第79部分 春日山城跡を散策して… 特殊過ぎる「水の手」について
第79部分 春日山城跡を散策して… 特殊過ぎる「水の手」について
水の手はもちろん「みずのて」と読む。
ただし単語自体には複数の概念が含まれる。
1つ、城中などに飲用水を引き込む水路。また、その水を供給する場所。
2つ、消火用の水。また、そのための水路。
3つ、川・堀など、水の多い地域・地方。
などだが、今回触れようと考えたのは1つめの、「城の給水」に関するものである。
えっと、触れると言っても、サティは単なる素人であり、しかも数十年前の知見印象を含めて書くので、記事の正確さは保証しかねまする。まあ漫談放談の類だと思ってお読みくだされ。なんなら正確なことを「感想」欄にでも書いていただければ恐悦至極’(きょうえつしごく)でございまする。
では…
古来「水の手」を攻められて落城に至ったケースは多い。
そりゃそうだ、食糧が乏しくても数週間程度ならなんとかやりくりガマンすることは可能かもしれない。それに備えて城の敷地には「松」を植え、漆喰の壁には強度保持と非常食を兼ねてワラを塗り込んだというではないか。ちなみに「松」は樹皮を剥ぐとなにやら可食部がでてくるとかいう話だったが… 調べてみると常緑樹という意味で美観、そして非常食として利用されていたのだとか。松葉は刀傷に効くなど「殺菌力」のほかにビタミン、ミネラルも含まれて食べる方の役割もあったらしい。しかし現代でも食ってる人っているのかな? とうてい美味いとは思えんが…
また松の外皮を剥ぎ、白い生皮を臼でついて水に浸して苦みと独特な臭いを薄め、その液体を漉
して干した粉を麦粉などに混ぜて餅のように食べたという。むろん飢饉のときの非常食であるが、籠城で食に窮した際にもこうして対抗しようとしたものらしい。三木城とか鳥取城でもこうまでして闘ったのだろうが… そもそも籠城など、確実に味方の救援が見込めなければしてはならない手段のような気もするが、そうも言ってられない事情や意地がそれぞれあったに違いない。
逆に松にまで手をつけるということはカニバリズム(食人)の序曲のようなもので、攻囲軍は「バンザイ突撃のような死兵」にだけ気を付けていれば勝利は目の前といった状況なのだろう。
しかし「水無し」の状態では一週間生存することさえできない。
『三河物語』によればこんなケースさえあったという。
遠州二俣城は天竜川と二俣川が合流する地点の崖上にあった城で、その2つの川が天然の堀兼「水の手」を成していた堅城であった。つまり水不足などは一切考慮不要の立地だったワケだ。うん、そりゃそう思うよな…
城将は中根正照、三河遠江を治める徳川家康の援軍を期待しつつ1200人ほどの城兵を率いていたのに対して、これを攻めるは武田信玄軍ざっと2万7000人。
10月18日から攻撃が開始されたが、急流沸立つ河川からの攻撃は不可能であり、攻め口は北東側陸路の急な坂道に繋がる大手口に限られ、精強をもって鳴る武田軍でさえ攻めあぐんで進展のないまま12月を迎えるに至った。
信玄様は力攻めでの攻略は無理と判断し、水の手を絶つことを構想した。二俣城のすぐ崖下が河川であるがために他の井戸は用意されておらず、天竜川沿いの断崖に井戸櫓を組み釣瓶で水を汲み上げて給水の用を足している。これじゃ自慢の「金堀り衆」も役にたたないが…
うむ… でも… もしかして、これこそが盲点ではなかろうか。
しかし盲点であるからと言っても井戸櫓は川沿いの崖上にあり、安直に歩兵や騎兵を突撃させることはできない。
「さて、ここは一工夫が要るところじゃの…」
いかに真下に急流が渦巻こうとも、汲み上げられなければ何の意味もないではないか。
「あの井戸櫓さえなければ… うむ、アレを壊してしまえば… そうか!」
信玄は大量の筏を作らせて上流から流し、筏を井戸櫓の柱に激突させて破壊するという作戦を決行に及ぶ。こうして大量の筏に激突された井戸櫓の柱は崩れ落ち、水の手は絶たれたのである。
信玄は水の手を絶った上で、開城を迫った。たまらず城将中根正照は信玄に降伏・開城して浜松城に逃走している。こうして、二俣城は武田方に攻略されたのだという。
別の水の手を絶たれた城では、それでも「水には不自由していないこと」を相手に示すために、コメを桶に入れて「相手に見えるように」米粒をザーザー落として、あたかも水をジャブジャブ消費しているようアピールして見せたりしたという。
ううん… いかに遠目でもバレそうで… これって逆効果な気もするけどなぁ…
んんん、そう思ったんだから仕方がないか。
まあいいや…
そこで、春日山城である… といっても今は「城跡」であって、何らかの建造物があるワケではない。
このたび三十年ほど前に海音寺潮五郎が著した「天と地と」を読んで以来…いやもっと前だ、幼い頃に同名の大河ドラマを見て以来、かねがね行ってみたいと思っていた「春日山城」を訪れることができた。
かといって不識庵長尾謙信様の居城であったこと以外、何も知ってはいなかった。
まず、上杉謙信様といえば越後、つまり新潟のイメージがどんと来る。つまり春日山城は新潟にあるんだろう…と漠然と思い込んでいたワケだ。新潟の砂丘でできた海岸線をはるかに広々と見下ろす山脈の北西向きにそそり立つ山城… 根拠のない予想は案の定ほとんど違っていた。
まず所在地は現在の「新潟県上越市春日山町」であり、新潟県の南西部分で北東を向いていたらしい。そこから山間に70km弱分け入ればもう長野県長野市であり…そう、そこは川中島合戦の舞台なのである。そこに信玄様が進攻してくるとなれば穏やかではない… どころか、物騒このうえなく危なくて仕方ない。小笠原長時や村上義清から頼まれようが頼まれまいが、座視することはできなかったはずだ。世間一般では謙信様を「毘沙門天を信仰して義侠心に富み、領土的な欲心を持たない」と評価する場合が多いが、ほんとうにそうだったのだろうか。ちょっと前のロシアとNATOの間にウクライナのような緩衝国があったのと同様に、謙信様の越後が信玄様が征服しつつある信濃と国境を接するのを嫌ったという方が実情に合うのではあるまいか。つまり領土的野心やら義侠心やらを持ち出さなくても、小笠原氏や村上氏の信州の領地を「信玄様との緩衝地帯」として保護しようとした…と考えればごく自然に納得できるはずなのだ。
まあロシアは2014年にクリミア半島までを強奪してしまったが、あれでウクライナにNATOに入るな、と脅してもできない相談というものである。どころか、スウェーデンどころかフィンランドまでNATOに加盟することになってしまったりして、もうプーチン氏の指し違いの連鎖は止まらないことになっている… というか、実情、もう引っ込みがつかないのだろう。さあ、トランプ氏が出てきて、おそらくウクライナには不本意な形で停戦はできるだろうが… アメリカが愛想尽かせば、もう抗戦は難しいから… だがしかし、近日中にこの停戦はロシアによって破られることになるだろう。あとは大国の誰かさんと誰かさんの健康状態か寿命かで決まることであって… おっと話が反れ過ぎた。
春日山城は名前の通りの山城である。
鉄砲が普及する前の典型といっても良いかもしれない。
主に越後長尾氏の居城であり、別に謙信様が築いたワケではない。そもそもは南北朝時代に越後国守護である上杉氏が越後府中の館の詰め城として築城したのが始まりとされ、山全体が「天然の要害」の難攻不落を謳われた城である。もっとも「難攻不落」のはずだった城が落ちた例は、それこそ無数に存在する。あの美濃の国、斎藤道三の居城であった「稲葉山(金華山)城」などは6度も落城しているではないか…
1507年(永正4年)、守護代であった長尾為景が上杉定実を擁立して守護上杉房能を追放した。新守護として定実が府中(越後府中:上越市内)に入ると、その黒幕たる長尾氏が春日山城主となった。
以後長尾為景、晴景、上杉謙信(長尾景虎)、上杉景勝の四代の居城となったが、1600年関ケ原で西軍が破れ、その直前に言いがかりをつけられて東軍と全面開戦寸前だった上杉景勝が会津へ移された後、越後を支配した堀氏が「政に不便」として、1607年に福島城を築城して移ったことにより春日山城はその役目を終えたのである。
豪雨の直後、サティは城跡のややきつい坂道を水溜まりを避けながらゆっくり登ってゆく。
このあたりの道を謙信様や直江兼続、柿崎出羽守、宇佐美定行、長尾為景、晴景、政景、あとは…景虎に景勝なんかも息を弾ませて登ったのだろうか。あるいは緊張のあまり硬直しつつ、あるいは屈辱に身を震わせつつ城を見上げた武士も居たに違いない。
舗装部分を超えると、草を分けた細い山道になる。ぬかるむだけでなく、時として滑ってコケそうになる。あやうく立て直した視線の先に、とある看板があった。
「謙信公の財政を支えた『青苧』
~古くから「越後上布」の原料として珍重された青苧。上杉謙信公も、青苧商人や港に出入りづる船から税を徴収して、米・金銀と共に軍事と財政力を支えていました。ここに植えてあるイラクサ科のカラムシの茎から採れる繊維が青苧です。カラムシは、雨が多く、湿度が高い場所、そして風の弱い土地を好むため、越後(新潟県)は上質な青苧の山地でした。~
なるほど。
軍事にカネがかかるのは今も昔も同じこと。
戦に勝って報奨なり領地なりが稼げる「名ある武士」でなければ、動員された費用の償いは各自の才覚でなんとかしなければならない。謙信公、信玄公でなくとも行った先々で略奪を行い、強姦で憂さを晴らし、捉えたり拐したりした民衆を奴隷として人買いに売る…と言う「慣習」があったらしい。ほとんどの武将はそんなことを咎めてサボられたり裏切られたりするリスクもあってか、特に禁止することもなく、むしろ積極的に推奨した武将もいたらしい。
敵は別として、一般ピーポーの安全をきちんと保障したのは信長様くらいではなかろうか… これも不正横着を決して許さない彼の性格と尾張その他の交易物流の発展を促し、草津・大津・堺に代官を置いて裕福だったからこそできたに違いない。草津や大津を押さえれば琵琶湖の物流を支配することができる… ということは(当時はそういう名前ではないけれど)東海道や中山道そして日本海から京都に向かう物流も同時に支配できることになるワケだ。堺の商人からは「矢銭」を徴収してるし「鉄砲」の流通の大元を支配することになる… さすがは信長様で、なんも考えずに「副将軍」を勧めてきた将軍義昭(秋)とは人品の格が違うねぇ。
さらにこれを裏から眺めてみると、琵琶湖を眼下に見下ろしている比叡山延暦寺とは必ず対立する、という構図になる。そりゃ奴らはクソ坊主というより破戒坊主だったし聖なる宿坊に女を囲っているし古来から「僧兵」という見るからに矛盾を含んだ徒党を組織して都に強訴を繰り返してきたような、今の日本で言うなら「ウルトラ右翼」的な存在だろう。しかし信長様には琵琶湖利権を彼らと分け合う気など微塵もあるはずがない。経済的な旨味から見れば焼き討ちは必然であり、信長様にとって悪名などどうでも良いことだったのだろう。そしてあの事件が日本史に与えた影響は類を見ないほど大きいように思える。あの、「宗教という妄念払い」があったからこそ日本人の多神教的無神論者としての性格が生じ残存し続けたのであって、さもなくば海を隔てたところの仏教儒教大好き我が儘勝手で野郎自大な性格の民族ができたに相違ない。
さて、春日山城本丸はまだまだ上にあった。
徐々に誰それの屋敷跡とか、それらしい案内が増えてくる。
ほほう、柿崎出羽守屋敷はちょっと搦め手(裏側)の広いところか… この城は正面から力攻めするよりも山塊から続く搦め手から攻める方がなんとかなりそうな感じだからこそ、ここの守りは重要である。「天と地と」では戦にだけはべらぼうに強い出羽守だが、女に目が無く美女を献上されるとすぐ裏切るようなキャラで描かれていたが、それどころじゃないようだな。
なにこれ、直江兼続の屋敷って、、これ城のすぐ足元じゃん…よほど景勝に信頼され「愛」されていたんだな、なんて勝手な感慨に耽りながら歩を進めて行く。
さて、もうすぐ頂上、あの右上の一番高いところが本丸のあったところかな… と思ってふと視線を転じると「水の手」があった。
え、ちょっと…
ちょっと待ってくれ。
本丸のあったところからみて、5mほど下の僅かな平地に私は居た。
その左先に窪地があり、そこが「水の手」なのだ。
え、もうほとんど頂上じゃん…
覗いてみると、水面は5mほど下に見える。
差し引きすると、本丸のあった地面の10m下に水面があることになる。井戸周囲の草に邪魔されてしっかり見えないもののさほど深そうな感じはない。
春にはモリアオガエルが卵塊を産んだりするのだろうか。そして水底にはイモリが赤い腹を閃かせて落ちてくる「おぎょろったま(オタマジャクシの方言)」を貪り食ったりするのかもしれないが… はて、そもそもこの地にモリアオガエルがいたものか、どうか…
あ、そうじゃない、井戸のことだ。
さらにおかしなことがある。
「水の手」の外周の1/3から1/2は、5~8m程度から離れると… もう崖なのである。
状況が表現しづらいが… 山の頂上がある。そこから下に5mほど下がったところに瘤があって、そこが「水の手」なのである。しかもその外周半分程度は絶壁に近い崖に囲まれているのである。
常識的に、こんなところに水が溜まるはずがない。
…とは私の思い込みで、現実にはしっかりと数百年にわたって水をたたえ続けてきたのだ。
これがあったからこそ、ここに城が築かれたにちがいない… そう思わせるほど稀有な「水の手」なのである。
これは… いったいどんな地層構造になっているのだろうか。
ただし、この「水の手」に期待できるのはせいぜい数十人規模の水量ではなかろうか。理由は水の物理的性質にある。水はサイホンとか毛細管現象でもない限り下に向かって流れるためであり、この「水の手」の給水源は山頂付近に落ちた雨か雪以外には有り得ない。そして雨は必ずしも期待通り降ってくれない気象現象だから…
ニンゲンという生物が生活するためには、思った以上の水が必要である。戦ともなれば風呂と洗顔に洗濯はガマンするとしても食料、飲用だけでなく傷の手当のためにも必要だ、知らんけど…
そう思ったけど、そもそもこの城は越後府中の守護大名上杉氏の後ろ立てとして手入れされたものであり、緊急事態にせいぜい2~3週間籠城できれば後詰めの誰かが救援してくれるという発想で建築されたのではないだろうか。
そんなことを思いながら本丸があったとされる頂に登る。
実に素晴らしい。上越市はもちろんのこと、原発のある柏崎方面まで一望の下に見えるのである。
逆に背後の越中方面や南の信州方面は山塊に阻まれて全然見えない。
そうか、ここはやはり「越後を治めるという視点」で築城されたのか。
そういう意味では武田信玄という甲州起点の信州への侵略者は「想定外」だったといえるのではないか。
改めて地政学上の春日山城を考えてみよう。越後全体のどどんとど真ん中で辺りを威圧睥睨するというより、越後南西部の頚城平野出入り口を扼する位置で新潟方面を強く意識し牽制するかのような向きに築城したのだろう。
意外なことに謙信様が越後に産まれ、そして没するまでの間に何回の戦…しかも身内の反乱や裏切り、そして謀反の数はそれこそ数えきれないくらいにあった。
戦上手で統率力があったと思われる謙信さまでさえ、である。
ちょっと調べてみたが、そういう時代で、そういう地方性なのかもしれないが、それにしてもかなりヒドい。
しかもある武将が繰り返し謀反裏切りを繰り返し、繰り返し討伐されてはまた許されては重用され、そしてまた裏切るのである。そしてそれはひとりだけでなく複数いるから驚いてしまう。
中でも臣下としての佐野昌綱、北条高広あたりは特にヒドイけど、謙信様に戦には強くても人間性としてどこか甘いところがあったのも否定しきれない気がする。一度裏切った奴はそういうことを厭わない人間性なのである。関ケ原前後の藤田信吉なんかもそういう性格なんだと思うが… そりゃ重用すべき特技があったのかもしれないが、いつかそいつに寝首を掻かれるのが普通のヒトであることを思えば、苦労はしても切り抜けた謙信様はやはり普通じゃなかった、ということだろうか。凡人のサティには思い及ばないところである。
あ、あ、あ… 不意に我に帰りました。
なんか勢いに任せて知ったかぶりの「妄想的歴史語り」なんかして、もうどうにも収拾がつかなくなってしまったのでそろそろ御仕舞にいたしまする。
あ、多少なりとも興味を持った方は「国史跡 春日山城」というサイトをご覧くだされ。
サティはただ春日山城の「水の手」に興味を持っただけの、単なる異邦人にござりますでな、ははは…




