プロローグ 化け物の襲来
聞き慣れたチャイムが校舎中に鳴り渡る。
それは4限目の授業の終了と、昼休みの開始を告げるものだった。
化学の羽賀先生が教室から出ていったことを確認した俺は、今の授業で使っていた教科書やノートをバッグの中に突っ込んだ。
そして消しかすを床に落とした後、机の上に弁当を広げる。つまらない学校生活での唯一の楽しみだ。
ちなみに俺は料理人志望なので、練習も兼ねて弁当は自分で作っている。
まあ、高校に入ってから始めたことなので、まだ1年とちょっとしか練習は積めていないが。
だがそれでも、初めて料理したときよりも格段に腕は上がっている……と信じたい。
というのも、毎日のように自分の弁当を食べているが故に、味つけなどの上達具合がイマイチ把握できていないのだ。
「今度、妹にでも食べさせてみるかぁ……」
窓際の一番後ろの席で小声で呟いて、卵焼きを口へと運ぶ。保冷剤のせいでキンキンに冷えてしまっているのが残念だ。
さて、唐突だが俺のランチタイムは思いもよらぬ出来事によって終わりを告げることになる。
卵焼きを咀嚼して飲み込んだ刹那、廊下から騒がしい声が聞こえてきたのだ。
「きゃあぁぁ!!」
「お、おい、俺の由佳を放せ!!」
別に弁当を食べ続けていてもよかったが、やっぱり気になってしまうのが人間というもので。
気づけば俺は他の生徒たち同様、席を立って廊下に飛び出していた。
そこにいたのは、クラスメートの佐藤由佳と大桑司だった。
風の噂に聞いた話だが、2人は付き合っているらしい。キャピキャピした女子と猿みたいな野球部男子とで、お似合いのカップルだろう。
……また棘のあることを考えてしまった。俺の悪癖だな。
それに、今はそんなことはどうでもいい。
その佐藤が捕まっているのだ。
……得体の知れない化け物に。
そいつはかろうじて人の形はしているが、全身は粘液のようなものに覆われ、身体のいたるところから大小様々な触手が生えている。この世の者とは思えない容姿をしており、まさに"化け物"と呼ぶにふさわしいだろう。
「司くん、助けて……!」
半泣きで訴える佐藤。そんな彼女に対して大桑は、
「ああ! す、すぐに助ける!」
カッコいいことを言っているが、若干足が震えている。
だが、それは俺も同じだ。
「おい、なんなんだよコイツ!?」
「気持ち悪りぃ……」
「大桑、何があったんだよ!?」
「俺だってわからねぇよ! 急にコイツが……」
他のクラスメートたちもその異常な光景に戦慄しているようだった。
「大桑、これを使え!」
「すまん、助かる!」
1人の男子が、大桑に箒を手渡す。
教室の後ろの掃除ロッカーから持ち出した物だろう。
それを見た他の男子たちも、何かを決心したかのように箒を手に取り出した。
「オレらも手伝うぞ、大桑!」
「一人でカッコつけてんじゃねーよ!」
「お、お前ら……。ありがとう……」
5、6人の男子たちが箒で化け物たちを叩いたりつついたりし始めた。
……俺も加勢するべきなのか?
捕らえられているのがクラスメートだとは言っても、ほとんど関わりの無かった陽キャ女子だ。
ここは彼氏の大桑が彼女を助け出すのが一番なんじゃないか?
……いや、ここで何もせずに眺めているだけならば、俺はとんだ下衆野郎だったってことだな。
……化け物と戦う覚悟を静かに済ませた俺は、掃除ロッカーの方へと振り返る。が、そこに箒はもう残っていないようだった。
だとしたら、俺にできることはただ一つ。
俺は彼女の為に奮闘する野球馬鹿に向かって、
「おい、大桑! 俺が、誰か先生を呼んでくる! 佐藤さんのこと、任せたぞ!」
「河本……。わかった、頼りにしてるぜ!」
大桑の言葉を聞き終えた俺は、一つ下の階の職員室を目指して走り出す。
それにしても、『頼りにしてる』か……。
アイツからそんな言葉が出てくるとは思ってもみなかった。
ただのうるさい野球馬鹿だと思っていたが、どうやら俺はアイツのことを誤解していたようだ。
心の中で大桑に小さく謝罪し、彼からの信頼を噛み締めながら階段を駆け下りる。
幸いにも、階段を下りたすぐそこが職員室だ。
扉の前に立った俺は、一度深呼吸をしてから軽くノックをして、
「失礼します、2年4組の河本涼でs…なっ……!」
部屋の中から突如として俺の顔面めがけて飛んできた何かを、紙一重で身体を横に反らして回避する。
すぐに後ろを振り返って、床に付着したそれを確認する。
……粘液か?
視線を前に戻すと、そんな疑念に対する答えがそこにはいた。
あの化け物だ。佐藤を捕らえているヤツと比べて触手の生え具合などに違いはあるが、どう見てもヤツの仲間だろう。
そして、俺は今軽く絶望している。予期せぬところで化け物と出くわしたというのもあるが、それだけではない。
身体を横に反らしたときに職員室の中がチラリと見えたのだが、そこに先生の姿は一つとしてなかったのだ。……見間違いでなければ、この化け物たちで溢れかえっていた。
どういうことだ? 先生たちはどこに消えちまったってんだ!
理解できない状況を理解するために脳をフル回転させつつ、職員室から距離を取る。
しかし、そんな俺の存在に気づいた化け物たちがどんどん職員室から出てきてしまった。
触手に絡めとられて粘液まみれにされることを悟ったそのとき、
「河本君、大丈夫かー!」
声がした方に視線をやると、こちらに向かって走ってくる黒スーツ黒ネクタイの男性を確認できた。
透き通るようなイケボと、整った顔立ち。
間違いない、化学の羽賀先生だ。
「ここは危険だ、上に逃げるぞ!」
「でも、下に逃げた方が外に出られるんじゃ……」
このとき河本が、佐藤や大桑たちのことを忘れて下に逃げようと提案したことを責めることは出来ないだろう。彼は大量の化け物を目の当たりにして冷静さを失っていたのだから。
「いや、自販機にコーヒーを買いに下の階に行っていたんだが、もうヤツらで溢れかえっていたよ……」
そして河本はここでようやく当初の目的を思い出したのであった。
「そうだ、羽賀先生! 上に俺のクラスメートたちが……!」
「なら、尚のこと上に行くべきだな!」
「はい!」
羽賀先生と、さっき下りてきた階段を駆け上り、大桑たちのところへと足を急がせる。
「大桑ー! 無事かー!」
遠くから大桑に声をかけるが、なんだか様子がおかしい。
それに、大桑と共に戦っていた男子たちの姿も見えないばかりか、化け物の数が増えているではないか。
「大桑君、何があったんだい?」
「みんな……教室に篭っていたクラスメートも! 俺の友達たちも! そして由佳も! みんな化け物にされちまった……!」
羽賀先生の問いに対してそんなことを答える大桑に、俺は耳を疑った。
化け物にされた? どういう意味だ?
……いや、消えたクラスメートに、増えた化け物。脳ではとても簡単な答えが出ている。そう、つまりはそのままの意味だろう。
だが、そんなの信じられない。信じたくない。
「……粘液をかけられたヤツらが急に無言になったと思ったら、しばらくして化け物になっちまったんだ。それが連鎖していって、今じゃこの階のほとんどのヤツが化け物になってると思う」
こみ上げる感情を抑えるように話す大桑。
「……河本君、大桑君。この階も危険ということがわかったのなら長居する必要はない。屋上まで走れるかい?」
「え? ……はい!」
「……………………はい」
友人や恋人を失ったショックが大きいのだろう、いつもうるさいぐらい元気な大桑がとても虚ろな目をしている。
もちろん、俺もかなり精神的に来ている。
しかし、今は生き延びることが最優先だ。羽賀先生を信じて屋上まで走るしかない。
「よし、2人ともいくぞ!」
羽賀先生のその掛け声を合図に、俺たち3人は走り出した。
今日はなんだか走ってばかりだが、文句など言ってはいられない。
屋上に出るまでは、化け物の姿をほぼ見ることなくスムーズに逃げてくることができた。
これでとりあえずは一安心……なのだろうか?
「ああ……由佳ぁ……」
彼女の名前を呟きながら、頭を抱えて蹲ってしまう大桑。
励ましてあげたいところだが、俺にもそこまでの心の余裕はなかった。それは羽賀先生も同じようで、皆が無言の気まずい空気が流れはじめた。
そんな重い空気を断ち切るかのように。……いや、さらに重くするように。
しっかりと閉めたはずの扉が吹き飛んだのだ。
「チッ、案外早かったな……」
「由佳……みんな……」
ワラワラと屋上に侵入してくる化け物たち。
触手攻撃や粘液を食らわないように化け物との距離をとるが、徐々に屋上の隅へと追いやられていく。
焦燥に駆られた俺は、もはや羽賀先生を頼ることしかできなくなっていた。
「せ、先生、一体どうすれば……」
「……この手はできれば使いたくなかったのだが、仕方がない。河本君、大桑君、私が合図をしたらここから飛び降りるんだ」
俺は俺の耳を疑った。
この先生は今、飛び降りろと言ったのか?
つまりは死を覚悟しろと?
「大丈夫だ。死なせはしない」
ここまで言うからには、羽賀先生には何か策があるんだろうか?
もう、言われた通りに飛び降りるしかないのか?
17年しか生きていない俺には、即決することなどできるはずもなかった。
しかしそのとき、状況が動いた。
「あぁ……由佳……由佳由佳由佳由佳ぁぁああ!!!」
「お、おい、大桑!?」
突如として、大桑が化け物の大群に突っ込んでいったのだ。
「よくも、よくも由佳を!! お前ら全員ブッ殺してやる!! 死ね、死ねぇぇえええ!!!」
発狂しながら闇雲に殴りかかっているが、ほとんど効果があるようには見えない。
そればかりか、その大桑に化け物たちが群がりだしてしまった。
「……河本君。大桑君のことはもう…諦めてくれ。すまない……」
「……はい」
「だが、彼のおかげでヤツらの注意は今、私たちには向いていない。つまりは飛び降りるなら今がチャンスということだ。無茶苦茶なことを言っているのは重々承知している。だが頼む、私を信じてほしい」
『信じてほしい』……か。
羽賀先生の言葉を聞いてふと思い出したのは『頼りにしてる』という大桑の言葉だった。
あのとき、大桑は俺を信じてくれたのだろう。
だから、『頼りにしてる』なんて台詞を俺に言えたんだ。
……今度は俺が誰かを信じる番だ。
「先生、俺、飛びます」
「……! ……こんなことに巻き込んでしまって本当にすまない」
羽賀先生は一言だけそう言うと。
「河本君、今だ!」
「はい!!」
俺は屋上から身を投げた。
地面が見えると怖かったから、後ろに倒れこむように。
一拍遅れて羽賀先生も飛びだした。
その手には拳銃のようなものを持っていた。
今、こんな瞬間まで聞こえてくる大桑の絶叫。
銃口を俺へと向ける先生。
すまない、大桑。そしてありがとう……。
羽賀博光によってその引き金は引かれ、紫色に煌めく弾丸は河本涼の胸を貫いたのだった。