3 疑問のティータイム
木製のテーブルと椅子、それと本棚だけがある簡素な部屋で、オチバは置いてけぼりにされた。
家の主であるクレリアは、恐らく茶を淹れるのに台所に向かったのだろう。
オチバは三つある椅子の一つに腰を下ろした。
クレリアが親がいないと言った時の声のトーンで、クレリアの両親がこの家を留守にしているのではなく、既にこの世を去ったのだということは予想がついていた。
しかしオチバにとってそれは対して珍しくもない話であり、何か感傷に浸されるわけでもなかった。
部屋は物が少なく簡素とは言ったが、不思議と殺風景とは感じない。暖かみのようなものがあって、疲弊した心が落ち着いていく。
どれくらい、ぼうっとしていただろうか。
ふと、オチバは我に返る。視線を元に戻すと、木の盆にカップとポットを乗せたクレリアが来るのが見えた。
「おまたせしましたー」
テーブルにトレイを置くと、彼女は乗ったティーセットを分け始める。カップの一つをオチバの方へ、もう一つを反対側、自分の方へ。
テーブルを挟んでオチバの反対側に座ったクレリアは、薄青の瞳にオチバを映してにっこりと微笑んだ。
「ありがとよ。貰うぜ」
目は合わせないまま、オチバは先にティーポットを手に取り、中身をカップに注いでいった。
湯気の立つ紅茶がオチバのカップに多めに注がれる。ポットをもとの場所に戻すと、クレリアを待たずに紅茶を少し口に入れた。
……渋い。思わず顔をしかめるほど、その紅茶は渋かった。
「あ」
クレリアが何かに気づいたような声を上げる。
「……何だよ」と舌に広がる渋さを飲み下したオチバがクレリアを見た。
クレリアは薄く口元に笑みを残したまま、ポットの横に置いてある小さな壺を持った。壺は蓋をしてあるものの、木の棒がはみ出している。
「蜂蜜入れないと、渋いですよ?」
クレリアが蓋を明け、棒を少し持ち上げる。棒の先端には、中に入っていたと思しき蜂蜜がたっぷりと絡みついていた。
それを当然のように自分の分の紅茶に垂らすクレリアに、オチバは鋭い目を点にする。
「……先に言えよ」
「この渋さがいいんだー、って人もいるんです。オチバさんも、そういう人なのかなって」
違ったみたいですけどね、と少女は笑う。クレリアの洞察力が優れているのか、それともオチバが自分が思っているより顔に出る質だったのか。
テーブルの上を滑らせて壺が送られてくると、オチバは遠慮なく蜂蜜を自分の紅茶に垂らした。
満足行くまで垂らし終えると、さっきと味を比べるように紅茶を口に含む。確かに、渋さはなくなり柔らかな味になっていた。
ふと、クレリアが感想を待つようにこちらを見ていることに気づく。
「マシだ」
「ふふっ」
何が面白いのかわからないが、おかしそうに少女は笑った。
馬鹿にされた、わけではないことはオチバにでもわかる。少女の笑い声は、鈴の音のように軽やかだった。
「それで、ここどこだ」
オチバは話を変えるように、部屋をぐるりと見渡して言った。
何度考えても答えの出なかった問い。自力ではわからないのだから、ここに住むというクレリアに聞くしかない。
クレリアは何を言っているのかと不思議そうな顔をする。知っていて当然、そんな様子が少し癪に障ったが、クレリアの次に出てくる言葉の期待が勝った。
クレリアが口を開く──
「フルセリア領のパルト村、その外れですけど……」
「は?」
少女の口からは、オチバの知らない単語が次々と紡だされていった。
「フル……パ……何だって?」
「だから、フルセリア領のパルト村の外れですって」
なぜわからないのか。そんな口調でクレリアは言う。しかしオチバにだってわからないものはわからない。
「場所を知って来たんじゃないんですか?」
「気がついたらここにいたんだよ。まぁ、ここが日本じゃねぇのはわかった。ここはなんの国の中なんだ?」
「え、この国も知らないんですか?」
「いいから教えろよ」
もはやオチバのことを奇妙なものを見る目で見るクレリア。
それでもめげずにオチバが答えを催促すると、再びクレリアが口を開く。
「ロルド王国ですけど……」
「は?」
また少女の口から、覚えのない単語が出てきた。
「だから、ロルド王国ですって」
「待て」
単語だけを入れ替えた先程の焼き回しのような会話の流れに、オチバが待ったをかける。
オチバは自分の知識が浅いことを自覚している。算数よりも物の盗り方を教えられたし、地理よりも人の殴り方を教わった。
ドラマや映画、小説が好きだったこともあり知識が全くないとは言わないが、だからこそオチバの知識は歪だ。
話に上がった『ロルド王国』。それもオチバが知らないだけで、きっと存在する国なのだろう。王国と言うからには、ヨーロッパだろうか。きっと目立たない感じで端っこにあるに違いない。
「オチバさん……ロルド王国の出身じゃないんですか?」
「あ? 日本だよ、日本。島国」
「……どこですか、それ?」
クレリアがはて、と首を傾げる。オチバも「はぁ?」と首を傾げた。
「お前が日本を知らないってのはありえないだろ」
「でも、知らないものは知らないですよ」
「じゃあ今の今まで何語で喋ってるんだよ。日本語だろうが」
オチバは日本語しか話せない。こうまでして意思疎通ができるのは、クレリアが日本語を話せるからだ。そのクレリアが日本を知らないというのは、あまりにも苦しい嘘でしかない。
だというのに、クレリアはまだ不思議そうな表情を解かない。
「えっと……そのニホンゴというのが何かわかりませんけど、きっと言語の話ですよね。なら私が喋ってるのは、ロルド語ですよ?」
「あぁ?」
「第一、今オチバさんが喋ってるのが、ロルド語じゃないですか」
「……は?」
もはや何度目かわからない「は?」がオチバの口から出た。
ここまで来てようやく、オチバは何か自分の理解が及ばない事態が起きていると気づく。
そもそも思い返せば、始まりである落葉の山の中にいたというのがおかしいではないか。そこから、何一つ自分の理解が及ばない事態が続いている。
「いや、ありえねぇだろ……」
慰めにもならないことを言って、自分の手が震えていることに気づいた。逃げるようにカップの取っ手を掴み、少し温くなった紅茶を全て飲み干す。
空のカップを置くと、次に聞くべき疑問が浮かんできた。
「そ、そうだ! 空港! 空港はどこにある!?」
「えっ、どうしたんですか?」
身を乗り出して聞くオチバにクレリアが面食らう。それに構ってやる余裕はない。
「空港だよ! 飛行機だ! どこにある?」
空港の場所がわかれば、日本に帰ることができる。飛行機に乗ることはすぐには出来ないだろうが、何とかしてみせる。
甘い見通しだったが、オチバもそれは百も承知だ。とにかく、今はこの意味不明な状況を打破するきっかけが欲しかった。
必死に尋ねるオチバに、しかしクレリアは首を傾げる。
「クウコウって、ヒコウキって何ですか?」
「──嘘だろ」
クレリアの邪気のない返答に、戦慄する。
なんなのだ、この少女は。どこまで物知らずなのだ。外界から切り離されているとしても、限度があるだろう。まるで、別世界の住人とすら思えてくる。
「あの……」
「顔、洗わせてくれよ」
クレリアの気遣うような声を、オチバが潰す。
「……あ、はい。水場はそちらに……」
クレリアが紅茶を持ってやってきた方向を指す。オチバは最後まで言葉を聞くことなく立ち上がり、乱暴な足取りで水場に向かった。
水場、つまるところ台所には、冷蔵庫も電子レンジも換気扇すらないが、蛇口だけはあった。オチバの見知ったものと少々形は違うが、どこが捻る部分かくらいは直感でわかる。
捻って、水を出す。水の出にあまり勢いがないが、枯れる雰囲気もなかった。手で器を作り、水を溜めて自分の顔へとぶちまける。
冷たい。ただそれだけだった。期待した思考の冴えなどの効果はない。
濡れた顔を、シャツで拭う。開けた視界に、食器棚が映った。
「……あ」
食器棚には小さな引き出しがあった。引き寄せられるようにそこまで歩き、引き出しを引く。
思った通りだった。そこにはスプーンとフォーク、そして、テーブルナイフがあった。
ナイフは三本あった。その内一本を手に取り、刃に視線を注ぐ。
心が落ち着くのを感じた。思い出す。そうだ、自分はこれまでもナイフ一本で状況をどうにかしてきたじゃないか。今度も、このナイフでどうにかしてやる。
オチバは迷うことなく、ナイフをポケットの中に入れた。
「……大丈夫ですか?」
引き出しを仕舞うと同時、様子見にクレリアがやって来た。オチバが冷えた視線で、クレリアを見下ろす。
そう言えば、この少女は結局何者なのだ。なぜ見るからに怪しいオチバを家に入れた?
思い返せば、このわけがわからない状況も、全てクレリアの言葉で生み出されている。
「……原瀬の、手先なのか?」
「え?」
クレリアは眉をひそめた。これも演技かもしれない、とオチバは思う。
ありえない話ではない。クレリアが原瀬の手先であり、オチバを混乱させる言動を繰り返している。その場合原瀬の企みがどういうつもりかわからないが、原瀬の考えがわからないのは今に始まったことではない。
そう考えると、オチバは急に目の前の少女に怒りを覚えた。原瀬に殺されかけたことへの怒り。今まで利用され道具としてしか扱われなかった怒り。自分に『落葉』などと名付けた怒り。
それらが別人であるはずのクレリアに対して沸き立ってくる。
彼女の整った顔の下、白く細い首に視線が行った。その瞬間、右手が浮くように自然に動く。
「オチバさん」
クレリアの首を掴むはずだった右手は、半ばで彼女の両手に遮られた。防御された、とオチバが瞬間的に判断し、クレリアの両手を振りほどこうとする。
しかしその寸前で、オチバはふと気がついた。右手を遮る両手の力がなさすぎる。
「混乱してるんですよね」
薄青の瞳が、オチバの目を覗き込んできた。咄嗟に目を逸らそうとするが、クレリアの瞳はオチバの視線を捉えたかのように離さない。
やめろ。なんなんだ、その目は。
「遠いところから来たんですか?」
オチバが無意識の内に一歩下がる。しかしクレリアの両手はオチバの右手を離さず、瞳はオチバの姿を映し続けていた。
こちらを慮ったような、優しい声。それはオチバの心に生える棘のいずれにも引っかかることなく、心の内にするりと溶けていく。
いつの間にか、オチバは右手を下ろしていた。クレリアはそれに微笑み、もう必要ないと判断したのか両手を離す。
「私はオチバさんじゃないから、あなたが何を思っているのかわかりません。でも、できることなら、あなたを助けてあげたい。そう思います」
邪気のない、偽りのない、慈しみの顔。
また一歩、オチバは後ろに下がった。壁にぶつかり、そのままずるりと床に座り込む。
「何なんだよ、お前……」
意味がわからない。さっきからそればかりだ。
出会って一時間と経っていない。会話したと言っても、お互いの言っていることがわからず首を傾げあっただけ。
それだけの相手に、なぜそんなことが言えるのか、まったくもって意味がわからなかった。
オチバの荒れた人生の中に、ただ優しいだけの人間はいなかった。故に、少女が何を思ってこう言っているのかわからない。
ただ一つ言えることは、この微笑む少女が嘘を言っていないということ。それだけは確信があり、だからこそ、オチバにはクレリアの笑顔がどこから来るのかわからなかった。