7 拒絶
それからオチバは、村の住人に煙たがられない範囲で質問していった。しかし、誰に聞いても望む答えは得られない。
「ニホン? 知らないわ」
「あんたが喋ってるのこそロルド語じゃないか」
「ヒコーキ? なにそれー!」
「あー、くそ」
悪態をつきながら、オチバはピラミッド状になった丸太の束に腰を下ろした。
聞き進めていく内、オチバはいつの間にか村の奥地である木の伐採場まで来ていた。すぐ近くに森があり、その木を何人かの村人が斧を握って切り倒していく。
と、そこへ斧を肩に担いだ髭面の男が、オチバに向かって歩いてきた。
「おい、兄ちゃん。見ねえ顔だな。こんなとこで何してる」
「あー……一応聞くけど、日本って知ってる?」
「いきなりなんだよ。知らねぇよ。なんだニホンって」
男は一見強面であり、見たことのない顔のオチバに警戒している風であったが、聞かれたことに素直に答えるところに心根の良さを感じさせた。
「やっぱり、知らねえのね」
「で、お前は誰なんだよ」
「数日前に、ここに迷い込んだ奴。今はクレリアの家に泊めてもらってる。村長にも会ったさ。問題ないだろ」
「お、そうかいそうかい。なら良いんだ。で、ニホンってなんだい」
「俺の故郷、的な」
「そうかいそうかい」
髭面の男がオチバの隣に腰を下ろす。斧が男の肩から離れると、オチバはいつでもそれが自分に向けられても避けられるように警戒したが、斧は男の足下に置かれ、オチバも警戒を緩めた。
「で、どうにかしてそのニホンってところに帰りたいと」
「……まだ何も言ってねぇんだけど」
「さらに、ただ帰ればいいってわけじゃないと見た。事情が複雑なんだな」
「まだ何も言ってねぇんだけど」
「そんな顔してたらわかるわ。俺は昔は商人だった。馬を失くしてからは、村の木こりだけどな? そこらの奴らとは人生経験が違うのよ。だから、兄ちゃんのこともなんとなぁく察しがつく」
自慢気に喋る髭面の男の隣で、オチバはそんなにわかりやすい顔してたか、とため息をついた。
他の村人たちには日本以外にも何か知っていることはないかと聞いていたのだが、どうせこの男も知らないのだろう。
諦めがオチバの胸中を満たし始め、オチバが九割冗談で思いついた仮説が脳内で輪郭を持ち始める。
「……なぁ、おっさんよ」
「ん? なんだ」
「ここ以外に別の世界って、あると思うか?」
「……そうだなぁ」
髭面の男の声は別段変わったところもなく、こちらを馬鹿にする様子はなかった。オチバ自身結構馬鹿馬鹿しい話をしたと思っていたのだが、どうにも以外な反応である。
「ま、神様が住まわれる世界なんかは別にあるんだろうなぁ」
「……神様、ね」
なんだ、宗教的なものか、とオチバは内心嘆息する。同時に、クレリアから聞いた神話を思い出した。
詳しくは知らない。だが、かつて人々と神々、そして神の僕たる天使達は同じ世界で暮らしていたという。そして、原因はオチバは知らないが、ある時神々は世界を人間に託し、自分たちは世界から出ていった。
オチバの知る断片的な神話はそれだけだ。髭面の男の言う別世界は、神々がこの世界から出て行った先のことだろう。
「あとは空園と、深牢だろうな」
「……あ? なんだそれ」
「ん? ニホンでは違った言い方なのか? どっちも死者の世界さ。空園は、生きている頃に善い人間だった奴が招かれる場所。反対に深牢は、生きている頃悪かった人間が辿り着く場所。空園目指して、善行積みましょうってな」
「あぁ、天国と地獄ね」
「お、いいなその言い方。どっちがどっちかは直感でわかるぜ」
はは、と男が笑う。神の存在を疑わないような男ですら、別の世界と聞いてこの反応だ。自分の立てた仮説の現実味のなさに呆れすら出てくる。
しかし馬鹿馬鹿しいだけとそれを放棄することも、今やオチバにはできなかった。誰も知らないオチバの常識を、オチバが知らない誰もが知る常識を、奇跡を意図的に起こす魔法を、これ以外にどうやって説明すればいいのか。
──異世界に来てしまった、という可能性以外に。
「……この物語はノンフィクションです、ってか」
「なんだそれ? それも日本の言葉か?」
髭面の男の問いには答えず、オチバは後ろの丸太に頭を預ける。
しっかりと考えてみて、やはりそのあり得なさに苦笑しそうになる。苦笑しなかったのは、笑う寸前、絶叫が聞こえてきたからだ。
「!?」
「なんだ!?」
オチバが跳ね起き、髭面の男も一拍遅れて立ち上がる。
二人が絶叫の根源を見つけるよりも早く、誰かが叫んだ。
「オオカミだ!」
その声を聞いて、オチバもやっと見つける。少し離れた場所に、漆黒の毛並みの獣が一人の男を押し倒している。しかもあろうことか、顎は押し倒されている男の肩と首の狭間に食らいついていた。
「まずい!」
一目見て状況の危うさを察した髭面の男が、果敢に斧を握って狼へと突進していく。
斧の届く距離まで狼に近づくと、勢いのまま男は斧を大きく振るった。
しかし狼は、それを舞うようにひらりと避ける。地に四つの足をしっかりつけると、姿勢を低くして髭面の男を睨んだ。
「早くそいつを離せ!」
男が遅れてやってきた仲間たちに檄を飛ばす。それに従い、血塗れの男は励まされながら引きずられるようにしてその場を離れていった。
髭面の男は斧を両手で握り、慎重に狼の次の行動に備える。黒い狼はその身を低くして、目をつけた獲物を取り逃したことに不服そうに唸っていた。
既に噛みつかれていた仲間は救い出せた。あとはどうにかしてこの狼を追い払わなければならない。
しかし、果敢に飛び出した男であるが、既に恐怖が増大しつつあった。目は見開き、顎は震える。肉食獣と目が合うということは、本能的な恐怖が否応なしに呼び起こされるということだ。
そんな男の怯えを感じ取ったのか、狼が地を這うように接近した。男は自分から追い払うように、斧を狼に向けて低く振る。
しかし狼は、それを予測していたかのように、斧の手前で高く跳んだ。
「あっ」
斧が寸前までいた狼の名残りを通過する。目だけは狼を追えており、斧から意識を離したために、重さに引っ張られる。体が芯を無くす。狼が、降ってくる。
死んだ──男は、そう直感した。
それを阻止したのは、駆け込んできたオチバだった。
「ッ!」
男の視界に入ってきたオチバは、狼と同じように高く跳んでいた。空中で、狼の脇腹に体当り。オチバの交差した腕が、狼を弾いた。
狼もこれは予測していなかったのか、キャンと悲鳴じみたものをあげながら、しかししっかりと地面に着地する。
オチバも受け身を取って地面を転がり、立ち上がる際にはポケットから盗んだテーブルナイフを取り出して、狼へと向けた。
「に、にいちゃん!」
「下がってろよ」
オチバは振り返らなかったが、後ろの男は頷いて、距離を取る気配があった。
狼は新たに現れた敵に、苛立ちも隠さず獰猛に牙を剥いて唸った。
オチバは多めに息を吐き出して緊張を解すと、腰を落としてナイフを突きつけ続ける。
でけぇな、とオチバは他人事のように思っていた。そう、この狼は巨大だ。
オチバが生涯生で見た中で一番大きかった動物は、ターゲットが飼っていたゴールデンレトリバーだ。しかし目の前の狼は、それを優に超える巨体をしている。
「記録更新されちまったよ」
オチバが笑うと同時、狼が駆け出した。オチバが重心を後ろに移すのと同じタイミングで、狼が跳躍する。
オチバは狼を視界の中央に捉え続けた。右手にあるナイフの感覚も忘れていない。
黒い獣が飛びかかってくる。人生初の感覚だ。視界は一瞬で黒い毛に満たされ、オチバは重みに耐えきれず地面に押し倒された。
「ぶっ」
地面に背中が強打し、苦痛を噛み殺した声が出る。
顔の前には生臭い息が充満し、荒い息遣いの音が耳を支配した。視界は黒く染まったり青空が見えたりして、世界が慌ただしい。
狼の前足の片方は自分の体を押さえつけているが、身動きが取れないでもなかった。それを幸運に思いながら、オチバは思い切り身を捻って、地面を横転しながら不快な狼の下から脱出する。
「えほっ……ごほっ……くそっ」
狼からほどほどの距離を取ると、オチバはむせつき、悪態をつきながら立ち上がった。その動きは随分とのんびりしたもので、傍観するしかなかった髭面の男たちは違和感を覚える。
「お、おい……?」
そして男は、二つ目の違和感に狼の方を向く。獲物を逃がしたというのに、狼の追撃がない。それどころか、狼は舌を垂らして随分と大人しくなっていた。
「あれを見ろ!」
誰かが指をさす。指の先には喘ぐような狼の姿がある。そして、首には何か銀色に光るものが突き立っていた。
ナイフだ。ナイフが、狼の首筋に深々と突き刺さっている。
反射的に男がオチバの右手を見ると、確かに握られていたはずのナイフは消え失せていた。
ではやはり、オチバがあの狼へナイフを突き刺したのだ。飛びかかってくる最中か、狼の下敷きになった時かはわからないが。
ナイフを伝って、赤い血が滴り落ちる。誰が見ても、狼は致命傷だった。
生命を維持するために必要な部位に、食い破るようにナイフが突き立っている。即死してもおかしくはない。狼がまだ立って周囲に睨みを効かせているのは、純粋な生命力の高さと言えよう。しかしそれも、首に空いた穴からこぼれ落ちて土の染みへと変わっていく。
「それ、貸してくんない?」
「うおっ!?」
いつの間にかすぐ横にまで迫ってきていたオチバに、髭面の男が声を上げる。
「それ、って……」
オチバが指さしたのは、男が持っている斧だ。掲げて「これ?」と聞くと、オチバが頷く。
大人しく男は斧を手渡すと、オチバは斧を肩で担いだ。それから、ゆっくりと狼へ近づいていく。
狼はオチバを見るや牙を剥いた。吠えないのは、首筋のナイフが原因だろう。あれでは鳴き声一つで激痛だ。
まだ充分な獰猛さを残す狼の相貌。手負いの獣こそ本当に恐ろしいという言葉もある。
しかしそれを嘲るかのように、オチバは鼻で笑った。
オチバは狼の前に立つと、斧を真上に振り上げた。それから、まるで薪を割るかのように振り下ろす。
狼は避けようとした。が、斧の軌道が変わって、それも無意味なものになった。斧の刃が狼の頭を薙ぎ払う。びしゃりと血が地面に飛び散って、狼の体が倒れた。
「──オチバさん!」
騒ぎを聞きつけ、伐採場にクレリアと数人の村人がやってくる。辿り着いたクレリアが見たのは、ちょうどオチバが斧を振り下ろす瞬間だ。
「あ?」
振り返ったオチバの頬には、血が一滴、こびり付いていた。
*
狼に噛み付かれた男が、クレリアの魔法によって癒されていく。
それを視界の端に収めながら、オチバの視界の大部分は髭面の男が占めていた。
「助かったぞ。あんたは命の恩人だ!」
唾が飛んできそうな勢いで、髭面の男がオチバに感謝を述べる。
それを話半分に聞きながら、オチバはポケットの中の重みに安堵していた。狼の首筋に刺したテーブルナイフ。これはクレリアの家から盗んだものだ。盗んだ、と言うのだから当然クレリアは知るはずもない。
クレリアが近づいてきた時は、本当に焦ったものだ。真面目に狼の死体を確認するフリをして、体で狼の肩から上を隠し、バレないようにナイフを抜いて慌ててポケットの中に入れたのだった。ポケットの中は血塗れだろう。
「怪我でもしたら、娘を泣かせるところだったよ……本当にありがとう」
狼と対峙した時よりも大きく感じた危機の回想を終えると、髭面の男の感謝がまだ続いていることに気がついた。
いつの間にか周りには数人の村人たちもおり、興奮冷めやらぬまま口々にオチバに賞賛を送る。
「……あんたが無事で良かったよ。最初に噛み付かれた奴は?」
「クレリアちゃんが治してくれてるさ。あの分ならなんともないだろう」
「そうかよ」とオチバは魔法の凄さに肩をすくめた。あの痛々しい傷が、なんともなくなるとは。
すると、誰かがオチバの背中を叩いた。害意はない。
「あんた一人の命を救ったんたぜ? もっと胸を張れって!」
背中を叩いた男に賛同するように、周りから口々に「そうだそうだ」との声が上がる。
そこでオチバはふと気づいた。自分が、明確な対価なしに人を助けたことなど、これまであっただろうか。
──なかったはずだ。オチバは今日、初めて人を救った。
それを理解した途端、オチバの胸に溢れてくるのは晴れやかな誇らしさ──では、なかった。
「もっと堂々としてくれねえと、俺の立つ瀬がねえって!」
「そうそう。こいつ、震えてたんだぜ?」
「見てるだけだった観客サマは黙ってな」
「違ぇねぇ!」
周囲が笑い出す。オチバにとって、それは炎だ。ぐるりと自分の周りを炎が囲み、追い詰めている。
「やめろって。そんな立派なもんじゃねぇよ」
「まだ言うか、この」
親しげに髭面の男が肩を叩いてくる。
その肩が燃え上がり、身を焦がすような感情の奔流に襲われる。
「第一よ、お前があの畜生を倒してくれなきゃ、こうやって笑えすらできなかったんだぜ?」
──やめろ。
煮え切らないオチバの態度を、周囲は謙遜であると勝手に判断する。
「そう謙遜すんなよ。いくら魔法でも死んだ奴は治せないんだ」
──やめろ。
心の中の叫びが、男たちには届かない。口元が歪む。
「クレリアちゃんに負けねぇくらい、あんたは──」
「やめろって言ってんだろうが!」
男の手を振り払い、オチバは怒号した。
オチバの声が周囲の笑い声をかき消し、空気を震わせて、あたりを静まり返らせる。
髭面の男も、彼の仲間たちも、呆気に取られていた。
オチバもはっと我に返り、ばつが悪そうに目を逸らして、人の輪から抜ける。その背を追うような者はいない。
クレリアただ一人を除いて。
「オチバさん、どうしたんですか!?」
クレリアの声に、オチバは足を止めた。振り返ると、心配そうなクレリアの顔があった。
「……悪い、騒がしくしたな。あいつはもういいのかよ?」
「あ……はい。完治しました」
完治。その言葉に、オチバは鼻で笑った。そしてクレリアから目を逸らす。
「まだ仕事、あるんだろ。俺は先に帰る」
「……でも」
「道くらい覚えてるさ。じゃあな」
引き止めようとしたクレリアの顔は見えない。
オチバが再び歩き出す。今度こそ、その背を追う者は誰もいなかった。






