彼女には夢がある
かつて魔物たちを率いて魔界から襲来した“七つ目の魔王”の軍勢が世界に危機をもたらした時代があった。
魔物は人の及ばない様々な能力を持っていた。それは魔力と呼ばれ、炎や水を発生させ、念動力で物を操り、傷や病気を癒す等々、様々な奇跡的現象を起こすことができた。その力で世界の半分は、瞬く間に彼ら魔物を率いる“七つ目の魔王”によって征服されたのである。
しかし、人類はある術を生みだすことによって、この魔王の侵攻に対抗した。
魔物を操る術――操魔術である。
敵である魔物を操る術を生み出した人類は、彼らを操ることで魔力を行使することができるようになった。そして激しい戦いの末に“七つ目の魔王”の軍勢を打ち破り、魔界へと退けることに成功したのである。
世界は救われた。しかしそこで人類と魔物との関係が終わりを迎えることにはならなかった。
魔力は非常に強力な力であり、それは人間に対しても同様であった。平和が訪れても人類はこの力を捨てることはできず、人間同士の争いに利用することを考えた。こうして魔力を欲した人類は、魔界へと去った彼らを喚び出す術――召喚術を生み出す。
こうして召喚術と操魔術を手にした人類は、自由に魔物の力を行使するようになった。この二つの術を扱う者は“召喚士”と呼ばれ、戦争を始め社会の様々な場面で活躍した。“国家の力は召喚士の数に比例する”とまで言われ、各国は召喚士の数を増やそうと次々に学校を作り、その育成に努めた。
だが召喚士の術は、魔物の持つ魔力と生まれつき親和性の高い、一部の素養ある者にしか身に付けることのできない特別な技術であった。各国はこの素養のある者を、身分を問わず積極的に集めた。このため召喚士は、出生に関係なく高い社会的な身分を得ることができる稀有な職業となった。そのため低い身分に生まれながらも、その素養に恵まれた者は、誰も彼も召喚士の道を目指すようになったのである。
そしてここナッシュベル王立召喚士学校に通うリズーニア・シェルダンもまた、そんな召喚士を目指す庶民出の学生の一人であり、地方の村落出身の彼女は家族のみならず、出世して郷里の発展に尽くして欲しいという周囲の期待までをも一身に背負って、召喚士への道を歩んでいた……のだが、落ちこぼれていた。
「手ってなによ、手って」
召喚の授業から戻り、ブレザーとスカートの制服姿のまま寮のベッドに転がったリズは、床にわさわさと動くそれを見てぼやいた。
それは手だった。三十ギュス(一ギュス=約一センチ)ほどの、人の手としては大きいけれど、それだけでは子犬程度の大きさしかない手だった。けれど子犬のようなかわいさは微塵もなく、この手は鍛え上げられた格闘家の拳のようなゴツい指をわさわさと動かして床を這っていた。かなり不気味である。というかキモい。その動きにリズはげんなりとした顔をする。
「ハエちゃん金魚ちゃんの次は手ちゃんかぁー。リズの召喚ってセンスあるよねー」
隣のベッドに座る同室の友人ビリンが、そんなリズと手を眺めながら間延びした声で言った。リズが跳ね起きる。
「ちょっと、ビリン! これがどんなセンスよ! ハエはぶんぶんするし、金魚はびちびちするし、手はわさわさしてんのよ? どんなセンスよ、これ!」
リズが悲鳴のような声で叫ぶ。実際これは悲鳴であった。彼女の召喚履歴は絶望的な個性に彩られていた。ぶんぶんバエを召喚して「ウ○コ女」と呼ばれ、びちびち金魚を召喚してそれが「ウ○コビ○チ」に変わり、今度はどんなあだ名になるか戦々恐々たる彼女にとっては死活的悲鳴であった。すでに校内で不動のものとなりつつある落ちこぼれとしての地位が、さらに盤石を固めたのは確実である。しかしビリンは、ゆるふわな髪型そのままのゆるふわぽよよんとした口調でリズのこの悲鳴をぽよよんと受け返す。
「でもよく見るとかわいいよー。ほらー、この子も目とかすごいつぶらだしー」
そう言ってビリンは足元に這う不気味な手を躊躇なく拾い上げ、顔を近づけてまじまじと観察する。その手の平にはまんまるとした大きな目が一つだけついていた。
「この子、まつ毛長いよー。美人さんだねー」
「うくぅー!」
ビリンののん気に懊悩するリズ。そんな彼女の懊悩も気にすることなくビリンは不気味な手とキャッキャウフフと戯れる。出るところが出てひっこむところがひっこんでいるビリンの身体の上を手があちこちに這い回り、胸を掴んで「やん、くすぐったーい」などという声が聞こえてくるに至って、出るところがなくひっこんでいるところしかない身体のリズの懊悩と苛立ちが色々な方向で弾けた。
「でも手の魔物って珍しいよね。歴史の教本にこんな子見た気もするけど、なんだったっけー?」
「そんなことはどうでもいいわ! あたしには家族も故郷もあるのよ! そんな掴まれる胸も育たない痩せた土地で、貧しさと戦っているみんなが!」
彼女には夢があった。期待があった。故郷で貧しく暮らす両親や弟妹、同じく貧しい村のみんなの明るく豊かな未来。それを果たすことを使命と感じている彼女はこんなところで足踏みしている訳にはいかなかった。決して自分の身体の貧しさに憤っている訳ではない。
しかし現実は常に焦燥とは裏腹である。そしてそれは常に人を先走らせる。
「決めた!」
「え?」
手とビリンがリズを見る。彼女は決然として言った。
「あたし、こいつと魔闘大会に出るわ!」