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「自分が犠牲になれば、皆が助かる」ボタン

 インターネットなどで、人間の行動が以前よりも遥かに広い範囲をカバーできるようになったお陰で、“人間が私利私欲の為に行動する”という単純過ぎる想定は実は誤りであった事が分かって来た。

 人間はどうも“理想的な自分”を心の中に持っていて、その理想的な自分に近づけるように行動をするものであるらしい。

 僕はその話に大いに納得できる。

 何故なら、僕には“理想的な自分”があって、そんな自分になれたらな、と常に思っているからだ。

 それは、どんな“自分”かって?

 そうだな。

 例えば、「自分が犠牲になれば、皆が助かる」ボタンがあったとしよう。

 それを押せば僕は死ぬけど、その代わりに世界中の皆が助かるというボタンだ。もし自分の目の前にそんなボタンが現れたなら、迷わずにそれを押せる。もし叶うのであれば、僕はそんな人間になりたいと思っているのだ。

 僕は勉強もできないし、スポーツだってそれほど得意じゃない。けれど、皆の為になら自己犠牲を厭わない強く美しい心を持つ事ができたならそれで充分なんだ。

 もっとも、実際にそんな状況になった時、それが僕にできるかどうかは分からない。それは飽くまで“理想的な自分”だからね。

 

 もしかしたら、僕は心の何処かで、「そんな状況は起こりっこない」と安心をしていたのかもしれない。

 だからこそ、そんな“理想的な自分”を掲げられていたんだ。

 

 だけど、“そんな状況”は、実際に起こってしまったのだった。

 

 ――苛立たしげに、僕の後ろの席の坂崎が机の上に足を乗せた。

 僕はそれに怯えた。

 坂崎は身長が高くって、痩せているにもかかわらず、かなりのパワーがある。しかも、乱暴者で皆から恐れられている。喧嘩が強いからいじめられこそしていないけど、煙たがられているのは明らかで、本人もそれが分かっているのかいないのか、周囲に対して敵意を向ける事が多い。

 つまり、かなりの“困ったちゃん”なのだ。

 僕は彼に内心で呆れていた。多分、彼は自分の中に“理想的な自分”を抱いてはいないのだろう。だから、そんな風に行動が無軌道で自棄気味なんだ。

 そんな彼が苛立っているのには理由があった。今、高校の教室に僕らはいるのだけど、何故だか閉じ込められてしまっているのだ。朝のHRが終わって休み時間も終わったはずなのに、いつまで経っても一時限目の授業の先生がやって来ないので、おかしいと思った生徒の一人が外に出ようとして気が付いた。

 教室のドアがまったく動かない。

 しかも、鍵がかかっているのではなく、まるでドアがいつの間にか何かの装飾物に変わってしまったかのように動かないのだ。そこだけ時間が停まっているとでも言おうか、異世界の別の法則が支配する世界の物質になってしまったとでも言おうか。

 何名かがスマートフォンで外に連絡しようとしたのだけど、まるで通じなかった。

 

 「チッ…… 何なんだよ、これは?」

 

 坂崎がそう愚痴るように言った。

 それを言ったのは坂崎だったのに、何故かその言葉で僕に視線が集まる。理由は分かっている。“坂崎を宥めてくれ”と皆は僕に訴えているのだ。

 相性の問題か、それとも僕が“自己犠牲を厭わない強く美しい心を持つこと”を理想にしているからか、坂崎は比較的僕には当りが穏やかなのだ。僕が言うと、治まってくれることも多い。もっとも、僕は内心では彼に怯えているのだけど。

 「まぁ、待つしかないのじゃないかな? こーいう状況だと、苛々した方が負けだって思うよ。気楽に楽しんだ方が良い」

 僕の言葉を聞くと、坂崎は「まーなぁ」と返した。いかにもつまらなそうだったけど、少なくとも苛立ちは消えたようだ。それで皆は安心した顔になる。

 “良かった。なんとか務めは果たせたみたいだ”

 と、それで思う。

 ところが、そのタイミングだった。突然、全身真っ黒なまるで黒衣みたいな人影が、教壇に現れたのだ。

 「うわぁぁ」、「キャー」という皆の悲鳴が狭い教室内に響く。

 「あー、皆さん、静粛に、静粛に」

 と、その黒衣は不気味な程にひょうきんな声で言った。誰かが「お前は何だ?」と訊いた。黒衣は少しだけ間を溜めてから、

 「ここにあなた方を閉じ込めている者です」

 などと言う。相変わらず、不気味なほどひょうきんな声で。

 教室は再び騒然となり、何名かがその黒衣に殴りかかった。ところが、その黒衣には彼らの拳は当たらなかったのだった。まるで影みたいにすり抜けてしまう。

 黒衣は楽しそうにしながら言った。

 「無駄ですよぉ。空間自体が別の場所にいますからね」

 そんな黒衣に恐怖したのか、皆は黙って、誰も近付こうとはしなくなった。少しの間の後で誰かが訊いた。

 「お前の目的は何だ?」

 「フフ」と笑うと黒衣は応えた。

 「詳細は教えられませんが、実は魂が一つ入用になりましてね。まぁ、それでてきとーにここを選んだという訳です。あなた方の内の誰かの魂を一ついただきたい」

 「魂を渡すとどうなるんだ?」と、また誰かが訊いた。

 黒衣はあっさりと「まぁ、死にますね」と答える。再び、教室は騒然となった。皆は口々に文句を言う。

 「ふざけるなぁ!」

 「冗談はやめて!」

 「そんなもん、自分の魂を使えよ」

 しかし、その罵声は黒衣にはまるで通じなかった。怯むどころか、「アハハハハ!」と楽しそうに笑う。

 「安心してください。誰か一人の犠牲で皆が助かりますから」

 そしてそれから透き通るように消えてしまった。教壇の上には彼の代わりに大きなボタンが一つ現れていた。

 ボタン。

 つまり、“犠牲になる誰かがそのボタンを押せ”という事だろう。

 それで皆は静まり返った。口には出さなかったけれど、犠牲になる誰かを心の中で選んでいるのだろう。そして、その皆が選んだ誰かはどうやら坂崎のようだった。視線や気配でなんとなく察せられた。

 しかし、そんな中で僕は彼を犠牲にしようとは考えていなかった。もちろん、それは僕の中の“理想的な自分”の所為だった。

 

 出た。本当に出てしまった。

 「自分が犠牲になれば、皆が助かる」ボタン。

 

 僕は緊張から動悸が激しくなり、汗もたくさんかいていた。

 

 “世界中の皆”の方ができれば良かったけれど、“クラスの皆”でも充分な人数だ。皆の為に犠牲になろう!

 

 そう僕は思っていた。

 簡単な話だ。席を立って、あのボタンを押せば良いだけの話なのだから。

 だけど、

 だけど、どうしても足は動かなかった。

 

 あれ? おかしいな? どうしてだ? 運動もスポーツもできないけれど、皆の為に犠牲になれる人間。それが僕の“理想的な自分”だったはずだろう?

 なんで、足が動かないんだ?

 立とうとする僕の足はガクガクと震えていた。分かっている。僕は死にたくないんだ。だから、足が動かないんだ。

 情けない。

 気付くと僕は涙を流していた。それが死の恐怖の所為なのか、それとも情けない自分自身に呆れている所為なのかは分からなかった。

 ようやく立ち上がりかけて、僕は足を滑らせてしまった。皆はそんな僕の様子に気付いたらしく不思議そうに見ていた。

 

 ……押す。

 あのボタンを押すんだ。

 

 僕は再び立ち上がろうとしていた。しかし、その時だった。そんな僕の頭を大きな手が圧したのだ。

 それはとても乱暴に思えたけれど、同時にとても優しかった。

 それは坂崎の手だった。それで僕は強制的に座らされてしまった。

 坂崎は何も言わなかった。言わなかったけれど、「そのまま座っていろ」と言っているように僕には思えた。

 そして彼は、そのまま教壇の所にまで、物怖じしない確かな足取りで真っすぐに歩いていくと、

 

 「自分が犠牲になれば、皆が助かる」ボタン

 

 目の前のそれを、彼は叩き壊すようにして押してしまったのだった。

 まるで、誰かを犠牲にして自分が助かろうとする皆の事を殴っているように僕には思えた。

 

 その彼の行動と光景を、皆は驚愕しながら見つめていた。ボタンが押されると、彼の身体はみるみる白くなっていった。きっと、魂が抜けてしまったのだろう。

 そしてその瞬間、空間が切り替わり、元の教室に戻っていた。

 坂崎だけは動かなくて、石のようになっていたけれど。

 

 皆の為になら自己犠牲を厭わない強く美しい心を持つ人間。それが僕の“理想的な自分”。そのはずだった。

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