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 片手に圧力注射器を持ったまま、エミルはダリルの様子を冷ややかに眺めていた。

 

 通常の使用量の数十倍の『パンドラ』を注入されれば、心臓が耐えられなくなって、そのうち弛緩(しかん)した身体から、色々なものを垂れ流しながら恍惚のうちに死んでしまうだろう。

 

 綺麗な女の最後としては、かなり悲惨なものだが仕方がない、とエミルは苦笑した。

 

 

 さっきまでだらだら汗を流し、びくびく痙攣していたダリルが急に静かになった。

 

 死んだのか?

 エミルは生死を確かめようと、ダリルの正面に屈み込んだ。

 ピクリとも動かない、その(うつ)いた顔をよく見ようと前髪を掴んで持ちあげる。

 

 

 その目がいきなり開かれた。

 

 

 

 ガラス越しに成り行きを観察していたマフェットだったが、自分の隣にいるレッドの様子がおかしくなったのに気がついた。

 

 レッドは目を見開き、がたがたと震えだしたのだ。

 


「どうした? レッド」


 

 レッドはマフェットの差し伸べた手を払いのけるようにして、悲鳴をあげて部屋から飛び出してしまった。

 

 マフェットは今まで見たことのない、レッドの行動に唖然とした。

 

 

 その時ぱん、と乾いた音が背後のガラス越しに聞こえて、マフェットは振り返った。

 

 

 ダリルがいつのまにか、縛り付けられていた椅子から立ち上がっていた。両手首には、鎖の千切れた手錠がブレスレットのように光っている。

 その正面でエミルががっくり膝をついて(うつむ) いた。

 

 

 とっさに何が起こったのか理解できなかったマフェットは、そのまま部屋の様子を観察し続けた。

 

 

 膝をついて俯いていたエミルが、ゆっくりと仰向けに倒れた。

 

 びしゃりと音がした。頭部がはぜ割れている。

 

 エミルは俯いていたのではなく、頭の上半分がなくなっていたのだ。

 

 

 その光景をスローモーションのように感じながら、マフェットはその場から一歩も動けなかった。

 

 マフェットは恐怖に足が(すく)んでいた。

 それはガラスの向こうの禿頭も同じことだった。

 

 マフェットは震えながらも、(もつ)れる足で辛うじて部屋を逃げ出すことに成功した。

 

 禿頭は恐怖に引きつりながら銃口をダリルに向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 ダリルは夢を見ていた。

 

 

 濃い霧だった。

 数メートル先も見えないほどの霧の海の中に、ダリルは立っていた。

 

 どこからか泣き声が聞こえる。

 

 ダリルは声のするほうに歩いて行った。

 そこにはいたのは赤い服を着た小さな少女で、同じく小さな手で顔を覆って泣いている。

 

 ダリルは少女に近づこうとして思わず立ち(すく)んだ。

 

 少女が来ているのが赤い服ではないことに気づいたからだった。赤いのは服だけではなく、顔を隠している手や、スカートから(のぞ)いている足も、身体中が赤く染まっているのだった。

 

 血だ。

 

 どこか怪我でもしているのか?

 いや。

 

 ダリルが目を()らすと、少女の足元に、何か奇妙な形の物が無数に転がっているのが見えた。

 

 その奇妙な物の正体がわかって、ダリルは背筋が凍りついた。

 

 

 人の、人間の死体だった。

 

 

 身体があらぬ方向に捻じ曲がったもの。

 手や足だけのもの。

 頭のないもの。

 

 元は人間だったもの、あるいはそれら人間の部品が、鮮血に(まみ)れて、泣き続ける少女の足元に転がっているのだ。

 

 

 ダリルが言葉を失って立ち竦んでいると、遠くから人の声が聞こえてきた。

 数人の人影が確認できた。


 

「早く見つけだして処分するんだ! ここから出してはいかん」


 

 顔は判別できないが、白衣の男が叫んでいる。

 

 処分? 処分ってなんだ?

 ダリルは誰に問いかけるでもなく叫んだ。

 

 だが影たちはダリルの存在を無視して、白衣の男の言葉に呼応するように叫んでいる。


 

「殺せ! 構わん、あれは人間じゃないんだ!」


 

「捕まえろ」


 

「切り刻んで標本にしろ」


 

「殺せ!」


 

 

 今まで泣き続けていた少女が急に顔を上げた。


 

「いやっ! わたしは人間よ。誰にも自由になんかさせない!!」 


 

 涙の跡もそのまま、血まみれで怒りに震えながら、鮮やかな翠の瞳で影たちを睨みつけた。

 

 

 ふと、ダリルの間近で聞き慣れた金属音が響いた。

 

 音のした方向にゆっくり振り向くと、男が銃を構えダリルに狙いをつけている。

 

 ダリルの、霧のかかったような目の焦点が合うと、男は風船が(はぜ)るように辺りに赤黒く弾け飛んだ。

 

 まだ夢の続きなのか。

 

 ダリルは足元、いや部屋中に散らばっている人間の残骸をぼんやり眺めながら、『パンドラ』の抜け切らない重い頭で考えた。

 

 

 そういえば。

 マフェットの姿が見当たらない。

 あいつ、あの男を探し出さなければ。

 

 

 ダリルの脳裏にはそれしか浮かばなかった。

 

 

 ダリルは酔っ払いのようにふらふらと、しかし確かな足取りで、頭のないエミルと禿頭の残骸の散らばったままの、()()()()を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 マフェットはひと気のない、夜のビルの中を転がるように駆けていた。

 息を切らし、髪を振り乱したその姿はとても紳士とは呼べない。

 

 マフェットは混乱し、背後から迫ってくる鬼気に怯えきっていた。

 彼はエレベーターホールまでの道のりを永遠に感じながら、富と権力の象徴であるこの豪華なビルを呪っていた。

 

 

 エレベーターホールまで続く通路の途中で、巡回中の夜間警備員がマフェットを見つけた。

 

 夜間警備員はこのビルのオーナーであるマフェットのことは知らなかったが、そのただならぬ様子を見て慌てて駆け寄ってきた。

 

 

 マフェットは夜間警備員にずる賢い視線を向け、今自分がやってきた方向を指して即座に言った。



「不審者が侵入しているぞ!」


 

 普通の人間でも、時間稼ぎには使えると判断したマフェットは、彼をダリルへの生贄に選んだ。

 

 

 そうとは知らず、ましてや相手が薬物(パンドラ)でおかしくなっているとも知らされず、夜間警備員はホルスターから銃を抜いて、マフェットが指した方向へ小走りに駆けていった。

 

 

 マフェットは深呼吸をすると、彼の最後の頼みの綱であるレッドの姿を探し求めた。

 

 レッド。

 ()()()()()()は、逸早く危険を察知して主人のマフェットを放り出して、ひとりで逃げ出してしまったのだ。

 

 次はもっと主人に忠実な超能力者ものを造らなくては、とマフェットはレッドを忌々しく感じていた。

 

 

 レッドはエレベーターホールにいた。

 

 ボタンをいくら押しても、一向に上がってくる気配のないエレベーターのドアに縋り付き、べそをかきながらドアを両手でどんどん叩いていた。

 

 完全に恐慌パニック状態で、マフェットが近づいたのにも気がつかなかった。


 

「レッド!」


 

 マフェットの声にレッドがびくっと振り向いた。

 今の彼は超能力者ではなく、ただの怯えた子供に過ぎなかった。

 

 マフェットは落胆を隠しきれず、しかしそれでも笑顔を浮かべ、震えるレッドの前に跪いた。

 

 その肩に手を置き、顔を覗き込むようにして優しく語りかけた。


 

「一体どうしたのだ? あの刑事は『パンドラ』でおかしくなっているだけだろう?」


 

「ち、ちがうよっ!」


 

 レッドは涙でくしゃくしゃの顔で叫んだ。


 

「あのひとはぼくと同じ超能力者、ううん、ぼくらのような出来損ないとは違う」


 

 レッドは次第に落ち着きを取り戻していった。

 身体の震えが止まり、その瞳に羨望の影が過った。

 

 レッドは静かにマフェットを見据えた。主人とその子供という関係は崩れて、今は影も形もない。

 

 彼は口を歪めてマフェットに言った。


 

「もう誰もあのひとを止められない。今まで他人に見せていた地獄を今度は()()()自身が見るんだ」



 今度はマフェットを馬鹿にするように笑った。


 

「あははは。あんたは、あのひとが長いこと封じていたものを解放したんだよ。あのひとが、あんたがずっと望んでいた『完全体』だよ」

 

 

 マフェットはレッドの口調よりも、その内容に衝撃を受けた。

 

 


 ごく普通の人間の中にも稀にだが、潜在的な超能力の因子を持つものが存在する。

 休眠状態のそれは、何か強いきっかけがない限り、一生目覚めることはない。

 

 マフェットはそのきっかけを二つも与えてしまった。

 

 すなわち、生命の危機。

 もうひとつは潜在能力を解放する強力な麻薬である『パンドラ』だ。

 

 しかも今回使った新しい『パンドラ』には、ホワイトウッドが隠し持っていた『完全体』の血液サンプルが混ざっている。

 

 

 あの刑事が、彼が憧れ望み続けていた『完全体』だと言うのか。


 マフェットの心の中に、歓喜と恐怖が交錯した。

 かつて彼が憧れ魅せられた完全体は、今や彼の恐るべき敵だった。

 

 

 マフェットはすっと立ち上がり、レッドを冷たく見下ろして言った。


 

「そうだとしても、お前はあれと対決しなくてはならん。あれを倒してお前が本物になるんだ。そうでなければお前の存在する意味はない」


 

 マフェットはポケットから赤い針付きチューブを取り出し、レッドに突きつけた。

 その顔は笑顔に変わっていたが、いつもレッドに向けていた優しさは微塵も感じられなかった。


 

「心配することはない。私が生きている限りお前は()()()私の子供だ。造られたお前を人間だと認めるものなどこの世にはいない。私を守れ。それがお前の存在理由レゾンデートルなのだ」


 

 レッドは躊躇した。しかしそれはほんの数秒のことに過ぎなかった。

 

 

 マフェットの背後から足音が響いてきたからだった。

 

 

 

 

 

 

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