19
その場所は深夜とは思えないほど明るかった。
ビルやホテル、ガソリンスタンド、雑貨店。
さまざまな建物群が、巨大なキャンドルと化して繁華街を照らしていた。
しかしOJMタワーを中心とした、ネオ・デトロイトでも一番豪華で華やかなこの一角だけは他とは少し違っていた。
そこにあった建物は、溶けかけの氷菓をもう一度凍らせたように、崩れかけたまま固まっていた。
道路もアスファルトが死体を飲み込んだまま、波打つような形で固まり、奇妙なオブジェの建ち並ぶ瓦礫の通りに変わっていた。
ずっと遠くの方でサイレンが鳴り響いている。
ダリルは所在無げに、瓦礫のひとつに腰を下ろしていた。
その腕の中にあった、枯れ木のような少年の遺体はない。
ダリルは人の気配に気づいて顔をあげた。
傷だらけのエドアルドとトオニが、無言で立ったままじっとダリルを見つめていた。
ダリルからはいつもの荒々しさが取れ、静かで穏やかな表情をしていた。
彼女と過ごしてまだほんの数日だが、彼らが今まで見てきた中で一番美しく、少し悲しげだった。
「あれは誰だ?」
唐突にダリルが言った。
だが、エドアルドとトオニには、ダリルが誰のことを尋ねているのかすぐに理解った。
「彼女に名前はありませんが、極一部の人たちは『エルピス』と呼んでいたそうです」
「エルピス? 変わった名前だな」
「プロジェクト名『パンドラの箱』になぞらえて、古代ギリシャ語で『希望』という名前をつけたようです」
ダリルはその皮肉なネーミングに苦笑した。
過去、超能力というラベルのついたパンドラの箱を開けて、中身を引っ掻き回した科学者たちがいた。
その底からやっと取り出した『希望』だったが、彼らは自分たちの手に余るという理由で、それを捨て去る決断をした。
そして逃げるその『少女』を追いかけ回し、最後には世界から消してしまったのだ。
開かれた箱の中から希望はいなくなってしまったが、残っていた災いは辺りにばら撒かれたままだった。
それはマフェットやホワイトウッドを介し、新しい麻薬『パンドラ』に姿を変えて、世界に広がろうとしていたのだ。
黙って様子を見ていたトオニが、ダリルに声をかけた。
「ねえ、『目ん玉を抉り出して、ケツに突っ込んでやる』のは勘弁して欲しいんだけど」
トオニの言葉にダリルがぴくりと眉をあげた。
最初にダリルが彼に発した警告を、トオニは一字一句間違えずに覚えていたのだ。
「今のダリルを走査しても、何の能力も感じないんだ」
「あの餓鬼が『力をやる』っ言ったが、断った」
「ではエルピスは本当に消えたのですか?」
「寝てる」
消えていなくなったわけではない。
ダリルであってダリルではない希望は、彼女の中で強大な超能力を抱えたまま眠っているのだ。
「マフェットは」
ダリルは一瞬躊躇したが、そのまま話し続けた。
「マフェットは私のことを『完全体』だと呼んだ。だがこれじゃあまるで」
ダリルは廃墟になった街を見渡し、自嘲を込めて言った。
「化け物だ」
エドアルドは、ダリルと初めて会った時のように微笑してダリルの右手をとった。
「貴女は警官でしょう? ウィラード刑事」
悪戯っぽい笑みを浮かべたトオニが、エドアルドとは反対の、ダリルの左手をとった。
「二級刑事だけどね」
ダリルはぽかんと間抜け面を晒した。
全く、変な奴らだ。
ふたりの一級刑事に手を掴まれたダリルは、引っ張られるようにして立ち上がった。
サイレンの音が大きく喧しくなり、辺りは喧騒に包まれ始めていた。
OJMタワー、通称マフェット・ビル周辺の奇妙なオブジェは、世間に一大センセーションを巻き起こした。
連日のようにいろいろなマス・メディアが、立ち入り禁止区域やマフェットの関連会社に押し寄せた。
しかし、事件の当事者と思われるマフェット本人が行方不明になった上、被害が甚大で一企業がどうにかできる次元を超えてしまい、結局政府が乗り出すことになった。
さまざまな憶測は飛び交ったが、二十数年前の財団の『事故』同様、事の真相は闇に閉ざされてしまうことになりそうだ。
マスコミは煙に巻いたが、無論政府はそう甘くはなかった。
さっそく、エドアルドとトオニのふたりの超能力者が財団本部に呼び戻され、政府に事情を聞かれることになった。
特に申し合わせたわけではなかったが、別々に事情聴取を受けた際、彼らはダリルの超能力のことについては一切触れることはなかった。
OJMタワー周辺の一件は、マフェットによる違法な人体実験が引き金となった、超能力を有するものの仕業、ということで片付けられた。
政府議員の中には、疑問を唱える者も何人かはいたが、エドアルドとトオニの答えは変わらなかった。
もとより超能力者相手に嘘発見器は通用せず、真偽を確かめようもない。
またふたりは財団のなかでもトップクラスの人物で、政府が直接仕事の委託をするほどの実力者でもあった。
ふたりの証言を疑おうにも、彼らを疑う確たる根拠が存在しなかったのだ。
その後政府の調査のメスが、マフェットの子会社やその関連会社の細部まではいり、そこで新旧さまざまな実験設備が発見された。
そこで見つかった実験設備は、財団の研究者によって回収され、本部奥深く封印されることになった。
最終的に政府は、エドアルドたちの証言を信用するに至った。
しかし、政府議員の中で唯一、不安感を拭い去れない人物がいた。
エドアルドの父である、マクファデインその人だった。
彼はエドアルドが事件の前に、例の極秘プロジェクトの詳細を調べていたことを重要視していたのだ。
政府の喚問が終了したあと、マクファデインはエドアルドひとりを個室に呼び出した。
会議室のようなそこには、テーブルとパイプ椅子があるだけだった。
マクファデインは椅子のひとつに腰掛けた。
エドアルドにも座るよう勧めたが、丁寧に固辞した彼は、入り口近くに静かに立ったままでいる。
マクファデインはおもむろに口を開いた。
「本当のことを話してくれないか、エドアルド。もしやあの事故には『完全体』がなにか関係しているのではないのか」
現場のあの有様は、プロジェクト終焉の時の状態に近い。
今回は全てが焼失したわけではなかったが、そこにあった炎はコンクリートやアスファルトを溶かすほどのものだ。
現在財団が把握している超能力者の中には、それほどの力を発揮するものは存在していない。
「あの事故を本当に引き起こした人物は誰だ」
マクファデインは、財団を管理下に置く政府の要人として、厳しい口調でエドアルドに詰問した。
エドアルドの透き通った碧い瞳がきらりと光ると、静かな室内にばきんという音が響いた。
マクファデインがテーブルの下に隠していた、マイクロレコーダーが粉々に砕け、破片が床にぱらぱらと落ちた。
マクファデインは蒼くなって、自分の正面に立つ青年に目を向けた。
「今回超能力を発揮した人物は、力を振るったあと永い眠りにつきました」
「死んだのか」
エドアルドはそれには答えなかった。
「マクファデイン議員。『完全体』なるものは、もうこの世には存在していません。彼女はもう二十年も前に死亡したのです。ですから二度と同じようなことは起こりません」
なおも渋い表情のマクファデインを、正面から見据えたエドアルドは、ゆっくりと彼に問いかけた。
「私が嘘をついたことがありますか? お父さん」
エドアルドは確かに嘘をついたことはない。
今も嘘はついていない。
一瞬驚いた顔をしたマクファデインだったが、彼のその瞳はすぐに、慈愛に満ち溢れた優しいものに変化した。
「・・・お前が私をそう呼ぶのは何十年ぶりだろうか、エド」
マクファデインの小さな息子は、彼が知らないあいだに立派な若者に成長した。しかし澄んだ湖のような碧い瞳だけは、幼い頃からずっと変わっていない。
昔を懐かしむように、マクファデインは口元に優しい笑みを浮かべた。
「そうだな。お前は嘘をつかない」
だがマクファデインは、エドアルドがこうと決めたら何も語らないことも知っている。
マクファデインは溜息を吐いたあと威厳を復活させた。
「では、永い眠りについたその人物が、再び起きださないように、これから厳重に監視してくれたまえ」
そして父親の顔から、政府要人の顔に戻ったマクファデインは、相変わらず静かな表情で立ったままのエドアルド・マクファデインに命じた。
「このことは、『財団理事補佐官』の君に一任する」
エドアルドは了解の返事の代わりに、母親譲りのその端正な顔に、極上の笑みを浮かべた。
ダリルは『事故』のあとも、素知らぬ顔で仕事を続けた。
エドアルドとトオニが財団に呼び戻された以上、遅かれ早かれ事の真相を、財団や政府の者が知ることになるだろう。
それはそれで、自分はそういう運命なんだと、ダリルは珍しく消極的に考えていた。
そんなことよりも、ダリルにはもっと切実で深刻な問題があった。
ダリルであってダリルではない、謂わばもう『ひとりの自分』とでもいうべき超能力者の、その強力な力のことだ。
エルピスは眠りについた。と同時に自分の中にあった超能力も再び休眠状態に戻った。
だが。
一度開けられた箱の蓋が、何かの拍子にまた開くかもしれない。ダリルは時限爆弾を抱えているようなものだった。
その時ダリルの背後から、警部の怒鳴り声が響いた。
「おい! 何をぼんやりしてるんだダリル! 仕事しろ!」
短期間のあいだに、ふたりの刑事を失った特暴の刑事たちは、彼らが担当していた事件を割り振られ、いつにも増して多忙を極めていた。
しかも繁華街が壊滅状態になったせいで、その周辺地域も混乱し、犯罪率が異様に増加していた。
特殊暴力犯罪課の主任警部は苛ついていた。
「財団の超能力者たちはまだ戻らないのか? こんな時にこそ、あいつらの力の使い時だろう」
現金なもので、あれだけ警察組織に超能力者が入り込むことを嫌がっていた警部が、今は彼らの力をあてにしている。
力といえば、自分の超能力はお休み中だしな、とダリルは苦笑した。
「何だ? 何がおかしい」
「別に。もうすぐクリスマス・イヴだと思ってね」
普段から、お祭り騒ぎを毛嫌いしているダリルが言った言葉とは信じられず、警部は目を丸くした。
彼は、最近ダリルの様子がおかしいことには気がついていた。
相棒のトーマスを失った時のような、トゲトゲしさはなくなっていたが、いつもの燃えるような覇気が感じられなかった。
そのことが殊更に彼の胃を痛めつけた。
警部のストレスを知ってか知らずか、ダリルは立ち上がると彼の肩をぽんぽんと叩き、自分のデスクから離れ、特暴のオフィスを後にした。
走るガラクタのセダンの代わりに、新しく支給された車に乗り込もうとした時、ダリルは近づいて来るふたつの人影に気がついた。
エドアルドとトオニだった。
ふたりは笑顔でダリルの側までやってきた。
ダリルは運転席側の車の屋根に手をかけふたりの財団職員に問いかけた。
「財団からの迎えか? それとも政府からか? どっちにしても早かったな」
「何のことでしょう」
エドアルドは涼しい顔で言った。
「言ったでしょう? 貴女はネオ・デトロイト中央警察署、特殊暴力犯罪課所属の刑事です。それ以外の何者でもありませんよ。従ってどこからも迎えなんかは来ません」
ダリルはぽかんとしたまま、しばらくそのまま立ち竦んでいた。
今までの騒ぎは全部夢だったのか? 自分が超能力者ということも、街をひとつ壊滅させたことも。
いや、今夢を見ているのかもしれない。
それならありがたいが、あいにくダリルはそこまで楽観主義ではない。
「・・・ちゃんと説明しろ」
「もう! つまり『何も変わらない』ってことだよ」
痺れを切らしたトオニが焦ったそうに言った。
「それよりぼくら仕事をしにきたんだよ。ねえ、今日は何を『教育指導』してくれるのかな? 今度は安酒場じゃなく、ライブハウスとか行ってみたいよ。行ったことないんだ」
トオニは犯罪現場を遊園地か何かと勘違いしているのか。
ダリルはピクリと片方の眉を上げた。
冬にしては暖かい日差しの中、ふたりの超能力者の能天気な笑顔がダリルの目の前にあった。
相変わらずの、殺伐とした刑事の日常。
箱の奥底で眠りについた希望が、再び絶望に目覚めるまでのあいだは、現在の生活を満喫していてもいいらしい。
「今日はどこへ行くのですか?」
エドアルドが助手席側にまわり込もうと一歩踏み出した。
「おい」
ダリルはエドアルドを呼び止めた。
振り向いたエドアルドに、ダリルは右手を差し出した。
これは刑事の通過儀礼だ。
「私はダリル・ウィラードだ。ダリルと呼んでくれ」
エドアルドは、例の聖人君子のような笑顔を浮かべて、ダリルと握手を交わした。
「私はエドアルド・マクファデインです。エドと呼んでください、ダリル」
握手するふたりの様子を見たトオニが顔を輝かせた。
「ぼくも! ぼくは」
「よろしくな、トオニ」
ダリルは握手の代わりにトオニの綿菓子頭をぐりぐり撫でた。
「もうなんだよっ!」
そう文句を言いながらもトオニは嬉しそうだった。
「さあ行こうか、エド、トオニ」
笑いながら運転席に乗り込んだダリルは、キーを回しアクセルを踏み込んだ。
パンドラの子供達・end
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