14
窓ひとつない、真っ白い壁の殺風景な部屋だった。
ネオ・デトロイトで一番豪華なビルだという評判の建物に似つかわしくないほど、調度品も何もなかった。
あるのは質素なテーブルと椅子だけ。
ダリルはその椅子に座っていたが、両手は後ろ手に縛られていた。
おまけに後頭部がずきずきしている。禿頭が力任せに殴りつけたせいだった。
ダリルがいる部屋はガラスで区切られ、向こう側にもうひとつの部屋が設けられている。そこにいるマフェットとレッドが、ガラス越しにダリルをじっと見つめていた。
縛られたダリルのそばには、禿頭とエミルと呼ばれていた痩せた男が立っていた。
ダリルはエミルをじっと見つめた。
マフェットのリムジンの運転席にいた男だが、それより以前にどこかで会っている、と彼女は自分の記憶を探っていた。
その視線に気づいたエミルはダリルの顔を覗き込んだ。
「まだ気がつかないのか?」
エミルはにやにやしながら、上着の内ポケットからサングラスを取り出し、ダリルの目の前で掛けて見せた。
「あんたの相棒を殺ったみたいに、この手で殺れないのが残念だな」
何故気づかなかったのか、以前に会ったどころではない。忘れもしない忘れることなどできない、トーマス・ヘンドリュースを肉塊に変えた男。
ダリルは怒りのあまり声も出せずにいたが、その胸の内はその燃えるような瞳に充分現れていた。
「さあエミル。刑事さんがせっかく目を覚ましたんだ、遊んでないで例のものを取ってくるんだ」
マフェットがガラスの向こうから促した。
エミルは再びサングラスをボケットにしまうと、くるりと踵を返して部屋から出て行った。
ダリルはその後ろ姿を貫く勢いで睨みつけたが、ただそれだけだ。
ダリルが憤死する前にエミルは帰ってきた。
エミルは銀のアタッシュケースをテーブルの上に置き、その蓋を開けた。中にはガラスのバイアルが入っていた。
その中に詰まっているのは、病院で見る透明の薬液ではなく、淡い緑色の液体だった。
エミルはアタッシュケースの中に一緒に収められていた圧力注射器を取り出すと、それに緑のバイアルをセットした。
マフェットは満足げにその作業を見守りながら、ガラスの仕切り越しにダリルに話しかけた。
「今度の新しい『パンドラ』は、実験途中で死亡した超能力者の脊髄液から精製したものでね。せっかく大金をかけて造った超能力者だから、死んだからといって無駄にはできない。再利用だよ」
マフェットは吝嗇な金満家のような台詞を吐いた。使えなくなった屍体を新しく生き返らせたのだと、自慢げに語っている。
「もし君がその薬に耐えきれたら、後で感想を聞かせてくれたまえ」
そう言って嬉しそうに笑った。
「ひとつ質問していいか?」
ダリルは覚悟を決めて言った。
「あんたはなんでそんなに人造の超能力者に固執するんだ?」
何故?
ダリルの問いかけにマフェットは考えた。
それは『あれ』を見たからだ。
「勇敢な刑事さんに特別にはお話ししましょう」
いわゆる『冥土の土産』というやつだ。
マフェットはくすりと笑った。
「私は子供のころは科学者になりたくてね。まあ人には向き不向きというものがある。私は科学者になる才能はなかったようだが、金儲けや人心掌握の才能はあったようでね。そのお陰で若輩ではあったが、政府の極秘プロジェクトに資金援助のかたちで参加できることになった。その時の喜びは君にはわかるまい」
マフェットはそう言って、当時の思い出を噛みしめるように目を閉じた。
実験体はことごとく死に、それでも彼は何年も待った。
そして『あれ』が生まれた。
「その時に見た『完全体』が忘れられなくてね」
小さな卵子が分裂し、やがて胎芽になり胎児になる。今までの失敗作が外界に弱いのを見越して、新生児期を過ぎ肉体が人として安定するまで、安全な培養液の中で過ごす。
そして培養液の中でゆっくり目を開けた『完全体』。
その翠の瞳を見ただけで、それが唯一無二の存在だとマフェットには確信できたのだ。
「あれと目があった時のことは今でも忘れられない」
マフェットは恋する男のように恍惚の表情で語っている。
「それなのに政府はプロジェクトを廃棄すると言った。私は反対したが、その矢先にプロジェクトどころか全てが消えてなくなってしまった。私は本当にがっかりしたがどうしても諦められなかった。何とかもう一度この手で、政府や財団がやり遂げられなかったことをやりたかった。あの『完全体』にもう一度会いたかった」
ここにいるのは、狂った科学者でも世界征服を企む大金持ちでもなかった。
『完全体』への初恋を拗らせた、ただの中年の男だった。
ダリルは反吐が出る思いだった。
「そんな時に、難を逃れていたホワイトウッドが財団から盗み出していたノウハウを持参して、私に金の無心にきたのだよ」
マフェットの口から『ホワイトウッド』の名前が飛び出した。
ダリルが聞きたかった部分に話が及んだが、彼女は口を挟まず、ぺらぺらと饒舌に語るマフェットに、語らせたいだけ語らせることにした。
「ホワイトウッドはね、プロジェクトの副産物だった、現在『パンドラ』と呼ばれているものの中毒になり解雇されたのだ。その逆恨みでノウハウを盗み出して、財団から金をせしめるつもりだったようだ。そこにあの消失事件が起こった」
当てが外れたホワイトウッドだが、数少ないプロジェクトの生き残りのひとりが新しい研究所を立ち上げ、科学者を募集していると知りのマフェットの下に現れたのだ。
「私は内心大喜びで、彼から高い金でそれを買ったんだが、味を占めたホワイトウッドは、いつまでも厚かましく金をせびったよ」
「それで強盗に見せかけて殺したのか」
堪らずダリルが口を挟んだが、マフェットは肩を竦めただけだった。
「私が実験に使った最初の子供は男の子だった。しかしどういうわけか、皆四、五歳ほどで身体の成長が止まってしまう。しかもおつむの方が弱くて殺しの才能ばかり伸びてしまう。その点、レッドは比較的理性的だ」
マフェットはそう言ってレッドの頭を撫でた。
「今度は彼を使って、より完成された超能力者を造り出すことができる。まあ、完全体造りに固執したお陰で『パンドラ』という、いい資金源ができたことだし、これから私の会社はどんどん大きくなれる」
「さすが実業家、金を稼ぐことの方が大事そうだな。そこの餓鬼もいつか死んだら葬いもされず再利用か? なんとも地球にお優しいことだな」
マフェットはダリルの皮肉は無視して、手揉みしそうな雰囲気で嬉しそうに言った。
「さあ、お喋りはこれくらいにして、臨床試験に取りかかりましょうか」
マフェットの合図とともにエミルが注射器を持ってダリルに近づいていった。
「命乞いはしないのか? 泣いてもいいぞ?」
包帯だらけの禿頭が顔を歪めてダリルに声をかけた。
「なんでお前らを喜ばせなきゃいけないんだ。馬鹿じゃないのか?」
禿頭が拳を振り上げた。
がつんと右頬に衝撃が来て、ダリルの口に中に血の味が広がる。
彼女は殴られた礼を言う代わりに、その拳の主の靴目がけてぺっと口内の血を吐きかけた。
「このアマ・・・!」
靴をダリルの血で染められた禿頭が激昂した。
彼がもう一度拳を振り上げた時、再びマフェットから声がかかった。
「何を遊んでいる! 早くやらないか」
「だとさ」
ダリルは苦笑した。
新しい『パンドラ』の効果がどんなものかは知らないが、潜在能力を引き出すというなら、耐え切ってせめて死ぬまで暴れまわってやる。
これが最後というのはなんとも締まらない話だが、それもまた自分らしいとダリルは考えていた。
圧力注射器が首筋に当てられプシュッという空気音と共に、バイアルの全量の『パンドラ』がダリルに注入された。
多量の異物のために心臓の鼓動が早くなり、大量の発汗と共に身体が痙攣する。と同時に、猛烈な頭痛と吐き気が襲ってくる。
ダリルは必死に耐えた。
身体が異様に冷たく感じられ、意識に靄がかかってくる。
理性が一枚一枚、かさぶたのように剥がれていく。頭の中で危険信号が点滅していた。
意識の奥の何かが、がりがりと蓋をこじ開けて出てこようとしている。
消えそうな最期の理性が、それを外に出さないように必死で蓋を抑え込もうとしていた。
やがて『パンドラ』が血流に乗って全身に行き渡ったところで、ダリルの最期の理性が弾け飛んだ。
蓋が、ゆっくりと開いた。