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 要らないなら、私に返して。

 ちゃんと、無事に私の所へ帰して。

 時間は戻らない。

 もう全て、今更だけど。


 あれから、私の人生は真っ暗なまま。

 私は仕事に就いて、成人してからすぐ、親から逃げるように家を出た。

 初めて一人で部屋を借りた。

 狭いクローゼットの中には、ピンクの服ばかり押し込めて、必死に雨希ちゃんの痕跡を作り出そうとした。

 雨希ちゃんを思うためだけに生きている。他にやりたい事も無い。そうしていると時々、自分が何なのか分からなくなる。

 今一番恐ろしいのは、老いる事だ。このまま年老いていけば、鏡を見ても、そこに雨希ちゃんは映らない。どんなに格好を似せても、記憶の中の雨希ちゃんは思い出せなくなっていく。

 今が雨希ちゃんと一番近くて、だけど先が無い歳なのだ。


 二十四歳までは、雨希ちゃんの人生をなぞる。

 二十五歳になったら、どうしようか。

 考えようとすると、また同じ思考に行き着いた。

 あの男が居なければ……雨希ちゃんも、二十五歳の誕生日を迎えられたかもしれないのに。

 雨希ちゃんを思う時、あの男の事も考えてしまう。

 この先も生きていたら、彼への憎しみだけで、心が潰れてしまいそうだ。

 雨希ちゃんの声を思い出せなくなる前に、人生の幕を閉じたかった。


 私は深く息を吐いて、傘で床をコツコツと叩いた。これは雨希ちゃんの癖だ。

 化粧品売り場で立ち止まり、鏡をぼんやりと見つめて、雨希ちゃんとの共通点を探そうとする。まだ化粧は崩れていないけれど、明らかに雨希ちゃんとは違う顔だ。それに彼女は、こんなに死にそうな顔をしてはいなかった。

 昔憧れて、でも雨希ちゃんの色だからと敬遠していた、ピンクのグロス。

 今では全く心ときめかないのは、やはり似合わないからなのか。


「アキ」


 鏡越しに、声が掛かった。

 その名前で呼ばれた事は、これまで一度も無い。とうとう私と雨希ちゃんを見間違える人が現れたのかと、動揺して、一瞬動けなかった。

 動けなかったが、鏡に映る声の主を、立ち尽くしたまま瞬時に探した。柱を覆う大きな鏡は、私の背後を広く遠く映していた。

 小学校低学年くらいの女の子が、小走りするのが見える。何となくその子を目で追っていると、もう一度声が聞こえた。「アキ」

 女の子はぴたりと立ち止まる。そして、「お父さん」と言いながら振り返った。

 私は自分の勘違いを悟った。アキと呼ばれたのは、あの子だったのだ。

 少し気恥ずかしく、何だか気が抜けて、硬直も解けた。自分には関係の無い事だったと、親子から気を逸らす。

 歩みを再開しようと鏡に背を向けたところで、アキと呼ばれた女の子の、父親と思しき男と目が合った。

 女の子は、男の足に抱きつくように纏わりついている。

 私は両親が好きでは無かったけれど、あの子は父親が好きなのだろう。

 雨希ちゃんの不幸と結び付けてしまう私では、素直に微笑ましいとは思えないので、仲睦まじい親子からさっさと離れようとした。

 しかし父親は、私から目を逸らす事無く、むしろ釘付けといった様子で、はっきりと呼んだ。


「雨希さん……」


 私を見て、雨希さん、と。

 その音が脳に浸透して、事実を認識した私は、伏せた視線を男に戻した。

 目を見開いたまま固まる、三十代半ばくらいの男だ。

 女の子は、そんな男を不思議そうに見上げている。


 ――晴一。


 記憶の中に微かに残る、若い男の面影と、目の前の男が重なった。

 私は精一杯顔に力を入れて、無表情を装う。今どうするべきか、咄嗟に何も浮かばない。

 ただ、早くこの場から逃げなければ、と思った。

 混乱した頭の中で、多分だけど、軽々しい謝罪を聞きたくは無い、と考えていたのだと思う。

 あの時は悪い事をした、だとか、今は反省している、とか、絶対に、そんな言葉は聞きたくない。

 人生のどん底まで落ちて、やっと自分のした事を思い知ればいい。

 可愛い娘に慕われて、幸せそうな顔をして、どんな気持ちで、彼は雨希ちゃんの名前を呼んだのだろう。

 私は親子から遠ざかろうと、高いヒールにも構わず走り出した。

 もう一度、「雨希さん」と呼ぶ声が聞こえたけれど、足音は追ってこなかった。







 雨希ちゃんと晴一が付き合い始めたのは、彼らが高校生の時だから、当時の私は、六歳か七歳といったところだ。

 晴一の存在を認識し始めたのもその頃だった。

 親代わりに私の面倒を見る雨希ちゃんが、恋人の話を度々口にするから、私は彼の姿より、名前を先に覚えた。

 晴一と初めて対面したのは、親が居ない時に、雨希ちゃんが彼を家に連れてきた時だ。

 彼は同い年の恋人の事を、雨希さん、と丁寧に呼んでいた。

 雨希ちゃんも嬉しそうに、晴一くん、と返していた。

 育児放棄気味の、円満とは言えない両親を見てきたから、雨希ちゃんと晴一の二人は、とても仲が良さそうで、理想的な夫婦のように見えた。

 その時彼らは、まだ十六、十七歳くらいだ。二十四歳の、今の私からすれば、まだまだ子供だったのだと分かる。でも幼い私にとっては、恋人も夫婦もさして違わず、どちらも大人だった。


 大好きな雨希ちゃんが、私と居る時とは違う笑顔を浮かべるのを見ると、もやもやとして、面白く無かった。

 だけど晴一も雨希ちゃんも、家に来る時は、私をのけ者にはしない。むしろ、二人で私を構いに来ていた。

 晴一は、雨希ちゃんの妹である私を、可愛がっていたのだと思う。会う時は必ずお菓子をくれて、私の頭を撫でて、可愛いね、なんて当たり障りの無いお世辞を言ってきて……。

 面白く無かった。

 私に優しい目を向けてくれる人は、歳の離れた姉しか知らない。その姉を奪っていく男だ。

 晴一がしゃがんで、小さな私と目線を合わせて、穏やかな声音で、挨拶をしてきても、そこで揺らいではいけないと、頑なに懐こうとはしなかった。

 こんな、ついでに過ぎない、上辺だけの優しさで、雨希ちゃんと引き換える事など、許せるはずも無いのだ。



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