4 とある神話
「原瀬って奴に聞き覚えは?」
「オチバさんって、私のわからないことばかり言いますよね」
「俺だってお前の言うことの大半はわからねぇよ」
もはや見慣れてしまったクレリアの首を傾げる姿に、オチバはため息をついた。
これでもオチバは人のつく嘘に対しては目敏い。オチバの生きてきた環境がそうさせた。
そんなオチバの感覚は、クレリアの言葉は嘘ではないと判断している。
「ところでオチバさん。今日、どうするんですか?」
「あ? 今日?」
「宿、とってるんですか?」
「……宿?」
今度はオチバが首を傾げる番だ。今日だけで何度も繰り返された動作である。
クレリアは窓を指さす。オチバもその方を向くと、空の色が薄暗く変わっていた。夜が更け始める頃合だ。
「……宿」
「とってないんですね」
取ってるわけがなかった。
なぜならオチバの今日一日は、人を殺して原瀬に殺されかけて、そして落葉の山の中で目覚めただけなのだから。
だがそれをクレリアに言っても意味のないことだろう。それがわかったオチバは、子供が誤魔化す用に目を逸らして対処する。
果たしてクレリアが目を細めてにじり寄ってくるのに、どこまで耐えられるか。
「……落葉の中で寝る」
「何言ってるんですか」
オチバの提案を、ぴしゃりとクレリアが白い目で言い放す。
「しょうがねえだろ……。宿の場所なんて知らねえし、そもそも金もない」
「今までどうしてきたんですか……」
ぶつくさと言い訳に走るオチバに、クレリアがため息をついた。
「……わかりました。ここに泊まっていいですよ」
「……いいのか?」
「私これでも、人を助ける仕事をしてるんです。それに誇りも持ってます。だからオチバさんを見捨てるような真似、私にはできません」
向けられたのは、真っ直ぐな瞳だった。視線に込められた揺らぎようのない意志は、クレリアという少女の本質を垣間見ることができる。
「いや、でもよ」
しかしオチバは、クレリアの厚意を受け取るか迷っていた。
今まで厚意に見せかけた悪意を多く受けたことも起因しているのだろう。しかし返事に窮する第一の理由は、クレリアの身を案じることからだ。
親はいない。家に一人だけ。クレリア自身も、小柄で華奢。そんなところに男を泊めるなど、一体どういうつもりなのか。
その感情は勝手に湧いたものであり、オチバにとって数少ない他者を気にかける心配であり──実に、オチバらしくない。
「はい、決まりです。異論は聞きませーん」
しかし手をぱんと一度叩き、クレリアは悪戯っぽく笑って背を向けてしまう。そのまま恐らくは台所の方へと消えていき、オチバは二度目の置いてきぼりを食らった。
紅茶を飲んだ時の椅子にもう一度座り込む。親のいない環境で一人で暮らして、見ず知らずの他人を助けて。しっかりした少女だ、とオチバは思う。
オチバの知ってる十四歳は、まだここまで人間ができているような歳ではなかった。十四歳の頃のオチバも、一人で生きてきた。だがその生き方は、クレリアのような健気なものではなく、邪道であったと理解している。もっとも、反省も後悔もするには、数を重ねすぎているが。
そう物思いにふけっていると、木の蔓で編まれた籠を持ったクレリアが戻ってきた。籠の中には、野菜が入っている。
それをテーブルに置き、クレリアはオチバを見た。
「? どうしたよ」
「あなたを泊めますけど、ちゃんと何か手伝ってくださいね」
笑顔で言って、クレリアは野菜籠をずいっとオチバの方へ寄せた。野菜の入っている籠の脇には、ナイフも一緒に入っている。
「野菜の皮剥き、お願いできますか?」
「──ああ」
泊めて貰えるのならこれくらい安いものだ。そのようなことは一切、オチバは考えなかった。
オチバはクレリアの顔を見ず、籠の中身をじっと見る。正確には、皮剥きのためのナイフを。
──こいつ、使いやすそうだな。
オチバの考え通り、少なくともさっきくすねたテーブルナイフよりは間違いなく使いやすいだろう。それがどれだけ歪な思考なのか、オチバは気づいていない。
ここにきて、オチバはクレリアへの感謝を押しのけ、どうやってこのナイフを盗ろうとしか考えていなかった。
恩を仇で返す、そのような自覚もなく、実にオチバの本質を表している。
そして思慮の結果、オチバは先に野菜を持った。
「わ、上手……」
オチバは手早く野菜の皮を剥いていく。クレリアの感心するような言葉も、聞いていない。
今は、まだ。テーブルナイフを盗ったのは、周りに自分以外誰もおらず、また複数あったからだ。このナイフは違う。だから、今盗るのはやめる。
手元を見るオチバの瞳は、どこまでも澱んでいた。
*
──両親が使っていた寝室があります。今夜はそこを使ってくださいね。
クレリアがオチバに貸すことにした部屋は、広さの割に物のない部屋だった。ベッドには慌てて用意したような、マットレスと毛布。それ以外には棚もあったが、空だ。明かりと言えば、窓から入ってくる月明かりだけ。
オチバは遠慮なくベッドの上に寝転ぶと、盗んだテーブルナイフをマットレスの下に隠した。
ぼうっと、窓の外にある三日月を見ながら、今日一日のことを考える。
「……どうなってんだよ」
感想はと言えば、その一言に尽きた。わざと遠ざけていた事実が、寝転ぶオチバに重くのしかかる。
殺されかけて、目覚め時には身に覚えのない場所だ。知り合った少女はどう考えても訳あり。これより先の目処は立たず、何をすれば正解なのかもわからない。
第一、原瀬のいる場所に帰ってもいいものか。
「くそ」
毛布を握る。原瀬の顔を思い出すと、無性に腹が立った。
短絡的であることを自覚するオチバだが、それでもこの状況はまずいとわかる。暗闇の中を、無防備に歩かされている気分だ。
苛立ちながら、オチバは仰向けから横になる。顔は空の棚の方を向き、瞼を開けると部屋の入り口からでは見えなかった部分も見えた。
「……あ」
オチバの目が大きく開いた。空だと思っていた棚には、ひっそりと一冊だけ、本が置かれていた。
そう言えば、目が覚めてから一度も文字を見ていない。
オチバは立ち上がり、本を取った。表紙を目を凝らして見てみるが、暗くてよくは見えない。急いで月明かりが射し込む窓へと持っていき、適当なページを開いて照らしてみる。
「……何語だ、これ」
英語、ではない。英語によく似た形のスペイン語や、フランス語でもないだろう。もちろん日本語でもない。テレビで見たアラビア語だかでもないはずだ。
オチバのこれまでの知識を総動員しても覚えのない、形からして違う正体不明の文字がそこには連なっていた。
「わけわかんねぇよ」
落胆と諦めを滲ませて、もう一度ベッドに倒れる。結局、今日はわからないことしか起きなかった。
本の存在を忘れないように枕元に置き、オチバはこの状況から逃げるように眠った。
*
目が覚めた時には、窓から朝日が射し込んでいた。起床時間はわからない。時計がないからだが、そもそもこの家に時計はあるのか。
「あっ、おはようございます!」
昨日紅茶を飲み、料理名がいまいちわからない夕食を食べた部屋に行くと、クレリアが笑顔で振り返った。
お目目ぱっちり。どうやらオチバよりも早く起きて、朝の身支度もバッチリらしい。
「……はよ」
対するオチバは、寝ぼけ顔のまま欠伸をする。クレリアの朱の薄い唇が弧を描いてクスリと笑った。
と、クレリアがオチバの手にあるものを見てはっとした顔になる。
「あ、その本……」
「俺が寝た部屋の、棚の隅にあった。……何語だよ、これ。象形文字?」
「ショウケイモジが何なのか知りませんけど、これがロルド語じゃないですか」
「……どこにあるんだよ、ロルド王国」
自分の記憶とはかけ離れた形の文字に、オチバは思わず天を仰ぐ。しかし視線の先は、あいにく木の天井だ。
嘆いた様子のオチバに、クレリアは遠慮するように小さな声で尋ねた。
「もしかして、文字が読めないんですか?」
「少なくとも、この国のは読めねぇ。初めて見る。この本には、何が書いてあるんだ?」
「神話ですよ」
オチバから本を預かり、クレリアはとあるページを開く。そこには、見開きで絵が描かれていた。
白黒で、鉛筆で描いたような絵だ。筆致は豪快かつ丁寧で、荘厳な雰囲気を醸し出している。オチバはいくつか美術展で絵画を目にしたことがあるが、それの下書きがこんなのだろうか、と思った。
中央には、絵を二分するようなサイズで描かれた、筋骨隆々の男が立っている。その男を線引きとして、右側には翼の生えた人間たちと、それよりも大きく描かれた人間たちが群れのようにさらなる右側を目指しており、左側には、地面に立つ人間達が家を建てていた。
「神様と、人の住む世界が分かたれた場面です。神々は世界の支配から手を引き、私たちを見守って下さっています。だからこそ、私たちは、神様から任されたこの世界で、一生懸命生きなければならないんです」
目を瞑り、穏やかな顔と口調でそう言うクレリア。開けた窓からはそよ風が吹き、クレリアの細い金の髪を揺らした。それが妙に、神聖な絵画じみた光景を生み出す。
オチバはその清らかさに耐え兼ねるように下を向いて、代わりに絵を見た。
「……この、こいつは何だ?」
話題を見つけたオチバが、絵の一点を指した。そこには翼のある人間の絵。しかしそれは右側に描かれたものではなく、人が暮らす世界を描いた左側で、右側の天使や神々たちとは逆方向を一人きりで目指している。
「堕天使、ユルダ」
「あ?」
「オチバさんの指したこの天使は、そう言われています。この天使だけは人の世界に未練を残し、神々にはついて行かず、人の世のどこかへ飛び去ったと」
「それで、どうなったんだ?」
「それは、この本には書かれてません。私も知りません」
オチバはこの天使の結末を知れないことに歯痒さを感じながらも、少しその姿に惹き付けられていた。
ユルダという名の天使は、オチバの目には孤高に映る。
仲間たちとは真逆の方向へ飛び立ち、人の世界にいるものの、人は天使のような翼を持たず、故にユルダの周囲には誰もいない。
にもかかわらず、ユルダは迷いなく飛んでいるように見えた。彼は何を思って、空を飛んでいたのだろうか。
──馬鹿馬鹿しい。ただのおとぎ話であり、絵だ。
オチバは柄にもない感慨に顔を固くすると、絵から視線を逸らした。
「……よく、お母さんに読み聞かせてもらったんです。神様が見て下さってるから、どんなに辛くても、諦めちゃだめだよって」
「──そうかよ」
懐かしむように言うクレリアを、オチバは見ないようにした。
今更、オチバには神など信じられない。ならば、この話は無意味なはずだ。
そう決めつけていたからこそ、オチバにとって次のクレリアの言葉はどの予測にもないものとなった。
「だから、オチバさんも諦めちゃ駄目ですよ」
一瞬、言われたことがわからず、反射的にクレリアを見た。クレリアは変わらない様子の笑顔で、大きな瞳にオチバを映している。
「諦め……?」
「少し、辛そうに見えましたから。辛いと、逃げ出したくなるんです。でも、神様が見てくれてますから」
それは、やけに実感が篭って聞こえた。
盲目的な信仰、とは違う。クレリアの口からから放たれたのは、一種の理由付けのようなものであろう。
諦めないということは、必ず満足のいく結末が待っていると、自分を励まし、あるいは誤魔化し続けることだ。それは行き詰まった状況下では、ことの他難しい。
要するに、クレリアはオチバを励まそうとしたのだろう。どんな苦境にあっても、神様が見ている。神様が見ている限り、光明はいつか訪れると。
「朝食にしましょうか」
空気を切り替えるように手を叩いて、クレリアが台所に歩いていった。
その背を見送りながら、オチバは嘆息する。
──その励ましは、悪いけど見当違いだろ。
今のオチバの状況下では、諦めるにしても、何を諦めればいいのかもわからない。
そして何より、本当に神が見ていたとして、自分のような人間は決して救われることはないだろう。
これまで自分の重ねた罪の重さを正しく認識していないオチバでさえ、そう思っていた。