第72部分 歯医者さん… というより歯科衛生士さん1
第72部分 歯医者さん… というより歯科衛生士さん1
物心ついた頃にはすでに歯医者は苦手だった。
幼少のみぎり、サティは田舎町の山間部に近いあたりに住んでいた。
改めて考えると、たかが歯医者に行くことさえ一大イベントだったに違いない。
いまでこそ「コンビニよりも多い」などと揶揄される歯医者であるが、当時は市中に数件あるだけの高尚な存在であったように思う。
まだまだ「呼び出し電話」が当たり前だった頃である。推測ではあるが、おそらく電話予約などという制度は存在せず、必然的に先着順で診ていただいたことだろう。(なかったそうです…母に確認済。)
あ、「呼び出し電話」という慣行は、現代の若者には理解しにくい制度かもしれないので、ほんの少し解説しておこう。
当時は「電話の権利」を電電公社(国営のNTTみたいなところ。というかNTTの原型)の債券を相当な金額で買って初めて「電話を引く権利」が得られたのである。逆に言えば、それなりのカネを持っていなければ自家用の電話を設置することができなかったのだ。
まだ「電話ボックス」などは登場していなかっただろから、「公衆電話」を設置した店舗などが近所にあれば、そこから有料で電話を掛けることはできたのだ。
電話番号は調べればわかる仕組みがあった。今とは違ってプライバシーなど一切考慮してないフルネームと住所そして電話番号が載った「電話帳」なる辞書のような冊子があったから、それを手動で名前検索をすればとにかく連絡を取ることはできたのだ。
問題は電話を設置していない御家庭に連絡を取りたい場合で、この場合は「電話を設置した御家庭」に「誰々さんを呼んでください」と依頼するのである。これを「呼び出し電話」と呼んだ。
サティが小学生のころには、その皆に配布された生徒名簿の中にこの「呼」マークの付いた御家庭がしばしば散見されたものである。同時にその御家庭が経済的に潤っていないことを示すマークのようで… 現代に甦れば苦情クレーム待ったなし…という慣行であった。
さらに今思えば、依頼された豊かな御家庭にとってもさぞや面倒な迷惑だったに違いない。
いまとは違って、黒電話のあの暴力的な「ジリリリリン」というベルで「今出ろ、さあ出ろ、早よ出ろ」と脅迫され、出れば出たで自身の家ではなく別の人を呼んでくれと頼まれ、どんな身軽な恰好、寛いでいる時であってもその人の家を訪問しなければならないのだ。電話に出なきゃいいじゃん…なんて思ってみても、ナンバーディスプレイなど夢想もされなかった時代である。出なけりゃ相手も用件も分かるはずがなく、できるとしたらせいぜい居留守くらいのささやかな抵抗だけだったのだ。しかもこれで終わったわけではなく、むしろこれからが本番だ。これから呼ばれたヤツがやってきて電話でいろいろ用件を話していくのである。まあ、公衆電話に行っても悪くはないのだが…
いやこれ、手間賃いただけなければ割に合わんだろ…
で、なんだっけ?
おお、歯医者だ。
無論自家用車などというゼイタク品などなかったので、乗り合いバスで母親と一緒に揺られていくのである。つまり幼稚園や小学校の隙間を縫い、母親にも時間的にゆとりがあるときでなければうかうかと病院通いもできはしなかった時代であった。
歯医者だけでなく眼医者、耳鼻科ひとつの診療でも、特に母親にとっては大変な負担を強いる時代であったことだろう。
当時、歯医者だけでなくどの医院も、臭かった。独特の消毒薬の臭いが満ちていて、これがかつて味わわされた激痛や惨劇を脳髄にいやでも思い起こさせる予言者の役割を果たすのである。そして待たされる。どこでも飽き飽きするほど待たされてようやく自分の番が来るが、子供のサティとしては、正直順番に来てほしくない。無論、確実に痛いからである。
ガリガリとやるのなら麻酔をかけてほしいのだが、なかなかかけてくれないし、そもそも麻酔注射さえも痛い… というのは現代も変わらんか…
「オトコノコだから… つよい、つよい!」
と煽てられても、痛みは決して低減したりはしないのである。
さて歯医者どのは痛いところも痛くないところも、尖った針のような器具であちこちを叩いたりゆすったり引っ搔いたりする。
これが「探針」という作業… 要するに鋭い刃先で歯垢やら歯石やらの正体を暴くために歯の表面を引っ掻くのだが、当然ながら健全な歯の表面を傷付け却って虫歯を誘発ことが現代ではわかっている。つまり実質歯医者としては数年後の顧客を製造しているようなもので… まあ、それが知られていなかった当時のことだから追及するのはやめておこう。
レントゲン装置は… 当時の町医者レベルまでは普及していなかったのではないだろうか。あったとしても、今とは違って子供には過酷なほどの放射線量を浴びせかけられたことだろう。当時は原子爆弾やら焼津の第五福竜丸の被爆体験の記憶もそう遠い昔のことではなかったはずだ。
そして痛いと訴えるところを特定し、痛がる子供の意向を敢えてムシして削り…虫歯だけにww…
場合によっては膿を除き、神経を殺すクスリを入れたりするのである。
その後の処置はたいてい決まりきっている。
何やら銀色っぽいの粘土みたいなものを歯の穴に詰めてはヘラ状の器具でムギュッと押し込むのである。たしか、ギュッと押してしっかり詰めるだけでなく余計に入れてしまった「粘土」を取るとか説明された気がするが、なんせ遠い過去のこと、明確に覚えているわけではない。
そしてあの「粘土」の正体は「歯科用水銀」とかいうものらしい。
ちょっとまて、え、水銀?
あの猛毒の、水銀だって?
水銀単体は銀色の金属であるが、常温では液体…という、かなり毛色の変わった元素である。
もうちょっと…ぬる~いお風呂程度(約30℃)に温度を上げればガリウムという金属も溶けるが…1気圧のもとで融点が100℃以下の金属はこの2種類しかない。
また「水銀」の用途は毒にもクスリにもなりうるもので、科学や芸術そして経済や貿易さらに宗教的な
アイテムに欠かせない存在であった。この辺をしっかり書き出すと一冊の本ができそうなので今回は粗筋のみでやめておくが、昭和世代の常備薬だったあの赤いマーキュロクロム、幾つかの農薬、顔料、鉄砲や大砲などの発火剤としての雷酸水銀Ⅱ:Hg(ONC)2(雷菅に充填する)、神社の鳥居に塗る硫化水銀すなわち「朱」、そして金の抽出や金メッキなどに盛んに用いられた元素である。
メッキで思い出した!
奈良の大仏様は建立当時は金ピカであったそうな。今の青錆びた様子からはちょっと思いつかないんですけどねぇ… 金閣寺では金箔を貼ったとのことだけど、大仏様への塗り方は全く違うものだったらしい。
大仏本体を作ったら、大量の金を大量の水銀に溶かし(アマルガム)、それを大仏表面に塗布するのである。このままではアマルガムでしかないので、このあと火で炙って融点約ー38℃沸点約357℃の水銀だけを気化させれば、大仏表面に金が残る… こうして電解液も電気を使わないで金メッキが完成するというのだ。このあと奈良の平城京が廃されて平安京に遷都するのは皆さま御存知の通りだが、朝廷が寺社等周囲の干渉や喧騒を避けただけではなく、大仏塗装の際に生じた「奈良の都」の深刻な水銀汚染を回避する策だったとの説もあるくらいだ。
形式だけでも「仏教普及と天下万民の無事平穏」のために大仏を建立したはずなのに、天文学的な建立費を賄うための徴税と水銀蒸気による環境汚染で泣いた一般市民としては「泣きっ面にハチ」の仕打ちである。そして間接的ながら結果的に庶民の数百年の恨みを一身に集めて本懐を遂げたのが、かの松永久秀であった。よくやってくれたぞ、久秀どの、ふふ、サティは宗教なんか信じないぞ…
中世ヨーロッパで流行した「錬金術」が人間界に与えた影響は非常に大きい。ちなみに錬金術とは、鉛や水銀等の卑金属から金(gold)などの貴金属を人工的に創り出してしまおうという、一種魔術的な金儲け方法の研究の総称である。「賢者の石とともに卑金属を加熱すると貴金属金が生じる」という趣旨で、いま思えばアホな研究でしかないが、当時は欧州の自称科学者がその科学者に投資する金持ちを巻き込んで虚々実々(きょきょじつじつ)… いや虚々々々(きょきょきょきょ)の駆け引きが行われたものらしい。現代まで伝わるような科学者たちは例外なくこれに手を染めているから、人類の科学発展のために不可欠なある種「イデオロギー」だったワケだ。
ちなみに現代科学では異種金属から別の金属を創造することはできる。それは核分裂炉の中である。ただ金だけができるワケではないし、安定な同位体ばかりができるワケでもない。むしろ触れない近づけない放射性同位体が文字通り死ぬほど生じる未来が確実に見えてしまう。そう、加減と方向性の制御ができるのはまだまだ先の話。まあそれができるのはコメットさんだけで、一般人類がホグワーツで学んだとしてもまだまだ及びもつかない話である。理論上は宇宙の始まりと同様な核融合炉のなかでも金が生成するはずだが、まだ途上であるのは周知のことである。
それはそうと、水銀に戻ることにして…
アマルガムとは、液体水銀に金属を溶解させたものの総称だ。特に面白いのは水銀にアルミニウムを接触させた場合だが、みるみるアルミの形状が変化して脆くなりつつ変な塔状のアルミニウムアマルガム合金が生じる。ゆえにアルミの塊に近い航空機には液体水銀は持込禁止となっている。もし触れてしまったらアルミの機体そのものが崩壊していくのだから、こりゃある意味爆発物よりも恐ろしい。
ところで歯科用アマルガムは水銀が約50%、銀が約35%、スズが約9%、銅が約6%、亜鉛が少量含まれる「無機水銀」であり、これはこれで毒ではあるものの消化吸収率が高くないのでさほど影響はないらしい。少なくとも水俣病の原因物質である有機水銀による水俣病のような症状を引き起こすワケではない… ですよね、皇后どの。
アマルガムを歯の洞に詰め、ギュッと押しだすと余計な分と水銀がはみ出してくるので、それを回収していっちょあがり、というワケだ。ただしこの治療は2017年以来保険治療からは廃止されている。
毒性があるのはわかっていても、なぜアマルガムをつかったのか…
その理由はおそらく
・しっかり隙間なく歯に接着しやすい
・二次カリエス(治療後再び虫歯になる)になりにくい。そりゃ歯周病菌にとっても毒だしね。
という特徴だろう。今でこそ速乾性のセメントや紫外線硬化式の樹脂が用いられるが、以前にはそんな都合の良い素材が発見されていなかったり、コストに見合わなかったりしたのだろう。
やがて時が経ち知見や症例そして技術全体が底上げされると逆風が激しくなってくる。
いわく、
・アレルギー、蕁麻疹、アトピー性皮膚炎、頭痛などの危険性が高い
・唾液が電解質として作用し、経年劣化していく(取れたら飲み込んでしまうことも多い)
・水銀を含んだ蒸気を発するとも言われ自覚の無いまま体内に吸収されてしまう
特に歯科用ドリル等でその部位を切削する際には多くの蒸気が発生するという。
アマルガムはわずかな刺激で気化するため、水銀蒸気が呼吸器を通じて体内に吸収されていくだけでなく、他の歯科用金属との相互作用で金属アレルギーの誘因になったり電気化学作用によるガルバニー電流を引き起こすのだという。
こうして発生する水銀蒸気そのものは液体水銀よりはるかに高い毒性を持つ。
典型的な症例としては頭痛、痙攣、呼吸困難、肺水腫、気管支刺激症状、下痢、腹部痙攣、視力減退、流涎(りゅうぜん:よだれのこと)、 嘔吐などがあり、もしかしたら「古の都」の庶民も貴族もこれに悩まされた可能性も大ありだ。そしてそれらは貴族や僧侶の威信を護るために「妖怪」や「鬼」の仕業だともっともらしく喧伝されたに違いない。そして未だに奈良の水銀濃度は高いというから、公害病の嚆矢と言えるかもしれない。
ちなみに水銀の主な3つの形態は、それぞれ別の症状をもたらすらしい。
・金属水銀:経口摂取であればさほど害はないとのことだが、気化した蒸気の吸入では肺などが冒され、上記の症状を引き起こす。現代の発展途上国の金採掘では、金鉱石を砕いたら猫流し的な水流による比重選別で重い金成分を集め、これに水銀を加え混ぜて絞って金アマルガムの液体を採るという。これを加熱すれば粗金が残るワケだが、アマゾンとかこういう環境汚染が深刻ながら、結局はやりたい放題で有効な対策は講じられていないらしい… 知らんけど。
・無機水銀化合物:皮膚や粘膜などの生体の表面が触れると細胞がただれる。とは言っても、発展途上国の採掘者は普通に素手で金アマルガムを絞ってるけど…
・有機水銀化合物:消化管から高い率で吸収されて体内に紛れ込み、特に脳や神経系に重篤な症状と後遺症を…早い話が水俣病…の症状を引き起こす。体内の汚染の様子を知るには髪の毛の濃度を測るのだという。不思議なことに髪には「排出器官」としての側面があるのだという。
えっ、サティにはそいつがほとんど無いんだけど、それって体に溜まってるってこと?
そういえば… はて、このころに「歯科衛生士」さんや「歯科助手」さんという存在があったのであろうか?
話が横に反れ過ぎて、つい本論にまで辿り着くことができなかった。
まあいいや、それはこの次に延期することにしよう。
蛇足ながら… サティは現職を退職しました。
まだまだ片付けや家事、そして(就職するか未定ですが)就活がありますが、今までよりはPCに向かう時間中が確保できるかと思います。
あとそうそう、サティが本気で留守… つまり放置の間に幾つかの「感想」を戴いていました。
ありがとうございます!
昨日ひとつひとつを拝読いたしました。
どれにも心身に響くものを感じました。
いずれ何らかの「何か」をさせていただきますね。
今後ともよろしくお願いします。




