⑥
殴られた頬が熱い。
欲しいおもちゃをじっと見つめて、これが欲しい、と言っただけなのに。
買ってくれるまで動かないとか、大声で泣きわめくとか、騒いだ訳でも無いのに、そのたった一言が、母の気に障ったらしかった。
私の溢した我儘よりもよほど大きな音を立てて、頬を張られて、一瞬で涙がじわりと浮かんだ。
母は怒鳴り散らして、私の腕を叩いた。私はすぐに謝った。でも許してもらえなかった。髪を強く引っ張られて、蹴飛ばすように、店の冷たい床に座らされた。
何度、ごめんなさい、と言ったか分からない。とにかく殴られるのが怖かった。叱られるところを、周りの人に見られるのが恥ずかしかった。実際その日店には、同級生とその母親も来ていて、一部始終を見ていたと後から知った。
この一件で私はクラスで無視されるようになったし、教師には腫れ物を扱うように、関わりたくないというように距離を置かれたし、恐ろしくて親に何か言うことも出来なくなった。
父親は時々、気持ち悪いくらい優しかった。それは母親が居ない時に限って、何かを探るように、猫撫で声で私を呼び寄せた。逆らうと怖いから、大人しくついていくと、案の定、母親の事を聞いてくる。
母さんは、お前に内緒話をしていないか。こっそり俺の悪口を言っていたんじゃないか。
聞いていないと言うと、お前はあいつの味方なんだな、と急に冷たくなって、段々声を荒げ始める。
最後はいつも決まって、本当は誰の子なんだ、と言う。
私も繰り返される内に理解した。両親の仲が悪いのは、多分私のせいなんだな、と。
だから私の事が嫌いなんだ。
両親に好かれない事の悲しさは、とうに通りすぎた。
だけど雨希ちゃんにまで嫌われたら、生きていけない。
私が生まれる前はどうだったのだろう。両親と雨希ちゃんの三人で、仲良くしていたのだろうか。
だとしたら、雨希ちゃんは、私を恨んでいないのだろうか。
ねえ雨希ちゃん。
すごくすごく優しかったけど、本当は私の事、嫌いだった?
休暇が終わった最初の朝は、夢見が悪かった。起きた体に痛みは無いのに、何となく頬をさすってしまう。
浅い眠りから目覚めた早朝、気分は悪いが仕事へ向かわねばならない。
計画は今日から決行だ。疲れた顔では、アキに逃げられるかもしれない。帰りまでに、顔を作っておかないと。
今日も似合わないピンクを纏って、雨希ちゃんを気取る。
濃い化粧は、私の素顔を隠してくれる。大丈夫。私はまだ、雨希ちゃんを演じられる。
職場は至って普通の事務所だが、目立ち過ぎないよう控えめにしつつも、やはりピンクで出勤する。でもそろそろ年齢的に、嫌な目で見られるだろう。私としては、何歳になっても好きな服を着れば良いと思うけれど、いい大人が可愛らしい服を着るのは、見る人を不快にさせてしまうらしい。全く面倒な世間様だ。他人の格好なんて、別にどうでも良いのに。
これから少し歩くから、出勤用の低めのヒールで玄関に立つ。
職場の良い所は、歩きでも何とか行ける所だ。都心で、電車に乗れば一駅分だから、数十分で着く距離である。
外はまだ薄明かるい程度で、空気が冷たかった。それに静かだ。眠りは浅いし、朝起きるのも得意では無いけれど、早朝は人が少なくて良い。
駅の方、線路沿いに向かいながら、仕事が終わった後の事を考える。
復讐を計画している私は、妙な事に、少し楽しみでもあるのだ。雨希ちゃんを除いて、自ら人と積極的に関わろうとした事は無かった。アキと会う時、私はどんな風になるのか、自分でも気になっている。
うんと優しくしてやろう。甘やかして、でも正しい事を教えて、私に依存させてやろう。私がアキの事を何とも思っていないと知った時、彼女が深く傷つくように。
線路沿いを歩いて行くと、ビルが立ち並ぶ通りが見えてくる。高さはでこぼこと不揃いで、中でも一際高いビルの隣に、小さな建物がひっそりと佇んでいる。そこが私の勤める職場だ。
エスカレーターなんてない、見るからに古そうな階段を上り、事務所まで入って行く。時々猫が入り込んでいて、事務所の扉の前で出迎えてくれるのが、気に入っているポイントでもある。
やりがいなんて無いけれど、それなりに仕事はこなしてきたつもりだ。今日も居座る茶猫に挨拶をして、私は扉の奥へと進んだ。
少ない人数で仕事を回す、小さな職場だ。従業員はお互いに、全員の顔を覚えている。女性は私の他に、恋人と交際中らしい三十代が一人と、五十代の主婦が一人しか居ない。
私が一番若輩だが、一番新人という訳でも無い。私は初めて就いた職場でずっと働いてきているが、彼女達は転職、再就職組だ。上下関係は緩く、ギスギスした雰囲気は無いと、少なくとも私は思っている。
こんな根が暗い私を、たまに食事に誘ってくれる事もある。まあまあ過ごしやすい。
早く来て早く帰るために、私はほぼ一番乗りで職場に着く。だが今日は、大体いつも二番手の男性が、先に業務についていた。
私はいつも通りの時間に来たから、彼が早いのだろう。珍しいですね、等とフランクに話しかけはしない。入る時に短く挨拶をして終わりだ。
そう思っていたのだが、男性は私が自席につくなり寄ってきて、横に立って見下ろしてきた。
何か用事があるのだろうが、私から、どうしたの、なんて愛想良く尋ねてやるのは億劫だ。
目線を合わせるのも面倒で、どう考えても無理があったが、素知らぬ顔で相手から切り出すのを待った。
男性は、名字にさん付けで私を呼んで、もったいぶるように口を切った。言いよどんでいるようにも思えた。
だが一度言い出すと止まらなくなったようで、彼はつらつらと言葉を並べ始めた。要約するに、今夜一緒に食事をしませんか、という事だった。
だらだらと喋る人は嫌いだ。今、嫌いになった。私の時間は有限なのだから、簡潔にまとめてから来て欲しい。以前はそんな事思わなかったけど、今は事情が違うのだ。どうしても、二十五歳になる前に、やり遂げたい事があるから、一分も無駄にしたくはない。
なるべく角が立たないように断ったつもりだったが、男性は食い下がってきた。食事ごときで何を必死になるのだと思ったら、彼は突然、私に好意がある事を伝えてきた。






