17
明るいエレベーターホールに人がいた。
マフェットだった。
彼はエレベーターの扉の前で屈み込んで、ダリルのほうに背を向けていた。
カツンと靴が鳴る。
マフェットはダリルの気配に気づいて、ゆっくり立ち上がり振り向いた。
「まさかこんなかたちで『完全体』に出会えるとは思わなかったよ」
マフェットは満面の笑顔だった。
「なんの話だ」
顔を顰めるダリルに、マフェットは芝居がかった態度で語る。
「君は世にも珍しい、休眠中の超能力者だったのだよ。今の虚弱体質の超能力者たちと違って、君はとても生きがいい。どこにも瑕疵がない上に強大な力も持ち合わせている、まさに超人だ。いや、スーパーウーマンかな」
「誉め殺しか? 気色悪い。もう観念して出頭したらどうだ?」
マフェットはにやにや笑いながら問い返してきた。
「出頭? 君こそ財団か政府に出頭したらどうかね? 君はたった今、超能力で殺人を犯しただろう?」
マフェットは探るような目つきで、ダリルの反応を窺っている。
「あれだけ派手に力を使って人を殺せば、一生隔離されるか、脳を弄られ廃人にされるかだろうがね」
「言いたいことはそれだけか?」
ダリルは硬い表情で感情を殺し静かに言った。
マフェットは内心震え上がったが、そんな素振りは微塵も見せず、すっと一歩横に退いた。
「慌ててはいかんよ。君の相手はこれがする」
マフェットの陰から赤い髪の少年が姿を現した。
なるほど。にわか超能力者には、人造超能力者ということらしい。
半人前には半人前か、とダリルは皮肉に考えた。
と同時にあくまでも自分の手を汚さない、マフェットのやり口に反吐が出そうだった。
マフェットはまた子供を盾にしようとしているのだ。
レッドには何の罪もない。むしろ彼は被害者だ。
レッドにしてみても、ダリルと対決しなくてはならない理由などないはずだった。
だがレッドはすでに、そんな理性的な考えが通じる状態ではない様子だった。
彼の身体は微かに痙攣し、きょろきょろと視線が定まっていない。
「また『パンドラ』を使わせたな?」
ダリルが睨み付けるとマフェットは嘲笑った。
「私が生きてさえいれば、いくらでも代わりの超能力者は造れるのだよ」
エレベーターが軽く音を立ててやってきた。
ドアが開く。
マフェットはダリルのほうを向いたまま、背中からゆっくりとエレベーターに近づいていく。
「君という先例に出会えたことは不幸中の幸いだったよ。次からは潜在能力者を探しだし、『パンドラ』を使って『完全体』をこの手にすることができる。イエローもパープルも、このレッドでさえ失敗作だ。私にとってはただの消耗品にすぎん」
レッドの表情が僅かに動いた。
彼はマフェットを振り仰いだ。
「失敗? ぼくが本物になるんじゃないの?」
「おお、そうだった。そうだとも。お前は可愛い私の子供だ」
マフェットは笑いながら、レッドを残しひとりエレベーターに乗り込んだ。
だが『パンドラ』で枷が外れているレッドには、二重音声のようにマフェットの心の声が聞こえている。
失敗作。出来損ない。
死んでも誰も困らない、人間ではないもの。
むしろ消えてもらえば、安心して次に進める。
壊れても代わりが沢山ある、私の可愛い出来損ないの『子供』。
「そっかあ」
レッドはマフェットに笑顔を向けた。
ぱん。
空気を詰めた紙袋を叩き割るような音がして、マフェットは上等なスーツの切れ端と一緒に、その中身をエレベーターの中に撒き散らした。
ひしゃげた蛙のように、壁にへばりついたままのマフェットを乗せたまま、ドアがゆっくりと閉まった。
エレベーター上部の階数を示すランプが、凄い勢いで下層へと流れていく。どうやらエレベーターを支える太いワイヤーが切れたらしい。
一番下まで示したところで、微かにビルの最下層にエレベーターが激突した音が聞こえたような気がした。
マフェットが乗り込んだエレベーターを凝視していたレッドが振り向いた。
レッドは笑っていたが、その頰には涙が伝っている。
「・・・てやる」
マフェットはレッドに言った。
彼を守ることがレッドの存在理由だと。
「殺してやる、いっぱい、いっぱいいっぱい」
ではそのマフェットが消えてしまった今は?
自分で自分の生きた証を世界に刻みつけることが、今のレッドの存在理由だ。
「それがぼくがこの世に存在している、たった一つの証明になるんだ」
レッドの姿が陽炎のように揺らめき、消えた。
同時にフロアの窓ガラスというガラスが全て砕け散った。
破片が夜の街に、きらめく雪のように降り注いだ。
ダリルはフロアを見渡したが、どこにもレッドの姿が見当たらない。
ふと、ダリルの視界が赤く染まり、人の断末魔の悲鳴がそれに重なる。
実際に見ているのではなかったが、ダリルは確信していた。
血に飢えた獣と化したレッドが、たった今誰かを殺したのだ。
どこにいるんだ、と自分自身に問いかける。
すると、まるでスクリーンに映し出されたかのように、頭の中に映像が浮かんだ。
マフェット所有のマフェットビルこと、『OJMタワー』は繁華街の中心部に位置していた。もう時間は遅かったが、クリスマス休暇前の週末だったこともあり、人通りは結構多かった。
レッドはビルの外の交差点の信号機の前に突っ立って、通りがかる人間を氷のような目で見ている。
遅いディナーを済ませた、若いカップルが交差点を横切った。
笑顔で会話し、とても幸せそうだ。
だがレッドは少しも幸せではなかった。
男が急に立ち止まり、胸を押さえて変な顔をした。
異様な音と男の絶叫が重なった。
胸を押さえた手の間から鮮血が迸り、その手を内側から押し上げるように、何か白いものが胸から突き出した。
喉から迫り上がる自分の血で声を封じられ、男はごぼごぼ血を吐きながら、そのままその場に蹲るように倒れ込んだ。
女の方は、何がなんだか理解できないまま、血溜まりの中で人のかたちを留めない何かに変わっていく恋人を、恐怖で見開いた目で見つめている。
やっとの思いで悲鳴をあげかけた女の身体が、見えない大きな手で掴まれた。
彼女は声を発することができないまま、ばきばきと音を立て雑巾のように絞りあげられていく。
それを間近で見ていた中年女性が、彼女の代わりに物凄い悲鳴をあげた。
中年女性の悲鳴を聞きつけて何人かが立ち止まり、すぐに野次馬の人垣が出来上がった。
実際に目の前で起こった出来事のような生々しさだった。
ダリルは、血の臭いまで嗅いだような錯覚に陥って、思わず顔を顰めた。
それよりもレッドはいつのまに、あんなところへ行ったのだろうか。
なんとしても止めなくては。
頭の中に視えている映像に集中すると、ダリルの全身にむず痒い浮遊感が走った。
ゆらりと視界が揺らめき、気がつくと、ダリルは騒めきが湧き上がる交差点に立っていた。
「何だ? どうなってる」
ダリルは周囲を見回し混乱したが、一瞬で現場に来れたことに感謝した。
人垣が邪魔してレッドは見えなかったが、一刻でも早くここから人を引き離す必要があった。
「警察だ! 皆ここから離れろ!!」
ダリルは野次馬の輪の外側で叫んだが、人々の好奇心を逸らすほどの効果はなかった。
人々はふたつの奇妙な死体を取り巻くようにしたまま動かない。
ダリルは仕方なく、野次馬を掻き分け前に進みでようとした。
レッドは交差点の赤信号で停まっていた、小型トラックに目を向けた。
トラックが急にタイヤを軋ませた。
車の異常に慌てている運転手をのせたまま、トラックが人垣のほうへ突っ込んできた。
野次馬の何人かがタイヤの音に振り向いたが、ほとんどの者が何が何だか理解できないまま、トラックに跳ね飛ばされた。
トラックはタイヤに人間を巻き込んだまま、スピードを緩めることなく次々と人を跳ね飛ばしていく。
悲鳴があがり、人垣が割れダリルの目の前にトラックのヘッドライトが迫ってきた。
トラックは彼女の一メートルほど手前で、見えない壁にぶつかったかのように、フロント部分を大きくへこませた。
その勢いでトラックの後方が一瞬持ち上がり、後輪がどすんと地響きを立てて地面につくと、トラックはその場で停止した。
運転手はハンドルに頭をぶつけて気絶している。
難を逃れた人々が、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
トラックの通り過ぎたあとには、たくさんの怪我人と死体が残されていた。
ダリルは、交差点の反対側のレッドを見つめたまま、その場にじっと立っていた。
ささくれだったレッドの思考が、ちりちりとダリルの頭の中を焼こうとしている。
ダリルは自分と、自分の中の誰かが、それに抵抗しているのを感じていた。
未だにダリルは、自分が超能力者などということは信じられなかった。
しかし身体の奥底から、溶岩のように溢れてきそうな『何か』に蓋をし、抑えることには成功していた。
そうだな、とダリルは誰とはなしに呟く。
自分はお前のような小さな女の子じゃない。どんなことでも自分で決着をつけなくてはならない大人なんだ。
消えて、消し去って、全てを放り出して逃げ出すわけにはいかないのだ。