2 青い目と金の髪の少女
オチバは枯れ葉の山からようやく身を起こした。体のあちこちについた葉を手で払う。
周りにあるのは、のどかな光景だった。空は青く澄み渡り、足下には背の短い若々しい草が茂っている。
そして草地の上には、腰を抜かした青い目と金の髪の少女。
少女は丸い目をさらに丸くして、立ち上がったオチバをぽかんと見上げていた。
「お前、誰だよ」
「……へ?」
オチバの言葉に、少女は気の抜けた声を出した。
ああそうか、とオチバは目を逸らして雑に後頭部を掻く。少女の外見は、明らかに日本人ではなかった。きっとアメリカとか、イギリスとか、そこらへんの人間だろう。つまりオチバの言葉が通じないのだ。
しかし困った。義務教育すら受けたとは言い難いオチバにとって、異国語など無理難題だ。英語ならほんの少しはわかるが、いずれにしてもこの状況を打破できるようには思えない。
「……クレリア」
「あ?」
目を逸らした視界外から、鳥のさえずりのようなか細い声が聞こえた。
逸らした視線を少女に戻すと、さっきと変わらない姿勢のまま、下からオチバの様子を伺うように、少女は再びか細い声を発する。
「だから……クレリア、です」
「なんだよ、日本語話せるんじゃねえか」
「……ニホンゴ……?」
不思議そうに首を傾げる少女──クレリアを無視して、オチバはダウンジャケットを脱いで太陽にかざした。
一箇所、ダウンジャケットには穴が空いてそこから光が射し込んでいた。
「やっぱり、撃たれたんだよな」
思い出すのも嫌な原瀬の顔が脳裏に浮かんで、オチバは苦虫を噛み潰したような表情になる。
次いでオチバはシャツをまくり上げて、背中の様子を手で探った。記憶通りなら、背中の中央を少し逸れたところに、拳銃に撃たれた傷があるはずだった。
「……無い」
ところが、オチバの背中はどうにもなっていなかった。
痛みが全くなかった時点で、ある程度は予想できていたが、ありえるはずもないと予想を否定していた。しかしその予想は事実となって、もう一度オチバへと突きつけられる。
混乱しそうになる思考を無理やり押さえ付けて、オチバはシャツを戻しダウンジャケットを着直した。
姿を元通りにすると、オチバはそっと自分の額に触れた。記憶は、原瀬に銃口を突きつけられたところで終了している。
──今を構成するなにもかもが、オチバには理解できなかった。
「あの……」
「あ?」
沈黙に耐えかねたように、初めてクレリアの方から話しかけてきた。
よそ見をしていた視線を、再びクレリアに戻す。
「あなたは……?」
「……オチバ」
一瞬名を告げてもいいものかと迷ったが、自分には戸籍がないのだ、名が知られて困るような立場でもない。
しかしクレリアがオチバの名前を聞いて、その背後にある落葉の山をちらと見ることで、無性にオチバの神経を逆撫でした。
自分と落ち葉を関連付けられることは腹立たしい。例えそれが仕方のないことだと、頭の隅でわかっていようとも。
自分を落ち着けようと、ポケットの中のナイフを探す。ナイフを掴めば、自分がどういう存在か実感できる。ナイフさえあれば、状況をどうにかできる自信がある。
オチバの使い慣れた武器は、すっかりオチバの精神安定剤になっていた。
「……!」
しかしポケットの中の手が虚空を切って、ようやく思い出す。
ナイフは憎き原瀬へと投げて、そのまま躱され夜の闇へと消えたのだった。
苛立ちをそのまま声に出したくなったが、さすがに他人の目がある場所では耐えるだけの余力はまだあった。
「クレリア」
「はっ、はい!?」
唐突に名を呼ばれて、クレリアが体と表情を強ばらせる。オチバに対して、少なからず怯えを抱いているのは明らかだった。
それに構ってやる暇はない。オチバはクレリアに対して問いかける。
「お前、どこから連れてこられたんだよ」
「え?」
「家があるだろ。そこはどこかって聞いてる」
オチバには、この短い時間で考えた推測があった。
何が起こったのかはわからない。ただ今自分がこうして立っているということは、自分は死んではいないのだ。
もしかすれば原瀬がオチバを殺す直前、考えを変えて人身売買の組織へ自分を売り払ったのかもしれない。と、そうオチバは考えていた。
……正直、あらゆる部分に穴がある仮説だ。
だが、オチバには今こうして自分が息をしている理由が、それくらいしか思いつかなかった。
それに、とクレリアを見る。
薄く伸ばした蜂蜜のような色合いの金髪。
曇りなく澄んだ大きい薄青の瞳。
すっきりと通った鼻梁。
小ぶりの整った顎。
白く健康的な肌。
歳は十四あたりか。そんな容姿の、見目麗しい少女。
偏見ではあるが、なんとも金持ちの変態が好きそうな見た目ではないか。
クレリアも攫われた身であるとオチバは推測していた。となるとここは、『商品』を輸送する中継所のような場所か。それには少々風景がのどかすぎるが。
クレリアは釈然としないような表情をしたまま、一方を指さした。クレリアの細い指の先には、そう遠くないところにログハウスがある。
そしてクレリアは、オチバの予想だにしないことを言った。
「あれが……私の家、ですけど」
「……あ?」
*
「久しぶりです。この家に誰かを入れるの」
ドアを開けて、クレリアはログハウスにオチバを招き入れた。
ログハウスの存在は、当然ながらオチバも気づいていた。だがそれがあまりにも現代的な見た目を感じさせなかった為、キャンプ地か何かだと結論づけていた。
この少女の家であるとは、微塵も考えていなかった。
「なんだ、この家……。電気はないのか?」
「えっと……デンキ?」
「冷蔵庫も、テレビもねえじゃねえか。よく生きてられるな」
「……?」
オチバがログハウスの中を見て、ないものを口にする度、クレリアは首を傾げた。
既に、この少女が普通でないことは気づいていた。
クレリアが住んでいると言うこの家には、電化製品どころか電灯すら見当たらない。理由はわからないが、外界と切り離されて暮らしている。そう考えるのが妥当だろう。
「親は?」
「……いません」
クレリアが、少し声の調子を落として言う。
正直、オチバはもう頭の限界だった。一刻も早くここを立ち去りたかった。じゃないと、自分がおかしくなりそうな気分だ。
しかし今のオチバは一文無しだ。オチバの口座も原瀬が用意したもので、厳密に言えばその口座も原瀬のものだ。そこからもう金は引き出せない。だから、せめて少しばかりでも金が要る。
先の質問は、別にクレリアを思ったものではない。ただの判断材料だ。そして彼女は、親はいないと答えた。なら、簡単だ。
目の前のこの華奢な少女を縛り付け、堂々と家を荒らしてやればいい。金目のものを探すのだ。それで騒ぐようであれば、殺してしまえ。
オチバの短絡的で暴力的な思考が、後先を考えずに主張し始める。
前を歩く、小柄な少女。その流れるような金の髪が覆う後頭部を掴もうと手が伸び──
「お茶、飲みますか?」
振り返る気配を感じて、オチバは慌てて手を引っ込めた。
「……? どうかしましたか?」
「なんでもねぇさ。それより、お茶がなんだって?」
「せっかく久しぶりのお客さんですから、お茶を振る舞いたいんです」
オチバが口には出さずとも、「は?」と呆然とした顔になる。
意味がわからなかったのだ。クレリアはオチバに怯えを見せていたはずであり、それが一転して、どうしてお茶を振る舞うという発想になるのか。
だが。
「……考えるだけ無駄、ってか」
ひどく童話的なログハウスの内装を見て、オチバは思考を放棄する。
一体ここがなんなのか見当もつかない。ここに済む少女がなんなのかも。
今のところ状況に振り回されるだけのオチバには、クレリアの申し出を断っても一人相撲になる気がしてならなかった。そうでなくても、死ぬような目に遭ったばかりなのだ。疲れたのかもしれない。
降参するように、オチバは言った。
「わかった、貰う」
「良かった……。じゃあ今用意してきますから、待っていてくださいね」
朗らかな笑顔で、クレリアが言う。もう何年も、こんな晴れやかな笑顔は浮かべも見もしなかった。
オチバの暴力的な思考は、本人も気づかない内に、しぼんでいた。