙に相手を恫喝するタイプなど色々なパターンが存在する。だけど私のスリッパが当たったこの馬鹿は、なんとなくヤバい怒り方をしそうな気がする。感情をコントロールできないだけならまだしも、怒りそのまま周りへと当たり散らすタイプだ。少なくとも「俺は絶対に女を殴らないと決めている!」なんて紳士的なポリシーを持ち合わせているようにも見えない。とりあえず「すいませーん、テヘッ☆」で許してくれるような相手でないことだけは明らかだろう。
ヤバい、絶対にヤバい。
どうしようと考える私をよそに野球部員は野獣のような声を上げ、それを聞いた他の生徒たちは何事かとこちらに集まりつつある。下校途中の子や自主学習に取り組んでいた真面目ちゃん、あるいは文化部所属の生徒など。みんな珍獣が鳴き喚いているので駆けつけてみたが、それを飼い慣らせるほどの猛者はさすがにいないようだ。じわり、と手に汗を握りながら私はそっと後ずさる。
前々から「新」の部分が薄くなっていることが気になっていたものの、今はそのおかげで特定を免れている。だけど、これからどうすればいい? あの調子じゃ私のスリッパは永遠にアイツの手で握られたままだ。あのスリッパは学校で指定されているものなので、取り返さなければ私が困る。だけどあの凶暴な馬鹿の前に出て行くのは怖い。あぁ、もう既にスリッパの色から学年が特定されようとしている。他の野球部員も集まってきたし、どうすれば……!
「あ、すいません。それ、俺が投げたんです」
まるで道でも尋ねるような、軽い調子の声にその場の空気がぴたりと固まる。
現れたのは同じクラスメートの、城山だった。ぱっちりした目に、太い眉が映える精悍な顔立ちのイケメン。私からしたら「面倒くさい」以外の感想が思い浮かばない学校行事にも積極的に参加しクラスを率いるコイツは、陽キャの中の陽キャ。スクールカースト最上位の、キング・オブ・リア充だ。そんな彼が爽やかな笑みを浮かべたら、さすがの馬鹿も怒気を抜かれたのか拍子抜けしたような顔になる。
「面白がって友達と投げてったらぽーんって飛んでちゃったんですよ。すいません」
へらへら笑うその姿はかえって相手を苛立たせそうなものだが、野球部同士ということもあってかどうやらすんなり許す気になったらしい。
次やったらグラウンド10周だからな! とがなる馬鹿に対し城山は片手を挙げ、軽く頭を下げた。事態はこれにて終息、めでたしめでたし。そんな空気になり生徒たちは散り散りとその場を離れていく。だが、私が危機的状況にあることは全く変わっていない。
持ち手が馬鹿から城山になっただけで依然、私のスリッパの片方が取り上げられた状態にあることに変化はないのだ。むしろ相手がクラスメートになっただけ厄介と言える。私のような陰キャ女子が、あんなTHE・人気者の彼に気さくに話しかけることなどできない。どうする? どうなる? そう自問自答を繰り返していると、ふいに城山がこちらへ向かってきた。慌てて逃げ出そうとする私を呼び止めると、城山は私のスリッパを差し出す。
「新田さん、これ返すよ」
そのまま野良猫に餌をやるみたいに、城山は私のスリッパをぽいと床に置く。
「……なんで?」
同じ学年とはいえなぜ私のスリッパだということがわかったのか。そう問いかけようとする私に城山は淡々と口を開く。
「いや、同じクラスなんだし放っておけなくてさ。それに新田さん、前にスクールバスで『なぜ俺』読んでたでしょ? 俺もあれ好きだから、そのよしみでさ」
そういうことを聞きたいわけじゃないんだが。しかし私は城山の出した単語にぴたりと硬直し、そのまま石像のように固まる。
『異世界に行ったらクラスメートは全員勇者なのになぜか俺だけ魔王だった』、通称『なぜ俺』。ネット小説サイトで公開されているそれはいわゆるテンプレ異世界ものだが、いっそ清々しいほど作者の趣味が反映された展開と厨二臭のする大胆な設定が評価されサイト内でもそこそこの評価を得ている。そんなアングラな作品を城山のような人間が知っているのには驚いただが、私が『なぜ俺』を見ていたのはファンだからではない。
『なぜ俺』の作者は影山黒人。それは私のペンネームであり、つまり——『なぜ俺』の作者はこの、私なのだ。
勉強以外、私に関心を向けてくれない両親。なんだかんだと難癖をつけてくる教師。いまいち馴染めないクラスメート。そんな日々に嫌気が差し、ストレス解消のつもりで書き始めた物語が思いの外、長くなった。それを軽い気持ちで投稿したら意外と高評価を得ることができて、ますます物語の世界へとのめり込んだ。ご都合主義でもツッコミどころ満載でもかまわない、どうせ現実はどうにもならないことばかりなのだ。だったらせめて、物語の世界くらいはカタルシスを得られるようにしたい。そんな私の陰鬱な願望を体現したのが『なぜ俺』。
それをこの、男子にも女子にも愛される真のイケメン・城山が面白がって見ている。そう気がつくと私は急に惨めで、みすぼらしい格好をしているような気持ちになってしまった。そんな私の変化にも気づかず、城山はキラキラした笑顔で『なぜ俺』の感想について語り始める。
「ルシファーって弟のせいで辛い幼少期を送ったとか言いながら結局、弟のこと大好きだよな。ツンデレ、って奴なのかな?」
「……違うよ。ルシファーはずっと、『自分だけ扱いが悪い』って怒ってるんだよ」
私みたいに、という言葉は飲み込む。
ルシファーは有名な悪魔であるが、『なぜ俺』の世界ではとりあえず魔王の部下である三柱の一員という設定で登場させている。優秀な弟ばかり溺愛する両親に反抗し、家を飛び出した彼は私の苛立ちを体現させたような存在だ。一生懸命に頑張っているのに、それを周りに評価してもらえない。みんながみんな、「もっと頑張れ」「もっと努力しろ」と言うばかりで今の私の功績を認めてくれない。そんな私の卑屈な気持ちを集約させたのが、ルシファーというキャラクターなのだ。
城山は驚いたような目で私を見つめている。一点の曇りもない、純朴で真っ直ぐな瞳。
——あぁ、私はコイツのこのやたら輝いている目が嫌いだ、好きになれないんだ。
そう思いながら私はぐっ、と拳を握る。
他人の悪意に晒されたことがない人間は、えてして悪意を持って行動する人間やそれで被害を受ける人間の気持ちがわからないものだ。家族ならみんな仲良し、クラスメートはみんな仲間。そんな絵空事が当然のことだと思い込み、そうじゃない中で生きる人々は遠い世界にしかいないと思っている。私はそんな人間が嫌いだ、辛い中で生きる人々をファンタジーとしか思っていないような人間が嫌いだ——その筈なのに、イケメン代表の城山を前にしてあっさりときめいてしまう自分が悔しい。
私は目の前のスリッパ、城山が野球部から取り返してくれたスリッパを履くとそっと口を開く。
「簡単に割り切れないんだよ。人の感情って」
ルシファーは人じゃないけどね、と呟き私はうつむいた。
ここで素直に「ありがとう城山君!」と言えないのが私の陰キャ女子たる所以だろう。わかってる、靴を拾ってもらえたからと言って私はシンデレラのような美人じゃないし、城山のような王子様と付き合っていけるようなテンションの持ち主でもない。それでも、ほんの少し、一抹の希望を抱いてしまう自分が悲しくて——
「なんかカッコイイこと言うね、新田さん」
城山のさりげない褒め言葉に、ドキッとしてしまう。
違う、こんな簡単なことで落ちるほど私は単純な女じゃない。城山だって私のような女子はきっと眼中にないはずだ、そう思いながらも私は城山の顔を見つめてしまう。眩しい笑顔に私はふらっとしながら、考えた。
『なぜ俺』はストレス解消のために書き始めたもので、これからどういう展開になるかは何も考えてない。今回も敵キャラの能力を強くしすぎたから、主人公が何か新しい能力を手にするとかそういう強引な展開で解決しようと思っていた。だけどそんな私の世界を覗き見て、私に手を差し伸べてくれる人が今、ここにいる。イライラする私と、そのイライラを解消するために作られた小説家としての私。どちらも見ている城山という人間が確かに、ここに存在するのだ。
「ありがとう」
素っ気なく口にすれば城山の輝かんばかりの笑顔が返ってくる。
……私は本当に、こういう人間が嫌いだ。私のような人間に期待を持たせて、ささくれだった日々にほんの少しの希望を抱かせてしまう。だけど、今はそれをちょっと愛おしいと思えて、『なぜ俺』にラブコメ要素を入れてもいいかななんて考えてしまう。
私はたぶん、シンデレラじゃない。でも、「たぶん」はあくまで推測で全く可能性がないわけじゃない。そう思いながら私は大嫌いなスリッパを履き、嫌いなはずの城山の前でちょっと——本当にちょっと、笑ってみせたのだった。