14 はじまり
雨も風もなく、静かな、穏やかな夜だった。
今日の夜がこのような夜で、本当に良かったと思う。
オチバはベッドに腰掛け、右隣に座るクレリアはオチバの腕に体を預けていた。
ゆっくりと、静寂と時間が過ぎる。
「──初めは、怖かったです」
体重をオチバに預けて目を穏やかに瞑ったまま、クレリアが呟いた。
「だって、落ち葉の山の中から、いきなり顔が出てきたんですもん」
「……そりゃ、怖かっただろうな」
落ち葉の山から、いきなり頭が出てくる光景を思い浮かべる。なかなかに恐怖を誘う光景だ。
クレリアは懐かしい記憶を振り返るように、続ける。
「落ち葉の山から起き上がったあとも……目が合った時、睨まれたって思いました」
「睨んでたつもりは、なかったんだぜ?」
オチバもクレリアとの出会いを振り返る。自分の目付きの悪さは知っているし、あの時は気分も最悪だったから、確かに見る物見る物睨むようになっていたかもしれない。
「じゃあ、なんでそんなおっかない奴を、家に通そうと思ったんだよ?」
それは今も、オチバにはわからないことだった。
オチバに怯えていたなら、まず家に通そうとは思わないはず。しかもクレリアは、オチバをその後泊めてさえいる。
「……一目見て、ああ、この人は混乱してるんだなって思いました」
一拍あって、白状するようにクレリアは答え出した。
「まずは落ち着いてもらおうと思って、お母さんが心を落ち着けるには暖かい飲み物がいいって言ってたので、紅茶を淹れました」
「……そうだったな」
「渋くて、お気に召さなかったみたいですけど」
クレリアが思い出した情景にクスクス笑い出す。クレリアが笑うたび、振動がオチバの腕に伝わる。
オチバだってあの時のことは覚えている。紅茶の渋さに顔をしかめたあと、たっぷりと蜂蜜を入れたのだ。
「……オチバさんがどう思っているのか知らないですけど、あの後オチバさんを泊めたことも全部、どうせなら、死ぬ前に良いことをしようってくらいの気概だったんです」
吐息を吐いて、クレリアは話を一度区切った。
薄く目を開けて、過去の光景を見る。
「オチバさんは意外と働き者で、いつもの家事がぐっと楽になって、助かりました。……本当ですよ?」
上目遣いで、クレリアがオチバの顔を覗き込む。オチバはクレリアと目を合わせず、ぼうっと前を見ていた。きっと、彼の目にも十四日分の自分との暮らしが映っているに違いない。
クレリアは再び視線を前にやって、オチバとの短く充実した暮らしを遡った。
「……仕事をしてるって言って、オチバさんに何ができるんだ、って失礼なことを言われて。実際に魔法を見せたら、オチバさんにすごい目で見られて。村に狼が出たって聞いて駆けつけたら、オチバさんが狼を倒しちゃってて。……その後、私を守ってくれて」
クレリアがすぅ、と息を吸う。
そして願うように、呟いた。
「ねぇ、オチバさん。お願いです。死なないでください」
それを聞いた瞬間、オチバの表情は固まった。
慌ててクレリアを見ても、彼女は微笑んだままだった。
オチバの顔が歪む。
察せられていたのだ。クレリアを見送ったあと、オチバが死のうとしていたことに。
少しの間、静寂が流れた。クレリアは話すのを止めている。ゆっくりと、オチバの返事を待っているのだ。
──やがて、震える声で、オチバは言葉を紡ぎ出した。
「……ごめんな。無理だ、クレリア。誰も許しはしないだろうし、俺は、俺が許せない」
「じゃあ、私が許します」
オチバの懺悔を、クレリアは包み込むような声で返す。
「私が、私を救ってくれたオチバさんを、許します」
「──救って……?」
オチバはゆっくりと首を左右に振った。
救ってなどいない。オチバは、クレリアを救えてなどいない。
クレリアは、今もこうしてゆっくりと、死に向かっている。これがどうして救えたなどと言えよう。
それでも、クレリアは微笑んだままだった。
「ずっと……ずっと前から、夢を見るんです」
穏やかな声で、クレリアは再び語り始めた。
「私は、俯瞰した立場で私を見ていて。夢の中の私は、一人でベッドに入って、目を瞑ります。そして朝になっても昼になっても、次の夜になっても、夢の中の私が起きることはない。ずっと、目を瞑ったまま……そんな、夢です」
クレリアは頬をオチバの肩に擦り寄せ、存在をより確かめるかのように、オチバの腕に自分の腕を巻き付けた。
「最初にその夢を見て目覚めた時、ああ、これが私の未来なんだ、って思いました。不思議な感覚でした。あんなに寂しい夢だったのに、悪夢とは思えなくて。ただすんなりと、自然に受け入れることができました」
クレリアが、オチバの腕の抱擁を少し強くする。
「でも……よく考えると、やっぱり怖くて。あんな風に一人で死ぬのは、寂しくて。その頃、私はパルト村でお世話になっていたんですけど、皆と暮らしていると……余計に怖くなる気がして。それで、私は一人でこの家に戻りました」
オチバはヒドロから聞いたクレリアの過去の話を思い出していた。
ヒドロは、村から距離を取り始めたクレリアに悲しみと悔しさを抱いていた。
その時から、クレリアは自分の死を感じ始めていたのだ。
「村には度々お邪魔させてもらいましたけど、一人で暮らすことにも慣れてきて。夢の寂しさにも、慣れました。だんだん自分の姿が、夢の中の自分と近づいてきて。そろそろかな、って思い始めた頃に、オチバさんと出会ったんです」
クレリアはもう一度オチバの顔を見上げた。オチバの顔は、無力感や罪悪感に打ちのめされたようだった。
まだ、わかっていないらしい。
「いついなくなるのかなって思ってました。夢で見たように、私がああなってしまうのは絶対のように思えて、なら私が死ぬ前に、オチバさんはここを去るはずですから」
クレリアは村でオチバが狼を退治したあとのことを思い出す。
「オチバさんが私を放って村から帰ろうとしたとき、諦めました。でも帰ると、オチバさんはいなくなってなんていなかった。むしろ私を守ってくれて、わがままを聞いてくれて。それでもオチバさんが自分のことを私に言ってくれた後、背中を向けられた時、今度こそ駄目だと思いました」
クレリアはあの時、諦めきれずにオチバの背に「待って」と声をかけた。
しかしオチバが待つか待たないかを確認する前に、クレリアは倒れた。
「……気を失って、目覚めれば、オチバさんがいました。……とても驚きました。その時に、思ったんです。この人なら、本当に最後まで傍にいてくれるんじゃないかって」
あの時の気持ちは、クレリアにとっては筆舌に尽くしがたい。
見つかるはずのないものが見つかったような。
ずっと前から諦め、求めることも忘れてしまった願いが、クレリアの前に希望となって再び現れた瞬間だった。
「オチバさんが十日の約束を受け入れてくれて、本当に嬉しかったです。……でも、やっぱり不安でした。どこかのタイミングで、いなくなっちゃうんじゃって。それに、随分無理してるように見えましたから」
クレリアの目には、オチバが澱んだ水を辛うじて抑えている一枚の脆い壁のように見えた。
いつ決壊してもおかしくはない。どうしようもない自責の念に苛まれ続けているオチバの姿に、クレリアは何も言うことができなかった。
「……私は、酷い人間です。オチバさんが苦しんでいることはわかっていました。けれど、私が何か言ってしまうことで、オチバさんがいなくなってしまうかもしれないと考えると、何も言えなかった。私は自分の為に、オチバさんの苦しみに気づかないフリをしていたんです」
「……それは、違うだろ。俺のこれは、自業自得なんだよ。クレリアが気に病むことは何もないんだ。……だから、やめてくれよ」
オチバが沈んだ声を出す。
「気を、遣わなくていいんだ。罵ってくれてもいい。お前はありえないぐらい優しいから、そんなことはしないんだろうけど……でも、救われただなんて言うのは、やめてくれ」
最後の最後まで、オチバはクレリアに迷惑をかけたくない。オチバの言葉は、そんな気持ちが滲み出たものだった。
クレリアは微笑む。今、確信した。この人は、良い人だ。本当は優しくて、思いやりがある、そんな人。
母親が言っていた。人は誰しも良い心を持っている。でもそれは、後からくる悪い心に覆い隠され易いのだと。
もしそうなってしまいそうな時、自分を見失わないように、自分に嘘をつかないように生きなさいと、クレリアはそう教わった。それを守って信じてきたから、今の自分がある。
では、自分を見失ってしまった人はどうすればいいのだろう? ──それは、教えてくれなかった。
けれど簡単だ。だからクレリアは微笑む。また、本当の自分を見つけるだけでいい。
「いいえ。オチバさんは、私を救ってくれました」
「……ッ」
「オチバさんが十日の約束をしてくれたあと、また夢を見たんです。一人きりで眠る、私の夢を。目が覚めた時、あんなに見慣れたはずだったのに、とても怖くなりました。今度こそ、悪夢だと思いました。それで、オチバさんに離れてほしくなくて、あの夜、私は扉の前に立っていたんです」
その時の情景が、クレリアの脳裏に浮かび上がる。ただ、寂しかった。ただ、怖かった。
「そしてあの夜、オチバさんが私を抱き締めてくれて、ほっとしました。まだ、この人はここにいてくれているって、実感できたんです。眠るまで付き添ってくれて、それでも少し怖くて、でも眠ってしまった。次に目が覚めた時、オチバさんは私の名前を呼んで、微笑みかけてくれました。あの時──初めて、もう大丈夫だって思えました」
自分が寝ている間に、オチバの何かが変わった。それを聞く気はなかった。
自分が終わるまで、傍にいてくれるだけでいいのだから。
「ずっと一人だと思っていたんです。変えられないと思っていたんです。でも今は、隣にオチバさんがいてくれる」
クレリアは目を瞑った。
「だから私は、幸せです」
言い切った。自分の言いたかったこと。オチバに対する、感謝を。
オチバの返事はない。
「……まだ、自分が悪い人だと思っているんですか?」
オチバは沈黙していた。何を言えばいいのかわからない。
クレリアは救われたと言った。この結末が、幸せであるとさえ言った。
彼女がそう思ってくれているのなら、何か言わなければならない。だが、オチバにはそれがわからない。
クレリアはそんなオチバの顔を見て、満足そうな笑みを浮かべた。
「誰かのために泣けるあなたが、悪い人なわけないじゃないですか」
その言葉で、オチバは初めて気づいた。目から溢れた雫が、自分の頬を伝っている。
オチバは、泣いていた。
もう随分と前から泣いていなかった。泣く時はいつも、相手を騙す時や、痛みに耐え兼ねる時。すべて自分のためだった。
オチバが誰かのことを想って泣くことなど、これが初めてだった。
ヒドロの言葉で、一旦整理がついた。それでも、やはり嫌だったのだ。
何よりも、どうしようもなく、クレリアには生きていてほしかった。
「……オチバさんの故郷は、ニホンっていう場所なんですよね」
涙を流すオチバに、クレリアは語りかける。
「そのニホンはどこかわらないくらい遠くて、この国にあるものがなくて、この国にないものがたくさんあって……」
ニホンという国を、オチバの故郷をクレリアは思い浮かべようとした。しかし、上手くいかない。
ニホンとはどういう場所なのだろう。まったく想像がつかない。
「……まるで、異世界みたい」
クレリアの呟きに、微かにオチバが反応した。オチバの反応は、触れているクレリアにそのまま伝わる。
クレリアは、オチバと初めて会った場面をもう一度思い出した。落ち葉の山から、呆けたような表情の見知らぬ青年の顔が出てきた場面だ。
オチバは言っていた。気がついたらあの中にいたのだと。どうやってここに来たのかわからないのだと。
なら。
「オチバさんがここに来たのは、きっと生まれ変わるためです」
本当は優しく思いやりがあったはずのオチバに、もう一度やり直す機会を与えてくれた、神のもたらした奇跡。
クレリアは、自分とオチバとの出会いが、その始まりであるように思えた。
「まだ、オチバさんが過去の自分を許せないでいるのなら。あなたが命を奪ってしまった人々のことを本当に悔やんでいるのなら」
クレリアは、罪人に真に必要なことは、罰ではなく許しであると思う。
罰で更生するのなら、それは脅しでしかないのではないか。人は許されて初めて、己の罪深さに気づくのではないか。
自分で自分の罪に気づいて初めて、悔やみ、更生できる。
甘い考えかもしれない。被害者になったことのない、緩んだ考えかもしれない。
それでも、クレリアはこう思う。
「あなたが不幸にしてしまった人以上に、誰かを幸せにしてあげて下さい。あなたが命を奪ってしまった人以上に、誰かを救ってあげてください」
罰は償いではない。それで罪人は許された気分になり、傍観者の溜飲が下がるだけ。
それでは、意味が無い。
償いとは、自分が作り出してしまった不幸以上の幸福を、誰かのために作り出すことだ。
きっとそれは、楽な道のりではない。自分と戦い、他人と戦う、そんな辛いものだ。
少なくとも、死を選んで逃げるよりは、ずっと。
それでも、クレリアはオチバにはそれができると信じている。
「あなたが、自分に許しを課せられるようになるまで──生きてください」
自分の想いは伝わっただろうか。
生きてほしい。死んでなんてほしくない。
でも、それでも、決めるのは彼だ。
オチバが、さまざまな感情を込めた声で呟く。
「……ありがとう、クレリア」
それを聞いて、クレリアは安堵するように笑みを浮かべた。
クレリアは、オチバを信じている。
*
それから、少し話をした。
他愛のない話だ。話題は終わる前に移ろい、転々としていく。
茶化し合い、冗談を口にして、笑い合って。
そして、話は一度止まった。
「なんだか……眠くなってきちゃいました」
ぽつりと、オチバに体を寄せたまま、クレリアが呟く。
「ああ、駄目ですね。あれだけ満足だと言っていたのに……やっぱり、少しだけ、名残惜しいです」
抗いがたい眠気が、柔くクレリアを包んできた。瞼を開こうとしても、重くて、どんどん下がってしまう。
すると、淡くなり始めたクレリアの感覚を、暖かいものが包んだ。
オチバが、クレリアを抱き寄せていた。
クレリアがゆっくりと顔をあげると、狭くなった視界に、微笑むオチバが映った。
「眠かったら、寝りゃいいじゃねえか。また明日話せばいいだろ?」
「……あし、た」
「おう、明日だ。明日の朝は、俺がスープを作ってやる」
オチバの微笑みと言葉に、クレリアの顔がふにゃりと解けた。
明日、話す。それは、とてもいい考えだ。
「それは……楽しみです。明日が……楽しみです」
瞼が下りていく。視界が暗くなっていく。
それでも、クレリアに悔いはなかった。あの人が傍にいることなんて、見えなくてもわかる。
閉ざされた視界の外で、自分を抱き締める力が強くなった。
「お前が眠るまで、一緒にいてやる。だから、安心しろよ」
──ああ、こんなに安心して眠るのはいつぶりだろうか。
本当に、本当に自分は幸せだ。こんな結末、少し前は考えることさえできなかった。
意識も蕩け出す。柔らかく、クレリアを誘い込んでいく。
眠い。……でも、自分の傍にいるあの人に、これだけは言わなくては。
もう一度、感謝を込めて。
「──ありがとうございます。オチバさん」




