15
片手に圧力注射器を持ったまま、エミルはダリルの様子を冷ややかに眺めていた。
通常の使用量の数十倍の『パンドラ』を注入されれば、心臓が耐えられなくなって、そのうち弛緩した身体から、色々なものを垂れ流しながら恍惚のうちに死んでしまうだろう。
綺麗な女の最後としては、かなり悲惨なものだが仕方がない、とエミルは苦笑した。
さっきまでだらだら汗を流し、びくびく痙攣していたダリルが急に静かになった。
死んだのか?
エミルは生死を確かめようと、ダリルの正面に屈み込んだ。
ピクリとも動かない、その俯いた顔をよく見ようと前髪を掴んで持ちあげる。
その目がいきなり開かれた。
ガラス越しに成り行きを観察していたマフェットだったが、自分の隣にいるレッドの様子がおかしくなったのに気がついた。
レッドは目を見開き、がたがたと震えだしたのだ。
「どうした? レッド」
レッドはマフェットの差し伸べた手を払いのけるようにして、悲鳴をあげて部屋から飛び出してしまった。
マフェットは今まで見たことのない、レッドの行動に唖然とした。
その時ぱん、と乾いた音が背後のガラス越しに聞こえて、マフェットは振り返った。
ダリルがいつのまにか、縛り付けられていた椅子から立ち上がっていた。両手首には、鎖の千切れた手錠がブレスレットのように光っている。
その正面でエミルががっくり膝をついて俯 いた。
とっさに何が起こったのか理解できなかったマフェットは、そのまま部屋の様子を観察し続けた。
膝をついて俯いていたエミルが、ゆっくりと仰向けに倒れた。
びしゃりと音がした。頭部がはぜ割れている。
エミルは俯いていたのではなく、頭の上半分がなくなっていたのだ。
その光景をスローモーションのように感じながら、マフェットはその場から一歩も動けなかった。
マフェットは恐怖に足が竦んでいた。
それはガラスの向こうの禿頭も同じことだった。
マフェットは震えながらも、縺れる足で辛うじて部屋を逃げ出すことに成功した。
禿頭は恐怖に引きつりながら銃口をダリルに向けた。
ダリルは夢を見ていた。
濃い霧だった。
数メートル先も見えないほどの霧の海の中に、ダリルは立っていた。
どこからか泣き声が聞こえる。
ダリルは声のするほうに歩いて行った。
そこにはいたのは赤い服を着た小さな少女で、同じく小さな手で顔を覆って泣いている。
ダリルは少女に近づこうとして思わず立ち竦んだ。
少女が来ているのが赤い服ではないことに気づいたからだった。赤いのは服だけではなく、顔を隠している手や、スカートから覗いている足も、身体中が赤く染まっているのだった。
血だ。
どこか怪我でもしているのか?
いや。
ダリルが目を凝らすと、少女の足元に、何か奇妙な形の物が無数に転がっているのが見えた。
その奇妙な物の正体がわかって、ダリルは背筋が凍りついた。
人の、人間の死体だった。
身体があらぬ方向に捻じ曲がったもの。
手や足だけのもの。
頭のないもの。
元は人間だったもの、あるいはそれら人間の部品が、鮮血に塗れて、泣き続ける少女の足元に転がっているのだ。
ダリルが言葉を失って立ち竦んでいると、遠くから人の声が聞こえてきた。
数人の人影が確認できた。
「早く見つけだして処分するんだ! ここから出してはいかん」
顔は判別できないが、白衣の男が叫んでいる。
処分? 処分ってなんだ?
ダリルは誰に問いかけるでもなく叫んだ。
だが影たちはダリルの存在を無視して、白衣の男の言葉に呼応するように叫んでいる。
「殺せ! 構わん、あれは人間じゃないんだ!」
「捕まえろ」
「切り刻んで標本にしろ」
「殺せ!」
今まで泣き続けていた少女が急に顔を上げた。
「いやっ! わたしは人間よ。誰にも自由になんかさせない!!」
涙の跡もそのまま、血まみれで怒りに震えながら、鮮やかな翠の瞳で影たちを睨みつけた。
ふと、ダリルの間近で聞き慣れた金属音が響いた。
音のした方向にゆっくり振り向くと、男が銃を構えダリルに狙いをつけている。
ダリルの、霧のかかったような目の焦点が合うと、男は風船が爆るように辺りに赤黒く弾け飛んだ。
まだ夢の続きなのか。
ダリルは足元、いや部屋中に散らばっている人間の残骸をぼんやり眺めながら、『パンドラ』の抜け切らない重い頭で考えた。
そういえば。
マフェットの姿が見当たらない。
あいつ、あの男を探し出さなければ。
ダリルの脳裏にはそれしか浮かばなかった。
ダリルは酔っ払いのようにふらふらと、しかし確かな足取りで、頭のないエミルと禿頭の残骸の散らばったままの、赤い部屋を後にした。
マフェットはひと気のない、夜のビルの中を転がるように駆けていた。
息を切らし、髪を振り乱したその姿はとても紳士とは呼べない。
マフェットは混乱し、背後から迫ってくる鬼気に怯えきっていた。
彼はエレベーターホールまでの道のりを永遠に感じながら、富と権力の象徴であるこの豪華なビルを呪っていた。
エレベーターホールまで続く通路の途中で、巡回中の夜間警備員がマフェットを見つけた。
夜間警備員はこのビルのオーナーであるマフェットのことは知らなかったが、そのただならぬ様子を見て慌てて駆け寄ってきた。
マフェットは夜間警備員にずる賢い視線を向け、今自分がやってきた方向を指して即座に言った。
「不審者が侵入しているぞ!」
普通の人間でも、時間稼ぎには使えると判断したマフェットは、彼をダリルへの生贄に選んだ。
そうとは知らず、ましてや相手が薬物でおかしくなっているとも知らされず、夜間警備員はホルスターから銃を抜いて、マフェットが指した方向へ小走りに駆けていった。
マフェットは深呼吸をすると、彼の最後の頼みの綱であるレッドの姿を探し求めた。
レッド。
彼の超能力者は、逸早く危険を察知して主人のマフェットを放り出して、ひとりで逃げ出してしまったのだ。
次はもっと主人に忠実な超能力者を造らなくては、とマフェットはレッドを忌々しく感じていた。
レッドはエレベーターホールにいた。
ボタンをいくら押しても、一向に上がってくる気配のないエレベーターのドアに縋り付き、べそをかきながらドアを両手でどんどん叩いていた。
完全に恐慌状態で、マフェットが近づいたのにも気がつかなかった。
「レッド!」
マフェットの声にレッドがびくっと振り向いた。
今の彼は超能力者ではなく、ただの怯えた子供に過ぎなかった。
マフェットは落胆を隠しきれず、しかしそれでも笑顔を浮かべ、震えるレッドの前に跪いた。
その肩に手を置き、顔を覗き込むようにして優しく語りかけた。
「一体どうしたのだ? あの刑事は『パンドラ』でおかしくなっているだけだろう?」
「ち、ちがうよっ!」
レッドは涙でくしゃくしゃの顔で叫んだ。
「あのひとはぼくと同じ超能力者、ううん、ぼくらのような出来損ないとは違う」
レッドは次第に落ち着きを取り戻していった。
身体の震えが止まり、その瞳に羨望の影が過った。
レッドは静かにマフェットを見据えた。主人とその子供という関係は崩れて、今は影も形もない。
彼は口を歪めてマフェットに言った。
「もう誰もあのひとを止められない。今まで他人に見せていた地獄を今度はあんた自身が見るんだ」
今度はマフェットを馬鹿にするように笑った。
「あははは。あんたは、あのひとが長いこと封じていたものを解放したんだよ。あのひとが、あんたがずっと望んでいた『完全体』だよ」
マフェットはレッドの口調よりも、その内容に衝撃を受けた。
ごく普通の人間の中にも稀にだが、潜在的な超能力の因子を持つものが存在する。
休眠状態のそれは、何か強いきっかけがない限り、一生目覚めることはない。
マフェットはそのきっかけを二つも与えてしまった。
すなわち、生命の危機。
もうひとつは潜在能力を解放する強力な麻薬である『パンドラ』だ。
しかも今回使った新しい『パンドラ』には、ホワイトウッドが隠し持っていた『完全体』の血液サンプルが混ざっている。
あの刑事が、彼が憧れ望み続けていた『完全体』だと言うのか。
マフェットの心の中に、歓喜と恐怖が交錯した。
かつて彼が憧れ魅せられた完全体は、今や彼の恐るべき敵だった。
マフェットはすっと立ち上がり、レッドを冷たく見下ろして言った。
「そうだとしても、お前はあれと対決しなくてはならん。あれを倒してお前が本物になるんだ。そうでなければお前の存在する意味はない」
マフェットはポケットから赤い針付きチューブを取り出し、レッドに突きつけた。
その顔は笑顔に変わっていたが、いつもレッドに向けていた優しさは微塵も感じられなかった。
「心配することはない。私が生きている限りお前は大事な私の子供だ。造られたお前を人間だと認めるものなどこの世にはいない。私を守れ。それがお前の存在理由なのだ」
レッドは躊躇した。しかしそれはほんの数秒のことに過ぎなかった。
マフェットの背後から足音が響いてきたからだった。