⑧
鏡の前に立つ時、心の中で雨希ちゃんに挨拶をする。
私らしさなんて欠片も映していない姿見に向かって、おはようと呟く。
いつもは、眠そうな顔をした陰気な女が見返してくるのだが、ここ最近は少し違った。
私がピンクを着ると色褪せた赤に見えるのに、ちゃんと鮮やかな桃色を着た女が、鏡の向こうで微笑んでいるのだ。
心なしか機嫌が良さそう。
似せてはいるが雨希ちゃんには見えない女を、観察しながら考える。
格好は普段と変わらないのに、何が違うのだろう。
分からない事があるのは気持ち悪いのに、気付けなくても良いような気がする、この感覚は何なのだろう。
時々、勝手に口を出てしまう独り言があるけれど、今も意図せず「アキちゃん」と声に出していて、首を捻った。
私は今、誰を呼んだのか、一瞬考えてしまったのだ。
雨希ちゃん以外であるはずが無いのに。
笑うと余計似なくなる。どんどん雨希ちゃんから離れてしまう。
もう、鏡は見ない方がいいのかもしれない。
仕事帰りに公園へ行って、アキの隣に座るようになってから、一週間が経つ。
一日目は、電話が鳴った振りをして立ち去った。それから毎日、一定時間公園で過ごして、アキより先に帰るようにしている。
二日目は、流行りの漫画を(勿論アキくらいの年代に人気がありそうなものを選んで)、黙々と読みふけった。
三日目は、楽しげな音をさせながら携帯ゲームをやって、四日目は、近所の洋菓子店で買ったマドレーヌを食べた。
五日目は、小難しそうに見える表紙のビジネス書を読んで、着信音と思わせるアラームを去り際に鳴らし、土日を迎えた。
この一週間、私とアキは、一言も言葉を交わしていない。だが、私の目的など知る由もないアキは、隣に居座る不審人物から遠ざかろうとはしなかった。
私の事を怪しんでいるなら、先に立ち去るか、そもそも公園へ近づこうとはしないはずだ。
私の事は恐らく、暇を潰しに公園に来ているだけだと思っているだろう。
バスの時間か、人との待ち合わせか、近所のスーパーのタイムセール待ちか……アキが想像する理由は、別に何でもいい。
重要なのは、アキが私に興味を持っているという事だ。
アキが、私の行動をちらちらと窺う時間が、段々と長くなってきている。
私が自分の手元に集中していて、気付かれないと思ったのか、じっと視線を固定して見詰めてくる時などは、思わず口角が上がりそうになった。
土曜日の朝は会社へ行かなかった。単に休みな訳だが、例の公園に行こうか少し迷う。
晴一達は先週、ショッピングモールに来ていたから、仕事の休みも土日に重なっていると思われる。だがアキの土曜日の行動範囲までは確定的では無い。
朝から晴れていた。からりと乾いた空気と熱気に、今日は薄手の上着にしようと決める。
空は晴れても、心は晴れない。見付かりもしない雨雲を探してしまう。
雨が恋しいと思うのは、雨希ちゃんに浸れるからだ。
こんなに外が照っていては、別の名前を連想するからいけない。
忌々しい。
あの男の名前の一部を、黒で塗りつぶしてやったら、雨が降ってくれるだろうか。
だけど、雨でなくても、アキがいなくても、どちらにせよ外に出ることには変わらない。家に居たって、何も楽しみなど無いのだから。
取り合えず、アキが家から出てくるのを待ってみる事にした。
どこかへ出掛けるようなら、行く先を把握しておかなければならない。
晴一とアキが暮らす、お伽噺みたいな家の影に隠れて、太陽の光から逃げる。多少はひんやりとしなくもない、石の壁に背中を預けた。
始めから長期戦のつもりだったから、ある程度待つつもりだけど、今日はやけに暑い。早くアキが現れてくれないかと思う。
じりじりと肌を焦がす熱が嫌いだ。本当に、雨が降ればいいのに。
薄手程度じゃ、何の足しにもならない。じわりと滲む額の汗が流れないように、手の甲で軽く拭う。まだ家を出たばかりなのに、早くも化粧が崩れてしまいそう。
他に用事も無いのだけど、この晴天の中待つのは退屈で、骨が折れる……思考が鈍ってきた所で、予想に反してすぐに標的が動き出す音を拾った。
慌てて顔を覗かせると、小さな影が一つ。アキは一人、玄関の扉を閉めるところだった。
横顔が見えた。頬を火照らせている。暑さのせいかと思ったけれど、アキは楽しみな事でもあるかのように、にまにまと唇を擦り合わせていた。
鍵を閉めたあと、肩から斜めに掛けた四角い鞄に手をあてて、アキは誰に見せるでも無く頷く。中身の感触を確かめていたように見えた。
一体何を持って、どこへ行くつもりなのだろう。