表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/10

 

 鏡の前に立つ時、心の中で雨希ちゃんに挨拶をする。

 私らしさなんて欠片も映していない姿見に向かって、おはようと呟く。

 いつもは、眠そうな顔をした陰気な女が見返してくるのだが、ここ最近は少し違った。

 私がピンクを着ると色褪せた赤に見えるのに、ちゃんと鮮やかな桃色を着た女が、鏡の向こうで微笑んでいるのだ。

 心なしか機嫌が良さそう。


 似せてはいるが雨希ちゃんには見えない女を、観察しながら考える。

 格好は普段と変わらないのに、何が違うのだろう。

 分からない事があるのは気持ち悪いのに、気付けなくても良いような気がする、この感覚は何なのだろう。


 時々、勝手に口を出てしまう独り言があるけれど、今も意図せず「アキちゃん」と声に出していて、首を捻った。

 私は今、誰を呼んだのか、一瞬考えてしまったのだ。

 雨希ちゃん以外であるはずが無いのに。

 笑うと余計似なくなる。どんどん雨希ちゃんから離れてしまう。

 もう、鏡は見ない方がいいのかもしれない。



 仕事帰りに公園へ行って、アキの隣に座るようになってから、一週間が経つ。

 一日目は、電話が鳴った振りをして立ち去った。それから毎日、一定時間公園で過ごして、アキより先に帰るようにしている。

 二日目は、流行りの漫画を(勿論アキくらいの年代に人気がありそうなものを選んで)、黙々と読みふけった。

 三日目は、楽しげな音をさせながら携帯ゲームをやって、四日目は、近所の洋菓子店で買ったマドレーヌを食べた。

 五日目は、小難しそうに見える表紙のビジネス書を読んで、着信音と思わせるアラームを去り際に鳴らし、土日を迎えた。


 この一週間、私とアキは、一言も言葉を交わしていない。だが、私の目的など知る由もないアキは、隣に居座る不審人物から遠ざかろうとはしなかった。

 私の事を怪しんでいるなら、先に立ち去るか、そもそも公園へ近づこうとはしないはずだ。

 私の事は恐らく、暇を潰しに公園に来ているだけだと思っているだろう。

 バスの時間か、人との待ち合わせか、近所のスーパーのタイムセール待ちか……アキが想像する理由は、別に何でもいい。

 重要なのは、アキが私に興味を持っているという事だ。


 アキが、私の行動をちらちらと窺う時間が、段々と長くなってきている。

 私が自分の手元に集中していて、気付かれないと思ったのか、じっと視線を固定して見詰めてくる時などは、思わず口角が上がりそうになった。



 土曜日の朝は会社へ行かなかった。単に休みな訳だが、例の公園に行こうか少し迷う。

 晴一達は先週、ショッピングモールに来ていたから、仕事の休みも土日に重なっていると思われる。だがアキの土曜日の行動範囲までは確定的では無い。


 朝から晴れていた。からりと乾いた空気と熱気に、今日は薄手の上着にしようと決める。

 空は晴れても、心は晴れない。見付かりもしない雨雲を探してしまう。

 雨が恋しいと思うのは、雨希ちゃんに浸れるからだ。

 こんなに外が照っていては、別の名前を連想するからいけない。

 忌々しい。

 あの男の名前の一部を、黒で塗りつぶしてやったら、雨が降ってくれるだろうか。

 だけど、雨でなくても、アキがいなくても、どちらにせよ外に出ることには変わらない。家に居たって、何も楽しみなど無いのだから。


 取り合えず、アキが家から出てくるのを待ってみる事にした。

 どこかへ出掛けるようなら、行く先を把握しておかなければならない。

 晴一とアキが暮らす、お伽噺みたいな家の影に隠れて、太陽の光から逃げる。多少はひんやりとしなくもない、石の壁に背中を預けた。

 始めから長期戦のつもりだったから、ある程度待つつもりだけど、今日はやけに暑い。早くアキが現れてくれないかと思う。

 じりじりと肌を焦がす熱が嫌いだ。本当に、雨が降ればいいのに。

 薄手程度じゃ、何の足しにもならない。じわりと滲む額の汗が流れないように、手の甲で軽く拭う。まだ家を出たばかりなのに、早くも化粧が崩れてしまいそう。

 他に用事も無いのだけど、この晴天の中待つのは退屈で、骨が折れる……思考が鈍ってきた所で、予想に反してすぐに標的が動き出す音を拾った。

 慌てて顔を覗かせると、小さな影が一つ。アキは一人、玄関の扉を閉めるところだった。


 横顔が見えた。頬を火照らせている。暑さのせいかと思ったけれど、アキは楽しみな事でもあるかのように、にまにまと唇を擦り合わせていた。

 鍵を閉めたあと、肩から斜めに掛けた四角い鞄に手をあてて、アキは誰に見せるでも無く頷く。中身の感触を確かめていたように見えた。

 一体何を持って、どこへ行くつもりなのだろう。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ