8
エドアルドは躊躇していた。
能力自体は、目の前の『パープル』より彼の方が勝ってはいたが、相手を傷つけてしまう恐れがあったからだ。
パープルは笑いながら、フロアの奥へ奥へと逃げていく。
廊下に足音が響いて、ダリルとトオニが、対峙するエドアルドとパープルに近づいてきた。エドアルドの背中越しにトオニの姿を認めると、パープルは足を停め振り向いた。
パープルの顔からは笑みが消えていた。
「・・・イエローはどこ?」
トオニの代わりにダリルが答えた。
「聞き分けが悪かったもんでね、ちょいとお仕置きが過ぎたのさ。悪いな」
ダリルはやってきた廊下の向こうを顎で指した。
パープルはダリルを睨みつけ、その場に仁王立ちになった。
「・・・殺してやる」
ざわざわと、ひと房の紫のメッシュの入った赤い髪が逆立っていく。
今度は迷うことなく、パープルに銃口を向けたダリルだったが、エドアルドがいきなりその手から銃を叩き落とした。
何をするんだ、とダリルが抗議しかけた途端、床に転がった銃が暴発した。
「よかったねぇ、腕が吹き飛ばないで」
悪鬼の形相でパープルがにやりと笑った。
数々の修羅場を潜ってきたダリルの背中にも、悪寒が走ったほどだった。
パープルは三人を見据えたまま、さりげなくポケットに手を突っ込んだ。
「悔しいけど、今のままじゃそこのお兄さんには敵わないみたいだ」
そう言ってポケットから、小さな赤いものをつまみ出した。
ダリルはそれを見て、思わず声をあげた。
「それは・・・!」
「これはねぇ、ぼくの秘密兵器なの」
小さな針つきの赤いチューブ。
ダリルもよく知っている、言うまでもない『パンドラ』だった。
パープルはそれを右手で摘んでひらひらさせている。
「確かにそれを使えば、能力は倍増するかもしれませんが、身体の許容量を超えた能力は、確実に命を奪いますよ」
エドアルドが眉を顰めて静かに言った。
「やめなさい」
パープルは笑顔のまま、エドアルドの言葉を無視して、パンドラの入ったチューブを首筋に突き刺した。
パンドラが全身に行き渡るのを確認するかのように目を閉じ、その小さな身体が僅かに痙攣した。
「逃げたほうがよかないか?」
ダリルはエドアルドに小声で言った。
彼女は怖いもの知らずで、無謀なことも度々するが、引き際はきちんと心得ていた。
エドアルドが無言で頷いたのを合図に、三人はダリルがやってきた非常階段に向かって駆け出した。
しかし、ダリルの提案も少し遅すぎたようだった。
パープルがゆっくり目を開いた途端、床が土台のコンクリートごと、抉り取られた形で持ち上がった。
壁にも亀裂が入り窓も天井も吹き飛んだ。
鉄骨が露わになり、がらがらと音を立てながら、大きなコンクリートの塊がダリルたちに降り注いできた。
ダリルは頭を抱えて身構えたが、頭を潰すはずの塊はいつまで経っても落ちてこなかった。
見ると、コンクリート片は宙に浮いたままで、次の瞬間には塊の中で何かが弾けたように粉々に砕け散った。
恐らくエドアルドの仕業だろうが、超能力ってのは便利なもんだ、とダリルが感心していると、今度は硬い床が波打って彼女の足下を攫った。
天井同様に床が抜け、ダリルが瓦礫と一緒に下の階に落ちていくその刹那、危うく瓦礫の一部になりかけた彼女の腕をエドアルドが掴んだ。
エドアルドがダリルに気を取られたその一瞬を、パープルは見逃さなかった。
剥き出しになっていた鉄骨の一部が、凄い音とともに千切れ、その丸太のような鉄骨がエドアルド目掛けて襲いかかった。
やっとの事でダリルを引き上げたエドアルドは、能力を使う暇もなく咄嗟に左腕で鉄骨を遮った。
信じられないことに、彼の腕は太い鉄骨を受け止め、腕ではなく鉄骨の方が折れ曲がった。
その光景を見て絶句しているダリルに、エドアルドは笑顔で説明した。
「造り物なんですよ」
見れば、流石に今の衝撃は凄いものだったらしく、鉄骨が当たった辺りから火花が迸り、何かの配線らしい細い管が覗いている。
「随分と精巧な義手だな」
先程からの非現実的な光景の数々に感覚が麻痺したのか、ダリルは何とも場違いな感想を述べた。
「駄目だ、あの子はもう」
パープルに視線を釘付けにし、何かを探っていたトオニが、急に青ざめて言った。
ダリルはパープルに視線を向けた。
パープルは両腕で身体を抱え込むようにして俯いていた。
がくがくと震える身体の周りには、瓦礫の破片と静電気が渦巻いて、スパークしている。
少年が顔をあげた。
「た、たすけ・・・」
その顔は子供のそれではなく、まるで老人のように変わっていた。深い皺が刻まれ、皮膚も張りを失い、身体も次第に萎びていく。
パープルが物凄い絶叫をあげた。
ダリルは、醜悪なものに変化していく少年から目を逸らすことができずに、茫然と立ち竦んでいた。
エドアルドはトオニに目で合図を送ると、立ち竦むダリルをさっと横抱きにして、崩れて外が丸見えになっている窓から外に飛び出した。
ダリルは外の冷気に晒されて、はっと正気に返った。耳元でひゅうひゅう風が鳴っている。
さっきまで自分がいたのはビルの何階だった?
そこから落下すればどうなるか、ダリルの脳裏には歪で真っ赤な挽肉状態になった己の姿が浮かんでいた。
しかし二十階から飛び降りたにも拘らず、ダリルたちは地面に叩きつけられることなく、ふわりと地上に着地した。
「走って!」
地上に着いた途端、エドアルドが促した。
三人は急いで、ダリルが車で破壊した正面ゲートまで全速で走った。
直後、大音響とともに地面を揺るがせて、研究所の建物の上半分が綺麗に吹き飛んだ。
消防車やレスキュー部隊でごった返す中、一台のリムジンが瓦礫を避けて、変わり果てた医療開発研究所にやってきた。
リムジンの中の人物は、座席に深々と身を沈めた。
「吹き飛んだのは七階から上か。証拠になるようなものは皆、消し飛んだか」
マフェットはビルがひとつ吹き飛んだからといって、動じるような人物ではなかった。むしろ、不利な証拠が消えたことを喜んでさえいた。
「財団の超能力者の死体は見つかったか?」
「さあ。この有様ですからね、探し出すのに時間がかかるでしょう」
運転席のエミルが、大して関心がないように答えた。
その時突然、リムジンの窓が叩かれた。
マフェットは、消防隊員が注意にやってきたのかと、笑顔で窓を下げた。
ドアの外に立っていた人物を見ると、マフェットのその笑顔が凍りついた。
「やあ、また会いましたね」
ダリルはリムジンに手をかけにこやかに言った。
あちこち傷だらけで、服も埃っぽく、たった今現場に駆けつけたのではなさそうだった。
笑顔のダリルとは対照的に、マフェットは黙ったままで、いつもの事務的な笑顔を浮かべるのさえ忘れているようだった。
ダリルはなおも笑顔で話し続けた。
「私もたまたま現場に居合わせましてね。おたくが超能力者の保護者だったとは知りませんでしたよ。ただ躾くらいはきちんとしておいた方がいいですね。それに」
ダリルは射るような視線でマフェットを見つめた。
「十三階では面白いものを見せてもらいました。ちょっと変わった趣味ですよね」
そして運転手に視線を移し、僅かに眉を寄せた。
「今日はもう失礼しますが、近いうちにまた話を聴きに伺いますよ」
それだけ言うと、ダリルは自分のおんぼろセダンに戻っていった。
彼女が向かったセダンの横には、ふたりの男が立っていた。
三人はマフェットのほうをちらっと見ると、車に乗り込んでその場から立ち去っていった。
マフェットはその瞳に怒りを湛えて、無言のまま自動車電話に手を伸ばした。