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 私と晴一の関係はともかく、雨希ちゃん達の関係は良好だったはずだ。途中までは。

 雨希ちゃんは、私に隠し事はしていなかったと思う。私が秘密を知った所で、打ち明ける相手は、雨希ちゃんくらいのものだ。学校にも、友達は居なかった。私に何かを隠す必要なんて無いのだ。


 あの日の雨希ちゃんは様子がおかしかった。


 中学校の授業が終わって帰宅すると、薄暗い家の中に、蹲る雨希ちゃんが居た。

 まだ仕事中のはずだ。体調が悪くて早退したのかと思って、私は雨希ちゃんに駆け寄って声をかけた。

「雨希ちゃん、具合悪いの?」

 制服のまま膝をついて、雨希ちゃんの背に手を添える。

 姉の体は温かかった。でも、震えていた。

沙霧(さきり)……」

 この弱々しい声が、私の名前を呼んでくれる最後になるなんて、思いもしなかった。

「あのさ、私、晴一くんに振られた」

「何で……」

 前の日まで、変わった所は無かったように思う。ならば、たった今別れてきたのだろうか。

 今朝はどうだっただろうか。いつも通り出勤していただろうか。思い返してみるも、いたって普段と変わらなかったような気がする。

「どうしてだと思う」

 私の質問に対して、雨希ちゃんは質問で返した。

「分からないよ。雨希ちゃん、晴一……さんと、ずっと仲良かったじゃん。別れたって、多分はずみでしょ。落ち着いたら、仲直り出来るよ」

 反発していたはずなのに、気付けば私は二人の仲を取り持つような事を口にしていた。

 晴一と仲違いしただけで、こんなに憔悴する雨希ちゃんを、見ていられなかったのだ。

「そっか」

「そうだよ」

「そっかあ……やっぱり、分からないよね」

 納得してくれたのかと思ったら、雨希ちゃんは膝に顔を埋めて、丸まってしまった。

「気持ち悪い……」

 よほど気分が悪かったのだ。私は慌てて、「雨希ちゃん、本当に具合悪いんでしょ。私、何か薬とか……飲み物とか買ってくるよ」と、もう一度姉の背中を擦った。

「待っていて、雨希ちゃん」

 ここまで深刻な喧嘩をしたところは、見た事が無い。もしかしたら、気分の優れない雨希ちゃんと、晴一とで、すれ違いがあったのかもしれない。いつもと違う雨希ちゃんを前に、晴一が何か勘違いをした可能性もある。

 近所の薬局まで走り、効きそうな薬やスポーツドリンクを買って、また走った。

 私は弾む息で、手に白いビニール袋を提げて帰ったけれど、雨希ちゃんに迎えられる事は無かった。

 二階建ての、古いアパート。一応世帯向けなのか、多少広めだ。一階が車庫になっているから、実質二階は、三階くらいの高さがある。

 私達家族は、二階の一室に住んでいた。

 雨希ちゃんは、私が出掛けている間に、その部屋の窓から飛び降りて、死んだ。







 走っていると、靴の裏の水滴が跳ねて、私のふくらはぎを汚した。我にかえった時には、肌色のストッキングがかなり濡れて、足元を冷やしてしまっていた。

 目的も無く逃げてきたが、まだ店の中だった。晴一の顔と、声と、私の息切れが、雨希ちゃんが死んだ日をまざまざと思い起こさせて、気分が悪い。

 沸々と、晴一に対する怒りが沸いてくる。あの男は、今、幸せなのだ。雨希ちゃんを死に追いやっておいて、他所の女が産んだ子供に、よりにもよってアキと名付けたのだ。


 晴一は、私のように、後悔の日々など送ってはいなかった。とっくに過去のものとして、新しい家庭を築いていた。彼は、雨希ちゃんとの事を、綺麗な思い出だとでも思っているのだろうか。

 雨希ちゃんは死んだ。今ごろは、彼も気付いたはずだ。見かけた私の事は、雨希ちゃんによく似た他人だと。

 でもどうだろう。ただの他人にしては、必死に逃げた私は、不自然に見えたかもしれない。

 今になって、自分の選択が間違いだったような気がしてくる。


 晴一は、私の事を、思い出しただろうか。雨希ちゃんにくっついていた、十歳離れた妹の事に、思い至っただろうか。

 次に会ったら、懐かしそうに、沙霧ちゃん、と呼ぶのだろうか。


 いいや、次など無い。勝手に脳内で再生される晴一の声に嫌気が差して、頭を振って今の出来事を無かった事にしようとする。だけど、どんなにやっても、晴一の顔が目に焼き付いて、声が耳から入ってきて、忘れられそうに無い。


 こんな事は予定に無かった。

 復讐なんて、大それた事をするつもりでは無いのだ。ただ、あの男にも思い知らせてやりたかった。

 憎しみは何年経っても風化しないのに、具体的に何をすると考えていた訳でもなくて、心のどこかで、結局私は何も出来ないで終わるのだろうと思っていた。

 でも、再びあの男に会ってしまった。

 私は、晴一の個人情報を何も知らない。住所も連絡先も、雨希ちゃんを振った理由も、何もかも。

 今を逃したら、もう二度と会えないかもしれない。私だけ思いを燻らせたまま、幸せそうな親子の姿を何度も反芻してしまうかもしれない。 

 彼はまだ、この店の中にいるだろうか。まだ間に合う? そう考えたら、私の次の行動は決まっていた。

 私は周囲に気を配りながら、今度は我を忘れずに、踵を返して例の親子を探し始めた。


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