第96部分 異類婚姻譚① ~生き物たちの恩返し~
第 部分 異類婚姻譚① ~生き物たちの恩返しの形~
本日5月27日は、日露戦争の日本海海戦勝利を記念した「海軍記念日」だった。
司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」に綴られたエピソードはあくまでも小説、つまり司馬氏の小説的構想がまあまあ多くの部分を占めるものであるが、それにしても小説を遥かに超える「奇跡としか表現できない史実」が今の日本の礎になっている。
日本海海戦だけに限ってみても、奇跡とか偶然で片づけるには良い方向に「ツキまくった」のはなぜか。
私のごく乏しい知識のなかでさえ、不可思議な事象を幾つも指摘することができるくらいだ。
あのとき…
・聯合艦隊が津軽海峡に向かわないで対馬に待機し続けたこと
・鈴木貫太郎(太平洋戦争敗戦時首相が指揮した第4駆逐隊の運動が機雷敷設と誤解されてロシア艦隊に二列縦陣を強いたこと
・一時ロシア艦隊を見失った後、偶然再発見できたうえに優速を活かして明るいうちに追いつけたこと
・27日夕刻、「富士」の放ったその日最後の「怪弾」が「ボロジノ」を撃沈に導いたこと
・翌日ロシア第3太平洋艦隊を発見できたこと、駆逐艦ベドーウィ上で中将ロジェストヴェンスキー司令官を確保できたこと
やばい、今日が終わってしまいそうなのでこの辺で省略。
それこそ事実として証明はできないけれど、後日談として一部には神国ニッポンの八百万の神々(かみがみ)の現身が白い軍服に身を包み、あるいはおキツネ様やおタヌキ様の姿を借りて戦場に出現したとの口碑さえあると言うではないか。
日露両軍ともに白い軍服はないにも関わらず、日本陣地側に出現する「白い軍服」の兵隊には弾丸が命中することなく、またおキツネ様やおタヌキ様のみならず大小さまざまな天狗様やら神社に祀られた神様までもが列車の進行を止めて乗り込み、大陸に赴いたとの伝説もあるという。
なるほど、おキツネ様やおタヌキ様も神様とともに神国日本のために闘ったのか…
そこで… だ。
いま密かに待っていることがある。
それは真夜中の訪問者である。
丑三つ時あたり、つまり午前二時ころにチャイムが鳴る。
無論爆睡であるはずの私は、仮にチャイムに気付いても布団から出ることは無い。仮に起きて親切に対応したとしてもロクな末路は待っていないからだ。
例えば玄関先におっさんが立っている。こっちからは用はないワケだから、すぐサヨナラするだけのためにわざわざ起き出す必要はなく、当然居留守を使うことになるだろう。爺さん、婆さん、オッサン、オバサン、そしてガキども… いずれもまた平等に同じ扱いをすることになる。
しかし… 若くて綺麗な娘となれば事情と扱いはが一変する。
えっと… これは差別ではなく区別である。ぬぬぬちょっと苦しいかな…
そう、これは単なる気まぐれであり、差別の意図は全くない。
いや、こちらの需要に対して供給がネギを背負ってやってきたワケだから当然である。なんなら経費を負担しても良いくらいだ。でもそれじゃまるでデリヘ… いやなんでもない。
スピーカーから流れる鈴のなるような声を聴き、モニター映像で相手を見たら階下に飛び降りるだろう。
だがここで… すぐに扉を開けてはいけない。
これは世の中には可愛いオンナノコをエサにして扉を開けさせたあと、超短期的美人局、つまり強盗に変じる輩も存在するからである。
例えば
「困ってるんです、トイレを貸していただけませんか」
とかなんとか言う口実を信じてうっかり許可を与えると、オンナのすぐ脇に待機している武装したオトコが一緒に押し入るなんてことも想定する必要があるからで、まあ99%以上はそういう胡乱臭い用件だろうから、はじめから応対せずに警察を呼ぶのが最も適切な対応なのであるが…
にも関わらず、若くて綺麗な娘に対してだけは階下に降りてしまうのはなぜか。
それは… 私は待っているからである。
何を… って?
知れたこと、それは
『アノ時助けていただいた〇〇です、今宵は御礼に参りました…』
という一言である。
あるいはとりあえず上がり込んだあと、なんやかんやともっともらしく理屈を付けて家に留まってくれても良い。押し掛け女房は私の好みではないずうずうしい女性では困るが、そうでなければまあそれはそれでなんとか慣れていける自信がある。そもそもサティはストライクゾーンの広さに定評があると思うのだが…
無論若い娘だからと言って、いきなり扉を開けるワケではない。
まずドアチェーンを確認してからスタンガンをONにして握りしめ、防犯スプレーを利き手に握ってからそっとロックを外す。
ここでいきなり扉を勝手に開けようとするヤツは明らかに敵である。
私はそっとドアを3センチだけ開けて、
「どなたですか、どんなご用件ですか」
と問うだろう。
昔話では暗がりの道をとぼとぼ独りで歩いてきたうら若き美しき女性が「道に迷って困っています」とかいかにもな口上をほいほい信じてどんどん泊めてしまうが、治安が悪くなかったとはいえ防犯意識が低すぎて怖い。だいたい独りで山道だの田舎道をそういう女性がうろうろしつつ里の民家まで「無事に」辿り着くことなどできようか。昔の観点で言うなら、そいつはすでにビッチとしか思えない。
だからここは素直かつ控え目に
『アノ時助けていただいた〇〇です、今宵は御礼に参りました…』
というコトバが返ってきたら、これはホンモノと言えるだろう。当事者しか知らない事実を語られれば、これはもう信じるしかない。
毎晩毎晩、今日こそはそんなことがあるんじゃないかと半ば緊張、半ば夢想して眠りに就いてきたが、たったの一度もそんなハプニングが起きたことがない。このままいけば、寿命の方が先にくるんじゃないだろうか。
私はニンゲンとニンゲンに近いイヌネコはあまり好きじゃない分、それ以外の生き物には滅法甘い方である。イヌネコというより、それを飼う飼い主が尿や糞を放置したりする自分勝手さが嫌いなのかも知れないが…
ここまでの生涯で窮地に陥った生き物を救護したことは、それこそ枚挙に暇がない。
道端のゴミだらけの側溝で動けなくなっていたイシガメ。
巣から落ちてしまい、死を待つだけのスズメ、ムクドリ、セキレイの雛。
このへんが端緒の原体験となっている気がするのだが、小学生だった頃は、市の条例とか何とかよりも絶えようとする命を絶やさぬようにすることが正義だと信じていた。
大人になってからは必要以上に手を掛けることを敢えて辞め、目前の死だけを回避させたあとはある意味親や自然に任せるようになった。無論精神的にはこちらの方がずっと切ない。
電線にぶつかったのか、翼が折れて畦道に倒れていたコサギ。
サッシにぶつかって気絶していたカラスやアオゲラ(キツツキの仲間)。
通勤中に道路を横断していたアオダイショウを見つけて停車し、車から降りて対向車を停めて誘導したこともあったっけ。
無論効なく鬼籍に入ったものもあれば、無事回復して回帰していった幸運な動物もいた。
ところで…
ことしの1月半ば、つまり真冬の散歩中の話であるが、気まぐれで散歩…というか運動のコースを変えたことがある。
そのときいつもの散歩コースに戻る道の途中にある竹藪の際にコンクリート製のが目測直系70cm程度高さ100cm程度の構造物が3個並んでいるのを見つけた。言うなればドラム缶のサイズ感である。これがちょうど円筒が立つように並んでいるのだ。うち二つは地面から30cm以上は突き出ていて、底面には20cm適度の湿った落ち葉が自然に重なっていた。そして残りの1つは、上面が周囲の落ち葉から5cmほど高くなるように地面に埋まってた。
さらにぱっと見で上から60cmくらいのところに水面が見えたのである。
水溜まりを見つけると、つい覗き込みたくなるのが筆者の習性である。いま14時だけど季節柄もしかしたら凍ってるかもな…
そんな思いで覗き込んだ瞬間、
「ッシャッ!」
水面が揺れ、大きな波紋が躍ったのである。
「ん… な、なんなんだ?」
ちょっと今日は時間切れ。
あしたはちょいと遊びで遠出するかもしれないので、本日はここまで。
ではみなさま、ご機嫌よろしゅう…