16
もう時計は十一時をまわっていて、さすがにオフィス・ビルの立ち並ぶネオ・デトロイトの西部地区には人影はほとんどなかった。
深夜営業のマーケットから洩れる明かりや、シーズン中はずっと明かりが点いたままの電飾ツリーだけが、街灯と一緒に道路を照らしていた。
その静かな通りを、一台の車が駆け抜けて行く。
警部の話を聞いたエドアルドとトオニのふたりは、おそらくダリルが向かったであろうマフェットの所へ向かう途中だった。
トオニはその不思議な色の瞳に、街の光を反射させながら進行方向を見つめている。エドアルトは普段と変わらず、静かにハンドルを握っていた。
だがふたりとも、顔に緊張感を漲らせて無言のままだった。
車は信号で一旦停止した。
「!」
突然、助手席のトオニが頭を抱えて蹲った。
ハンドルを握ったままのエドアルドが、トオニに声をかけた。
「トオニ、どうしたのです?」
トオニはエドアルドの心配そうな問いかけにも、返事ができないほどの頭痛に襲われていた。
誰かの思考が悲鳴のように鳴り響き、まるで脳を直接ハンマーで、思い切り殴りつけられているようだった。
しかもその思考の主は何のフィルターもかけず、感情を剥き出しのままテレパシーを解放している。
受信をシャットアウトしているのに、それはトオニの頭を無理矢理こじ開けて、彼の中に入り込もうとしているのだ。
トオニはこれほど強力なテレパスとは、今まで一度も出会ったことはなかった。
相手の正体を探ろうと、トオニは意を決してその思考に同調する。
途端に相手の記憶や感情が滝のように、直接どっと流れ込んできた。頭痛と吐き気を堪えて、相手の意識に寄り添って行く。
ダリルだ。
テレパシーの主はダリルに違いなかったが、送られてくるイメージは、トオニが財団で見た過去のプロジェクト、『パンドラの箱』のあの完全体の少女の姿だった。
少女は泣きながら走っている。
来ないでくれ、放っておいてくれと泣いている。もう痛いのも怖いのも嫌だと泣いている。
走る少女の背後を、手に手に武器を携えた男たちが血相を変えて追いかけていく。
追い詰められた少女が、無意識のうちに我が身を庇って能力を解放する。
その強大な力が辺りを血の海に変えてしまう。
少女は血塗れの異様な形のオブジェの中で立ち竦み、やがて声をあげて泣き出した。
その少女をさらなる追っ手が追い詰める。殺せと叫んでいる。切り刻めと喚いている。
少女の悲しみが怒りと絶望に変わる。
なぜ、なぜ、なぜ。
要らないのなら何故この世界に生み出したのか。こんなのはもう嫌だ。何も見たくない、いっそ消えてしまいたい。
消えてしまえ。全部。
恐怖と混乱。破壊と血のイメージ。
それらの陰に深い悲しみが見え隠れしている。
おそらくこれがプロジェクトの終末の真実の姿だったのだろう。
完全体は他人を傷つけることを恐れ、自分自身が傷つくのを怖がって泣き怯えている、小さな少女に過ぎなかった。
だが、これはどちらの感情だろう。
どちらでも同じだ。
どちらも戸惑い泣いている。怖い。苦しい。悲しい。消えてしまいたい。
いつのまにか、トオニの目から涙が溢れ出していた。
エドアルドは、茫として涙を流し続けるトオニの肩を掴んだ。
その途端、トオニが見ているものが、エドアルド自身にも流れ込んできた。
抗い難いほどの強力なテレパシーだったが、エドアルドは精一杯自分を保ちながらトオニを揺さぶった。
「トオニ、トオニ!」
エドアルドは焦った。
トオニは強力なテレパスだ。その強力な精神感応力のせいで、送り手の意識と同化し始めていた。
このままではトオニの人格そのものが、相手に呑み込まれてしまう。
「これ以上の同調は危険です、トオニ! テレパシーを切り離しなさい!」
ぱん、ぱん! と何度か頰を叩かれて、トオニはやっとその思考から解放された。
だがまだ、頰を伝う涙を拭いもせずに茫然としている。
「ダリルだ。でもダリルじゃない」
「ええ」
「泣いてる、ふたりとも! 何かあったんだ!」
まだ同調の余韻が残っているのか、トオニは興奮してエドアルドに掴みかかった。
エドアルドはトオニの頰をもう一度叩いた。
目を瞬かせ、いつもの表情に戻ったトオニを正面から見据え、エドアルドは静かに言った。
「そうです。ですから私たちは、これから彼女を救いにいくのです」
エドアルドの言葉にトオニは黙って頷いた。
マフェットに不審者の侵入を告げられ、夜間警備員は右手に銃を構え、非常灯がぼんやり光る薄暗い廊下を、懐中電灯の明かりを頼りに進んでいた。
無機質で豪奢な暗い夜のビルは、中身の見えない鍵のついた箱のようだ。
まだ若い夜間警備員は、高給に釣られてこの仕事に就いたばかりだった。
至極簡単に思えた、人のいなくなった大きな箱の夜の巡回警備で、いきなり不審者と対峙することに彼は緊張していた。
先程の「不審者がいる」の話を証明するように、廊下の先に人の気配を感じ、懐中電灯を向けた。
光の輪の中に、こんな場所には不似合いな美女が浮かび上がり、若い夜間警備員はどきりとした。
その女は、懐中電灯の光で彼の存在に気がついたようだ。
だが、様子が変だった。
「止まれ、そこで何をしている?!」
夜間警備員の制止の声は聞こえたはずだが、彼女は心ここに在らずという表情で、ふらふらとこちらへ歩いてくる。
ごくりと唾を飲み込んで、夜間警備員はいつでも発砲できるように撃鉄を起こし、注意深く女、ダリルに近づいていった。
ダリルは眩しく照らされた光で一瞬視界を失ったが、すぐにその光の向こうに、銃を構えた男がいるのに気がついた。
彼女はほとんど無意識に、発砲を制止しようと遮るように片手を挙げた。
たったそれだけの動作だった。
乾いた木を折るよう音を立てて、銃を持つ男の右腕が、曲がるはずのない方向に折れ曲がった。
夜間警備員は自分の腕を不思議そうに見つめ、ひゅうと息を吸い込むと大きな悲鳴をあげた。
フロア中に響き渡るようなその絶叫が、ダリルを現実世界に呼び戻した。
我に返ったダリルは、目の前で膝をつき、喘ぎながら絶え間なく叫び続ける制服の男を呆然と見下ろしていた。
一体どうなっているのか。
何がなんだか分からず、ダリルは頭を押さえた。眩暈と吐き気がしていた。
ダリルはさっきまでのことを思い出そうとしてた。
新しい『パンドラ』を打たれたところまでは覚えている。しかしそのあとのことがぼんやりとして思い出せなかった。
夜間警備員は肩で息をしながら、混乱しているダリルを恐怖に見開いた目で凝視していた。
彼は痛みに喘ぎながら、それでも気丈に左手で銃を拾うと、ダリルに向けて構えた。
ダリルは夜間警備員を制そうと叫んだ。
「よせっ! 私は刑事、」
ダリルの叫びが終わらないうちに、銃が夜間警備員の腕ごと吹き飛んだ。
廊下の壁や天井に、湿った何かを投げつけたような音がして、赤錆のような匂いが漂ってくる。
数秒遅れでぼとぼとと音がして、床に赤い塊がいくつも落ちてきた。
床に転がっていた懐中電灯の光の中に照らされたそれらからは湯気がたっていた。
肘から先が爆ぜて消えてしまった左腕を見つめ、夜間警備員は今度こそ、白目を剥いてその場に仰向けに倒れた。
ダリルは恐怖した。
これが自分の力だとすると、さっきのことも全て現実の出来事だということになる。
継ぎ接ぎだらけの記憶の断片が、頭の靄が晴れるにつれ、パズルが合わさるようにその形がはっきりと見えてくる。
培養液の中から見た、白衣の男たち。
優しい笑顔の裏の畏怖と侮蔑。興味の対象でしかなかった名前のない自分。
検査検査検査。痛い苦しい、怖い。
実験に失敗して死んでしまった仲間たち。ホルマリンの瓶の中でゆらゆら揺れるきょうだいたち。
部屋から逃げ出し追いかけ回されたこと。
殺されそうになって殺したこと。いっぱいいっぱい殺したこと。
あの時の人間たちの恐怖と憎悪。
消えたい消えろ消えてしまえ。
「いや、これは私の記憶じゃない」
ダリルは思わず呟いた。そしてその記憶を追い出そうと頭を振った。
では誰の記憶なのか。
自分は誰なのか。
ダリル・ウィラード。
ネオ・デトロイト中央警察署、特殊暴力犯罪課所属の二級刑事。
そう自分は刑事だ。
それならば、やることはある。そのためにここにいる。
ダリルはトーマスを失った時と同じことを思った。
今回は標的はすぐそばにいる。
今度は逃がさない。絶対に。
ダリルはマフェットの気配を追って、ゆっくりと歩き出した。