10
降りてきたのはネイサンだった。
彼はすれ違う制服警官たちの挨拶も無視して、無言のまま足早に特暴のオフィスに向かっていった。
オフィスに着くなり、ネイサンはまだタイプライターと格闘している、相棒のルースに向かって言った。
「ダリルはどこだ?」
荒い息で問いかけるネイサンを振り仰いだルースは、相棒のただならぬ雰囲気に息を呑んだ。ネイサンは額に汗を掻き、目が血走っている。
「今しがたまでここにいたが、爺さんの話を聞いて急いで家へ帰ったぞ」
ルースの言葉にネイサンは目を見開いた。
「喋ったのか? ダリルに? ホワイトウッドが医療開発研究所に居たことを」
「? 別に構わないだろ? おかしな奴だな」
ルースは訝しんでネイサンに尋ねたが、彼は心ここにあらずで、何かぶつぶつ呟いている。
「どうしたんだネイサン、なんか様子が変だぞ? それにどこ行ってたんだよ。報告書が溜まってんだぞ、お前も少しは」
ネイサンはいきなり銃を取り出すと、何も言わずに目の前のルース目掛けて何発も撃ち込んだ。ルースは片手にハンバーガーを握りしめたまま、仰向けに椅子から転げ落ち、そのまま何も言わなくなった。
「お喋りが。前からこうしてやりたかったんだ」
相棒だったルースの死体を見下ろすネイサンの、その瞳に宿る光は尋常なものではなかった。
ネイサンはくるりと踵を返すと、何事もなかったように無人になったオフィスを出ていった。
ダリルはアパートメントの部屋に戻ると、辺りに服を脱ぎ散らかしながらバスルームへ直行した。
彼女の住まいは、中央署から三十分ほどの、ネオ・デトロイトの中心街から少し離れた、住宅街の中にあった。
辺りは皆どれも同じような建物ばかりで、シティの平均的な市民の生活の場となっていた。
部屋は若い女性の部屋にしては随分と殺風景で、装飾的なものは何もなかった。
2LDKと決して広くはなかったが、一日の殆どを外回りの仕事で費やしているダリルには、これでも充分すぎるくらいだった。
中央署にも造り付けの立派なシャワールームがあったが、ダリルがそこを利用したのは数えるほどしかない。
彼女がそこを利用すると、必ずと言っていいほど『間違った振り』をして、覗きにくる男たちが出てくるからだ。その度に、必ずダリルに痛い目に合わされるのだが、それでも覗きが後を絶たず、対応に辟易とした彼女は、そこを利用するのを諦めなければならなかった。
その時のことを思い出し、なおかつあちこち痛む身体に顔を顰めながら、ダリルはシャワーカーテンを引いた。
ダリルがバスルームに消えてから、少しして玄関ドアがゆっくりと開いた。侵入者は音を立てないように細心の注意を払いながら、後ろ手にドアを閉め、鍵をかけた。
侵入者はパーティー用のゴムマスクを被っていた。黒ずくめのその男の手には、消音器付きの銃が握られていた。
男は部屋を見渡して、やがて微かな水音を聞きつけ、足音を忍ばせてバスルームへ近づき、そっとドアを開けた。
バスルームには湯気が立ち込め、視界がはっきりしない。しかしその湯気の向こうのシャワーカーテン越しに、絶え間なく水音が聞こえている。
男は銃を構え、シャワーカーテンとその向こうの人間に向けて、何発か撃ち込んだ。そして無言のまま歩み寄り、確認のためシャワーカーテンを引き開けた。
だが、そこには男の期待していたものは転がっておらず、狼狽して振り向きかけた男の後頭部に、ごりんと硬いものが押し付けられた。
「新手の覗きか? それにしちゃあ、武器持参とはまたご大層な」
男は振り向こうとしたが、後頭部の物が一層強く押し付けられ、それを許さなかった。
男が観念して両手をあげると、背後から細い腕が伸びてきて、男の銃を取り上げた。
からん、と音がしてなにかがバスルームのタイルの上に投げ出された。
それは、柄のついたボディーブラシだった。
「ブラシじゃさすがにたんこぶくらいしか作れないからな」
ダリルは笑った。
「おっと、お前の銃は本物だろ?」
男は今度こそ本当に銃を後頭部に突きつけられた。
丸腰なことを見越してバスルームを襲った男だったが、ブラシの先と銃口を間違えた、自分自身の間抜けさを呪うことになった。
ダリルはバスローブを一枚羽織ったままの姿で、男をバスルームからリビングへと急き立てながら、質問を浴びせかけた。
「誰に頼まれた? それにどうやって入った? 鍵はかかってた筈だ」
そう言ってから、ダリルは薄明かりの中、男をじっと見つめた。顔はマスクでよくわからないが、目の前の男には確かに見覚えがあったのだ。
「お前、」
ダリルは男のマスクに手をかけた。
マスクを引き剥がすと、その下から現れた顔はダリルがよく知っているものだった。
「ネイサン・・・!」
正体がバレても大して動揺した風もなく、にやにや笑っている。明らかに様子が変だった。
「お前にうろちょろされるのが気に入らないんだとさ」
「・・・マフェットだな? 奴に頼まれたんだな」
ネイサンは笑顔を絶やさず肩を竦めてみせた。
「ミスターは良くしてくれるし、これはサイドビジネスのおまけだよ」
ネイサンは何が可笑しいのか、さっきからにやにやしたままで、聞きもしないことまでぺらぺら饒舌に話し始めた。
「サイドビジネスは、そうだな簡単な新薬の取引だよ。警官の給料なんてたかが知れてるからな。捌けば捌いた分だけ懐が潤うんだ」
「パンドラか。そりゃいいだろうさ、自分にも使えるしな」
ネイサンの様子がおかしいのは、どうやらパンドラを使用しているせいらしい。
ダリルは静かな怒りを込めて、吐き捨てるように言った。
「このゲス野郎」
その言葉にネイサンの顔から笑みが消えた。
「お前も前から気に食わなかった。小娘のくせにいつも俺をコケにして」
「お前も?」
「お喋りルースは一足先にあの世行きだ」
にやりとしながらゆっくりとダリルに近づいていく。
「よせ、撃つぞ」
ダリルは後退しながらネイサンに警告した。
しかし、ネイサンはその歩みを止めるつもりはないらしい。
ダリルは躊躇なく発砲した。
一発二発と弾を撃ち込まれるたびに、その勢いでネイサンの身体は後ろに傾ぐが、少しも堪えている様子はなかった。
ネイサンは笑いながらダリルに飛びかかると、物凄い力でぐいぐい頸を締め付けてきた。
ダリルは霞む目でネイサンの口を探し当て、震える手でその口に銃口を捩じ込んだ。
破れかぶれか、パンドラのせいで正常な判断力をうしなっているのか、ネイサンは口に捻じ込まれた銃口を気にもかけず、笑いながらも頸を締める手を緩めない。
ダリルは引き金を引いた。
後頭部から鉛の弾と自身の中身を吐き出したネイサンは、やっとダリルから手を離した。
よろよろ後退して、リビングのガラス窓に体当たりする格好になるとそのまま窓をぶち破り、割れたガラス片と一緒に十五階から真っ逆さまに落ちていった。
ダリルは頸を摩り、咳き込みながら窓際に近寄り下を覗き込んだ。
地面にはネイサンだったものが、壊れたマネキンのように横たわっていた。