四章
一
祖母にオイルヒーターと加湿器を届けたのは半月前のことになる。
もう玄関は通らず、裏側の祖母の部屋へ直接向かった。硝子扉を叩き、開けて貰った。
「どうしたんだい?」という問い掛けもなく、察したようにそこには触れず、室内へ招き入れてくれた。
「これを使って」と、室内にオイルヒーターを入れると、祖母が「これ買ったのかい?」と訊いてきた。
「家にあったから、持って来たのよ。これだと一日中点けっ放しにしてればいいから。火事の心配も無いし、あと、乾燥については、コレ。小型の加湿器を持ってきたから。これで咽喉を守ってね」
そう言って、ヒーターを点け、給水して加湿器を可動させて帰宅した。
おばさんに見つかると、またややこしい感じになるからと伝え、そそくさと帰った。
祖母とゆっくり話す時間も無かったが、祖母も手を振り急かす様に見送ってくれた。
もしかしたら、長男夫妻から何かしら言われるかと思ったがまったく反応も無かった。
母を始め、他の兄弟も既に相続放棄をし、長男の全相続が遺漏なく終わったので気分が良いのだろう。
尤も、これは相続放棄後に母から聞いた事だ。
さらにその後に判明するのだが、長男は祖母にも相続分を放棄させていた事が分かった。その件は、兄弟たちの反感を買った。いくら生前贈与分があるとはいえ、祖母の扱いがますます悪くなるのも目に見えている。祖母は諦めていたのか、長男の好きな様にさせたらしい。
他の兄弟も様子を見に来ているようだが、祖母を邪険にするのは変わらないようだ。
そして、昨日。祖母から母に電話が入り、車を出してほしいと言われた。いつも通り、私が行くことになるが、出発前に母が衝撃発言をした。
「望。昨日の朝、絹江おばさんが、おかしくなったそうなの。だから、そこには触れないで帰って来なよ」
「おかしくなったって言われても、随分前からおかしいじゃない」
「違うのよ。朝起きたら、布団に濡れた服のままで入ってて、外を夢遊病者のように歩いたりしていたそうなの」
私は話を良く理解できない。
「どういう事?」
「まだ分からないんだけど、気が触れたのか、病気になったのか分からないけど。今日は旦那と娘が病院へ連れて行ってるらしいから会うことはないと思うけど、一応、何にも触れずに帰ってきなさい」
柔らかな口調だが、有無を言わさぬ強さが籠っていた。
そんなことを振り返り、桜条家の玄関に立っていた。玄関に入って声を出すと、仏間から祖母が現れた。
「手間を掛けさせて、すまないね」
足取りの覚束ない祖母を支え、車に乗せた。
「タクシーで行っても良かったんだけど、挨拶回りやら買い物を考えれば、お願いしたくなってね」
酷い扱いを受けているのを見ているから、感想に近い意見が口から出た。
「日々の暮らしが大変なんだから、いつでも言って。手伝うから」
私は自然な笑顔を向けて答えると、車のエンジンを掛け、アクセルを柔らかく踏んだ。
「絹江さんが、突然、あんな風になって………」
祖母が諦めたように言った。
私の発言に対しての言葉だろうが、祖母の待遇について言ったつもりだったが、絹江おばさんの事を言われたのだと勘違いしたようだ。
勘違いついでに、大まかにでもどうなっているのか聞くことにした。
「絹江おばさん、どうしたの?」
「それが、まだよくわからないのよ」
「最初に異常が分かったのはいつ頃なの?」
「昨日の朝。絹江さんが前日の服のままびしょびしょに濡れたまま庭に立っていたらしいんだよ。声を掛けても分かってない様でな。布団をみたら、布団もびしょびしょに濡れてて、湯船に服を着たまま浸かって、布団に入ったみたいなんだよ」
「何でそうなったの?って、それがわからないんだよね」
「今、大きな病院で診て貰っているから、何かわかればいいんだがねぇ」
「芳郎伯父さんの反応は?」
「芳郎。絹江さんのあの姿を見て泣いてたわよ………」
あの長男が泣く、容易には想像できない。嫌々結婚したにもかかわらず、四十年を越える年月を重ねれば、想いが形成されるのだろう。
「とにかく、どういう診断をされるにしろ。治るもんなら治さないといけないし、お金を出してあげるから、大きな病院でしっかり治療して貰いなさいって言ったのよ。芳郎から絹江さんの代わりに家事を頼まれたから、やることが多くてね」
この祖母の発言には驚いた。嫁に嫌がらせをされて、祖父の遺産も放棄させられ、ロクな扱いを受けていないのに、長男夫婦の為に治療費の支払いと家事を引き受けたのだ。自分が同じ立場であれば、同様の態度は絶対に取れない。そう考えれば、祖母の寛容さを実感した。
それに引き換え、長男の酷さといったら………。脚が不自由な末期癌の祖母に家事を押し付け、莫大な相続分があるにもかかわらず、妻の治療費まで払わせるなんて考えられない。
あまりのことにハンドルを握っている手に必要以上の力を込めてしまう。
それから、病院に連れて行き、定期検査を終えると葬儀に参列してくれた親しい方への挨拶を終えた。その時には、既に日も傾き、辺りは薄暗くなっていた。
急いでスーパーに行き、今夜の食材を買い込んで、祖母を家へと送った。脚の悪い祖母の代わりに荷物を運び込み、台所へと置いた。
祖母に料理を手伝うよ、と提案するも、柔んわりと断られた。今日は沢山助けてくれたから、自分の家庭の仕事をやりなさいと気遣ってくれた。
考えようによっては、長男と会うと色々と邪推されることを回避するべきだと思った。
厄介な事を避ける為にも車を停めた場所へ急いだ。そこは隣家の庭先だが、隣家ごと桜条家所有の為にこんな行為が可能になっている。
鞄から鍵を取り出し、車に近づいていると隣家のおばさんと出会った。
「こんばんわ」
私は頭を下げた。
「お孫さんかしら?」
神妙な顔を向けて来たので、真顔で答える。
「はい。東紀子の娘になります」
「あ~。東紀子さんの………」
「はい」
母を知っている事がわかり、明るく返事が出来た。
「今回は、絹江さん。大変だったわね~」
早くもご近所に知られていることに驚いた。
私はなるべく聞き役に徹することで、余計なことは喋らない様にと意識した。
「ええ、本当に」
「私もねぇ、見かけた時にはビックリしたのよ。凍てつくような寒さの中、全身びしょ濡れで歩いているでしょう。話し掛けても反応が無いし、急いでお宅へ向かったわよ」
この人が、内情を知っている理由がわかった。
隣家のおばさんは、私の相槌を待たず話し始める。
「十日前くらいに、絹江さんが言ってたのよ。『お義父さんが、やっと亡くなってくれたから、後は、お義母さんに早く逝って貰わないと』って。私は、『そんなこと言ってたら、あんたの方が先に死んじゃうんだよ』って言ったんだよ。すると、絹江さんは『末期癌の人より早く死ぬなんて考えられないわよ~』って、笑ってたけどね………。まさか、こんなにことになるなんてねぇ」
おばさんは、腕を組んで、右手を頬に当てて深く語尾を伸ばした。
その態度は、あからさまに悪口を言わせようという呼び水的なものであったが、私はなんて言っていいか解らず、曖昧な返事だけをしておいた。
「絹江さんは、良くなりそうかい?」
「私には何とも。今日、大きな病院に行っているそうですが………」
「そう、良くなるといいわね~」
「そうですね」
感情の全く籠らない声で言われたので、同じ声調で返してしまった。おばさんは、用を思い出したように頭を下げて家に帰ると、私も車へ乗り込んだ。
深く深呼吸をしてから車のエンジンを始動させた。見慣れた風景だが、心境の変化からか少しだけ違って見える。
絹江おばさんの発言には驚いたが、あの伯母さんならそれくらい言いかねない。呆れるのは、隣家の婦人に胸の内を吐露していることだ。しかも、配慮などは一切なく、祖母の耳へ入っても問題ないと顕示しているのだろう。この一点だけで、祖母の置かれている状況が、どれ程劣悪なものなのかと導き出すことができる。
絹江おばさんの思惑がどうであれ、結果的に嫁の方が先に倒れたのは、皮肉な結果だった。それでも、この結果は私の心に一筋の光明を射したような気持ちにさせた。
ふと、天網恢恢疎にして漏らさずという言葉が思い浮かぶ。祖父が私に教えてくれた言葉だ。
意味は、『天の張る網は、広くて一見、目が粗いように思えるが、悪人を網の目から漏らすことはない』悪事を行えば必ず捕らえられ、天罰をこうむるということだ。
この展開で使う言葉なのかは分からないけれど、因果応報よりも故人を想いこっちを使いたかった。
祖父は、この考えに共感し、一時的な不利益を被ろうと、誠実さと堅実さをもって信用を積み重ねていった。言葉はタダだから言わなきゃ損だ。という輩とは真逆で、言葉に信頼という重みを加えたのだ。だからこそ、他人様が自分を信じて動いて下さるとよく言っていた。当然、仕事だけではなく、生き方の指針としているからこそ、何度も苦境に陥っても一代で財を成す事が出来たのだろう。
長男夫妻のように、損を極端に嫌い、近視眼的に小さな利益ばかり追っている輩には、到達しえない高みではある。
それにしても一連の流れは、初めてこの不平等な世に神の存在を信じてしまうようなものだった。
「世の中って、うまく出来ているものね~」
国道を走りながら、感心して声を上げた。母は、どこまで知っているのか判らないが、良い土産話が出来た。
現状での一番の問題は、祖母のことだ。このまま、辛い環境のままで放置しておくわけにもいかない。流れる景色の中、解決策を考え始めたが、他の兄弟との連携も必要になってくるだろう。
車内は暖房と自身の熱で、フロントガラスが曇り始めた。
両窓を開けると、潮の匂いを含む寒風が車内を吹き抜ける。曇った硝子は瞬時に透明に戻った。
数秒で身体の芯まで冷えが到達する。
脳裏で、極寒の中で祖母が灯油を入れている姿が鮮明に浮かんだ。それと同時に、長男夫婦の底意地悪い顔と無関心な娘たちの笑顔が胸の内の不安を駆り立てた。
二
三階建ての上品な作りの白いビル。一階は内科医院で、二階から居住区になっている。建物の内部は、肌色を幾分薄めたような萱草色で統一されていた。廊下は幅が広く一般の倍近くとっていて、非常に広く圧迫感がまったくない。
調度品や装飾品などは全くなく、極めて機能的だが、あえて悪く喩えれば無味乾燥である。うちの家がこんなであれば、廊下に日用品が転がっていることだろう。
「望。シュークリームがあるから食べるか?」
大きな身体を揺らして、徹夫おじさんが言った。
ここは徹夫おじさんの家で、私は母と一緒にお呼ばれしている。家を見てつくづくお金があるのだと実感する。
桜条本家は重厚で荘厳かつ歴史を感じる造りであったが、徹夫おじさんの家の造りは近代的で居住性に優れている。生活感があるのは本家の方なのだが、こちらの家の方が住みやすそうだ。
六〇V型のプラズマテレビの置かれるリビングで、長男を除く兄弟たちがソファーに腰掛けて、話し合っていた。
私はというと、話し合いには参加せず食卓のテーブルでコーヒーとシュークリームでもてなしを受けていた。
コーヒーにミルクと砂糖を入れて、ティースプーンで掻き混ぜながら前回の母との話を思い出していた。
五日前の祝日の昼さがり、ウトウトしているとチャイムが鳴った。玄関を開けると、母が大皿を手に立っていた。煮物を渡され、室内に引き入れると食卓の席に座ってもらった。
母親に紅茶を作っていると母が厚手の上着を脱ぎながら一言。
「絹江さんの検査結果が出たらしいわ」
「思ったよりも早かったね~」
両手にアールグレイの入ったカップを手に、片方を差し出した。母はそれを受け取り、両手を添えて手前に置いた。
「徹夫兄さんから聞いた事なんだけどね。どうやら、脳に菌が入ったらしいわよ」
「菌?どこで感染したの?」
「さぁ~。歯の治療をしてたから、そこからじゃないかって言ってるけどね~。歯科医が認める訳は無いしね~」
「治療で感染したなら怖いわね~。それで、治るの?」
「治療法があるにはあるらしいけど、治るかは分からないらしいわよ」
そう言うと、母は紅茶に砂糖を少量加えて飲み始めた。
祖母宅へ伺った時、母に話をした夜の事を思い出した。
絹江おばさんが、祖母の死を願っていたことに驚きはしなかった母だが、あまりの露骨さには呆れ気味だった。
その後、兄弟間で連絡を取り合い、情報の共有をすると、智子叔母さんから聞いた話もなかなか強烈だった。
専業主婦で、お金に余裕のある智子叔母さんは、頻繁に祖母へ会いに行っているらしい。その時の出来事が酷かった。
智子叔母さんが、祖母と話していた時、芳郎伯父さんが紙切れを数枚渡したらしい。祖母はそれを黙って受け取った。
普段から親を邪険に扱う長男が、何を渡しているのか気になって問いただすと、その紙切れは病院の領収書だった。話を聞くと、絹江さんの治療費を全て払う様に領収書を渡してくるのだという。
瞬時に事を理解した智子叔母さんだったが、苛立ちを見抜かれて祖母が言ったらしい。
「わたしがねぇ、払うって言ったのよ」
「それでも、兄さんが非常識過ぎるわよ。自分はお父さんの財産を一人占めしておいて、その上、お母さんにたかるってないでしょ」
酷い剣幕で言いたてたのは容易に想像できるけど、長男も取り合わなかったと聞く。
すぐに母へ電話を掛けてきて、徹夫おじさんに動いて貰おうとしたらしいが、次男も確認してからでないと動けないと答えたようだ。
「人生、皮肉なものよね」
紅茶を飲み終えた母が呟いた。
母も私と同じ事を感じているようだ。私も胸の内を呟くように言葉を出した。
「私ね、初めて神様っているのかも知れないって思ったの。親の遺産を宛てにしているのに、親を邪険にして、お祖父さんが死んで、次はお祖母さんへ露骨な嫌がらせをしていた人が、残りのお金が入るよりも先に倒れるなんて」
「そうね。それに、言葉の端々からおばさんの症状は良くないみたいだから、確実に長引くわね。そうなれば………」
「そうなれば、相続した財産が莫大な医療費に消える」
私が付け加えた。
「それでも、桜条家の財産は無くならないだろうけどね」
母が落ち着き払って言った。それは真実だろうが、皮肉な結果には違いない。間違っても、芳郎おじさんや絹江おばさんが思い描いていた未来とは違う。こんな筈ではなかったと考えているに違いないだろう。
母の話し方は、最後まで落ち着いていて祖母への不安はあまり見せなかった。
こうして、兄弟が集まり話し合う席を次男の新築の家で設けると聞いて、遅くなる事を考慮して私が一緒に来た訳だ。
私はキッチンの椅子に腰かけ待っている。リビングとは少しだけ離れているが、会話は聞こえてくる。
「兄さん。早く長男に言ってよ。あれじゃ、お母さんがあまりに可哀想じゃない」
智子叔母さんが、苛立たせるような声で言っている。
「そうは言っても、母さんから助けを求められた訳じゃないだろう。親といえども母さんが何も言ってこなければ難しいぞ」
「そんなこと言ってたら、母さんはずっとつらい思いするじゃない」
「智子、そう頭ごなしじゃ、話にならないから」
三男の健叔父さんが柔らかな口調で言う。
「健兄さんは、いつも事なかれ主義だからね。意見は聞くまでも無いから言う必要は無いわ」
「智子。もう少し言い方があるでしょう」
母が割って入ったようだ。
「でも、姉さん。兄さん達は両親が生きていた時もまともに世話をしてないのよ。母さんだけになったら尚の事、考えないでしょう」
表情は見えないが、徹夫伯父さんの顔は苦い表情をしているだろうことは簡単に想像できた。
さらに智子叔母さんは、捲し立てる。
「姉さんと私は、心配してちょくちょく顔出してるけど、二人は盆と正月くらいでしょ」
「俺も徹夫兄さんも仕事があるんだから、行きたくても、そうちょくちょくとは行けないもんだよ」
「仕事っていっても、同じ市内に住んでるのよ。月に、一日、二日は休みがあるでしょう。徹夫兄さんの家から本家まで、車で十分もかからないじゃない。仕事終わりにでも二、三十分顔出すだけでも出来るでしょう」
「そう言うがな、いい大人が気侭に夜分遅くに顔出す訳にもいかんだろう」
叔母さんの感情論に、徹夫伯父さんが常識論で反論した。
「そんな冷たい事、よく言うわね~」
智子叔母さんが、会話を切るように言う。
「何も母さんを見捨てるとか、酷い扱いを受けてるのを放って置くって言ってるんじゃないだろう」
徹夫伯父さんの口調から苛立たしさが滲んでいる。
「兄さん。言っとくけど、私が相続放棄したのは、兄弟間で争うと、母さんが悲しむからその点で納得したんじゃないの。それを長男に強く言うくらいしたらどうなの?」
叔母さんの気持ちは解からなくも無いが、それは難しいと思う。一度、相続放棄してしまえば、もう何と言おうと後の祭りなのだ。
「智子。徹夫兄さんもそう言ってるんだから、もう少し様子を見ましょう。絹江さんが入院中なのに、あまりとやかく言えないでしょう」
「それはそうだけど………」
兄弟間で話し合いながら、話は纏まらない雰囲気になっている。
私は、そんな会話を漠然と聞きながら話し合いが終わるのを待っていた。
三
兄弟間で集まり話をした結果、しばらく静観することになった。皆の心内では、静観するのは短い間のことだろうという共通認識はあった。理由は、長男の人格を考慮すれば当然の見通しであった。それが、決して誤っていなかった事を裏付けた。
その報が入ったのは、半月が経過の木曜日の午後である。
桜条本家からの電話だった。受話器から聞こえるのは祖母の無気力な声だった。祖母のあまりの変化に母は、何があったのか聞いたが、電話では喋れないと言うばかりだったらしい。
だったら、タクシーで兄さんの家に行くように言ったが、すぐは都合が悪いと言って二日後に徹夫伯父さんの家で話を聞くことになった。
三男と母は都合が悪く行く事は出来なかったが、次男が母の家にまで来てくれて、加不足なく説明してくれることになった。
そして今、徹夫伯父さんの訪問を待っている状態だ。私も気になり、話に混ぜて貰うことにした。もしも、伯父さんが私の同席を嫌がれば外せばいいだけのことだ。
母と雑談をしていると、徹夫伯父さんが現れた。
伯父は仕事が終わって、早めに来てくれたのか、髪が乱れていた。もっとも、兄弟にそこまで気を遣うことも無いだろうし、その様な人間ではない。
リビングに通すと母と向かい合い話し始めた。
私は、お茶の用意をして持って行った。
「どうぞ」
お茶を差し出すと、徹夫伯父さんはすぐに口をつけた。
「私も居て良いかしら?」
二人に尋ねると、伯父さんはご自由にとばかりに興味のない視線を向けた。
私は母の隣に座り、口を開くのを待った。
「やれやれ、咽喉も潤ったところだし話すか」
徹夫伯父さんは、自分の膝をパンと叩くと前のめりになって喋り始めた。
「連絡を受けた翌日に、母さんの元気が無いって言うから迎えに行ったよ」
「話は聞けた?」
「あぁ、聞いた」
「なんて言ってるの?あの口調からだと、余程の事があったに違いないでしょう」
伯父さんは頭を乱雑に掻くと苦笑いを浮かべた。
「車の中でも喋らなくて、うちの家に入ってやっと喋ったよ。母さんが喋ったまま言うな」
私だけが小さく頷いた。
「朝八時くらいに部屋に長男が訪ねて来たらしい。母さんは、珍しいことがあるものだと感じたそうだ」
同じ屋敷内に住みながら、祖母がそう感じるということ自体が異様なことである。医療費の請求ですら喋る事無く領収書を渡すだけだから、驚きはしないけども。
「母さんは、訝しい思いを抱えながらも、息子から一緒に来て欲しいと言われれば行かざるを得ないからって、服も着替えず近所を歩くような服装で付いて行ったそうだ」
伯父は息を吸って続きを話す。
「で、玄関前に車が回してあって、『乗ってくれ』って言われて行き先も分からないまま、乗り込んだそうだ」
「どこに連れて行かれたの?」
母が聞いた。
「無言のまま車を走らせて、到着した場所が市役所だったそうだ」
「市役所?」
私は眉をしかめた。
「母さんは引っ張られるように連れて来られた場所が、相続相談窓口だったそうだ」
一呼吸入れて、徹夫伯父さんは続ける。
「窓口に座らされ、これから公正証書遺言を作成するからと言われて心底驚いたらしい」
「そりゃ、誰でも驚くわよ」
母が言う。
「でも、伯父さん。お祖母さんを連れて来ただけだと公正証書遺言は作成出来ないんじゃないの。確か、証人が必要だと思ったけど」
私が口を挟んだ。
「あぁ、必要な書類も証人も準備していたらしい。必要な証人が二人、その場に居たそうだよ」
「ほ~、それはまた恐れ入ったわねぇ~」
あまりに常識を逸脱した行動に、母の声が少しだけ上ずった。
かくいう私も声が出ない。
「その二人の証人は、十万払って雇ったらしいぞ」
「それで、お母さんはどうしたの?」
「母さんが言うには、役所の方や公証人にみっともない姿を見せられないからって、希望通りに不動産と預金貯金などは長男に全て相続させると言ったらしいぞ」
世間体を気にする祖母らしい言葉だった。この強引な策に対し、祖母は顔色を変えることは無かったが、胸の内は情けなさで占められていたことだろう。
「あんなに辛そうな母さん、久しぶりだったなぁ」
徹夫伯父さんは、バツが悪そうに呟いた。その呟きに、母も深く悩んだように頷いた。
「そういう理由で、あの電話になったわけね」
母が言うと、リビングは沈黙が支配した。徹夫伯父さんは、冷えたお茶を一気に飲み干して、身体を捻って伸びなどをしている。
「伯父さん。ところで、この件に対してお祖母さんはどうして欲しいって?」
私が気になる所を訊いた。
「そうだね~。母さんは、遺言を変えたがっているな」
「そうね。それにしても、あの長男は本当に………」
「近いうちに、公正証書遺言を作り直しに行けばいい。時機が合えば、兄弟の誰かが連れて行けばいいし、証人も知り合いにお願いすればいい。もっとも、今日、明日の事にはならないが、母さんも病とはいっても、すぐにどうこうなる事は無いだろう」
「そうね。来月の定期検査の時くらいに一緒にやりましょうか」
母が言うと、伯父は同意した。
「でも、長男が生前贈与を迫ってこないで良かったわね。強く出られて、生前贈与を終わらせていたら取り消すのは難しかったわよ」
確か、地方裁判所の判例で贈与の取り消しを認めた判決があったが、最高裁の決定ではないので時間と労力と金銭に見合うまでの価値はなかなかない。そうなれば、打つ手は限られた上に有効性も無かったろう。
「何で、より確実な方法を取らなかったのかしら?」
私の台詞で、母も伯父も笑い声を上げた。
理由は母が説明してくれた。
「理由は簡単よ。単に相続よりも贈与の方が税金が多めにかかるからよ。税率で言うと五倍違うんだから、不動産価値が良い分ちょっと馬鹿馬鹿しくなったんじゃないかしらね」
「昔からケチで、必要な金も使わない人間だったがな、今回はそれが吉と出たな。もっとも、生前贈与しろと言ってたら、母さんも声を荒げて口論になったかも知れないな」
徹夫伯父さんが、眉を掻きながら付け加えた。
「そう言えば、智子から電話があって聞いたんだけど、絹江さんの退院が決まったんだって?」
「らしいな。これ以上、回復は見込めないのか、自宅療養で十分な程目途がたったのかは分からないがな」
「そうね。でも、自宅に帰るなら、お母さんも苦労するわね」
「いやいや、苦労するのは芳郎兄さんだな」
「なぜ?」
「今でも頻繁に智子が行ってるんだ。絹江さんの世話を母さんにやらせようとすると、智子が黙ってないだろう」
私はその光景を容易に想像できた。
「母親の面倒を嫁が看るなら分かるけど、嫁の面倒を病気の姑が看るなんて順序が逆でしょう。それにお母さんからお金まで巻き上げてるんだから、人を雇いなさいよ」と言い出しそうだ。
母も同じ光景が見えたのか、笑いを押し殺そうとしていた。
「ま、長男も、これ以上は母さんにタカらんだろう」
徹夫伯父さんは、腕時計を見て立ちあがった。
「おお、もう帰るな。こんな時間まで居るとは思わなかった」
そして部屋を出る時、こう付け加えた。
「ともかくだ。監視なんかは智子に任せればいい。時間が有り余ってるからな」
そう言い残して、伯父さんはさっさと出て行った。
話が終わり、長男がここまで浅劣な人間だとは思わなかった。
「それにしても酷いわね」
こう言うと、母は軽く溜息を吐いて言った。
「昔からの事だけど、歳を取ってちょっと悪化してるわね」
「普通は、人間が丸くなって、こだわりなんか無くなるのにね」
「人間の性質って、そうそう変わらないわよ。偏屈な人間はやっぱり偏屈だしね。セコイ人間はセコイわよ」
母の台詞には妙な説得力があり、経験という実体験に裏打ちされた物の様に思えた。
私もそろそろ帰宅しようと思って立ち上がると、母に祖母の定期検査の送り迎えはしてくれるようにお願いされた。
私は笑顔で引き受けると実家を後にした。
四
過日の約束通り、私は祖母の定期検査に付き添った。医師が言うには、癌の進行は停滞しているらしい。老齢で身体も弱っているから、癌も元気が無くこれ以上は蝕めないそうだ。皮肉な理由だが、現状では祖母の体調は安定していて気遣ってさえいれば日常生活には支障はない。
祖母自身は、癌よりも脚の痛みの方が耐え難いらしく、質問は脚の事についてばかりだった。
農業で鍛えられた身体が、加齢と癌とで痩せ細り、脚も牛蒡の様になっていた。
ひとまず検査結果に安堵し、病院を後にすると祖母からお願いをされた。
「望。お祖父さんの墓参りに行きたいんだがね。一緒に行ってくれるかい?」
私は快諾すると、本家の玄関で待っていた。
祖母は、線香やロウソク、鎌や箒などの清掃道具一式を持って来て、私が重い物を持った。
祖父との会話なら仏壇で事足りそうに思うのだが、邪推をすれば、脚が悪いにも関わらず墓に行くのは、他の家族に邪魔されるのかもしれない。
ゆっくりと歩く祖母に合わせて、自分の足の運びも緩やかにする。
登り坂になり、祖母の足がさらに重くなった。
「すまないね~。こんな坂道、二、三年前には何でも無かったのに………情けないもんだよ」
「ゆっくりでいいから、無理しないで」
手を貸そうと思ったが、祖母は自身で歩きたいとばかりに先頭を進んでいる。
私は曲がった背中を見守ることにした。
日がよく照っているが、山の冷気に吐く息の白さが鮮明に見える。
二十分近く掛け、 山の中腹にある桜条本家の墓地へ到着した。通常であれば、七、八分で到着するのだが、祖母に合わせた結果であった。
本家の墓地は、山の斜面を削って造られていて、広さは二十平米ぐらいに感じた。山側はコンクリートで舗装され、崖側は木で足場が造られ、中心よりやや山寄りに大きな墓石が置かれている。
ちなみに何度、来ても造りの立派さに感心させられる。墓石があるが、ここは墓地と言うよりもテラスのような趣があった。
この墓地は、祖父が七十六の時に造ったものだ。もう一か所、墓地の候補地があったようだが、屋敷が見えるこの位置にとのことであったらしい。従って、桜条家先祖の墓もあり、この敷地奥にある山道をさらに五分程登って行けば、敷石で舗装された先祖代々の墓が三つ程並んでいる。
先祖の墓には、一度しか行った事がないけども良く手入れされているのは分かった。
桜条家は先祖を大切に供養するのが習慣になっている。
今居る本家墓地も、四年前の集中豪雨で足場の一角が崩れた。祖父は、すぐに安全性と体面を考慮してバルコニーを設置している。その為、墓地の三割ほどが上品なバルコニーの木材で足場が補強され、墓とは思えないほど落ち着いた雰囲気を醸し出しているのだ。この件は、孫の美穂の知人がウッドデッキを取り扱っているという事から、すべてを孫娘に任せたことで、この洒落たデッキが敷設されたらしい。
このデッキが出来て四年が経過していて、木材の色もくすみ、反りや割れが所々見えている。造りが悪かったのか、山中の環境が悪かったのか、考えていた以上に劣化が早く、そろそろ作り替える必要がある。
祖母が敷地に置かれた箒で落ち葉や枯れ枝を掃き集めた。私が掃き掃除を代わろうとすると、祖母は首を振った。
「これは私がやるよ。あと、言っておくがあそこには行きなすんな。一部だがね、木が傷んどるから」
祖母は、デッキの先を指差した。指差したウッドデッキは確かに変色し、木屑が散っていたりしていた。
私は、祖母が集めたゴミを袋に片づけていると、祖母が線香をひと束取り出して、火を点け、供えた。
墓石に手を合わせ、口が僅かに動いている。今、心の中で祖父と対話しているんだろう。
冷たく身を切るような乾いた風が吹く。首を竦め、腰を曲げるくらい冷えるが、祖母は何も感じないように続けている。
私も手を合わせて冥福を祈り、それから墓を見つめ、祖父の気持ちを考えた。
死期は分かっていたらしいが、祖父に準備は出来ていたのだろうか。恨み辛みの呪詛の声をノートにしたためて死んでいったなら、満足とは程遠いだろう。
さっきも桜条本家の屋敷を外側から見て、屋敷内だけでなく外観にも寂れた感が出ているのを見て情けなくなってきた。あの寂れ方をみると、祖父は達観していたのかもしれない。
線香の灰が崩れる。
「あと、何回墓参りができるかね~」
祖母が寂しそうに言った。
「何回でも。また一緒に来ればいいじゃない」
私が笑顔で答えると、祖母は力なく笑って、周囲に視線を向けた。
「この足場の木材もね。痛んで、腐ってるから造り直さないとね」
「ここの改修は、芳郎伯父さんにやって貰えばいいじゃない」
祖母が苦笑いした。
「そうあってくれれば、どれ程良いことか………。もう死ぬ人間が言うのもなんだがね、この家が立ち行くのか不安で仕方ないよ。お祖父さんは長男の人間性には諦めがついていてね。今は、わたしも同じ思いだよ」
私は何も言えず、聞くだけしかできない。
「長男だから厳しく躾けたし、我が儘を許さなかった事もあったがね。どこでどうなって、あんな風になったのか………」
声には、悲哀が籠っていた。
「お祖母さん。冷えるから帰ろうか」
歩き始めた祖母だが、口は閉じなかった。
「望。私はねぇ、心配なんだよ。芳郎が兄弟たちへ迷惑を掛けるんじゃないかって………。真面目に会社は勤めあげたけど、家の財産に恐ろしく執着してね。お祖父さんが生前贈与を兄弟たちにする時にも酷く反対してねぇ。『出て行った人間にやる必要は無いだろう』ってしきりに言ってたんだよ。お祖父さんが、『これほど財産を作れたのは子供らのお陰でもあるから分けないといかん』って言ってね。自分が死んだら相続でモメないように、回避の意味でも有無を言わさなかったのよ」
祖父の思惑通りなのか、偶然なのかは分からないが、兄弟は相続放棄をしたことは事実だ。
「芳郎の才覚では家は小さくなってしまうだろうね。男子もいないし、桜条本家も潰える。せめて、兄弟の分家に迷惑を掛けて欲しゅうはないよ。だから、兄弟たちがあんな長男でもたててくれて良かったよ」
「お祖母さん。それは違うよ。みんな芳郎伯父さんよりも、お祖母さんの事を考えたんだと思う」
「それでもね嬉しかったよ。だから、芳郎が暴走するようなら、私が止めにゃいかん」
祖母の瞳には鋭い真剣さが宿っていた。
息切れをしている祖母に付き添い、祖母の手を引くとマネキンの様に冷たい。急いで屋敷に入り、祖母を自室に座らせた。
「身体、温めないと………。温かい飲み物も用意するから」
台所へ向かい緑茶を入れ、祖母へ持って行った。
私も外の冷気で身体が冷えたのか、トイレへ急ぎ入った。用を足し終え、祖母の部屋へ向かっていると階段から誰か降りて来た。
挨拶をしようと階段へ数歩進むと、そこには絹江おばさんが白痴のように、ゆっくりと階段を下りてきた。
「お邪魔しています。御加減どうですか?」
声を掛けたが、反応は無いと言っていい。僅かに、こちらに視線を向けたが、それだけだ。
数秒間、無言のまま見つめ合った。
「あ~。望ちゃんじゃない」
二階から長女の春実さんが駆け下りて来た。
私は頭を下げて挨拶をした。
「久しぶりね~。お母さん、霜月にお嫁に行った東紀子さんの娘。望ちゃんよ」
母親の両肩に手を添えて説明していた。
「わかる?」
優しく訊いた春実さんに、絹江おばさんは顔を左右に振っただけだった。
「分からないわよね~」
笑みを浮かべる春実さんに、苦笑いで応えた。すぐに頭を下げる事で、この場を離れ、祖母の部屋へ向かった。
祖母の部屋に入って、話をし始めた時、春実さんが入って来た。お盆を手にしていて、お茶と和菓子が乗っていたが、それを置いても部屋から出て行く事は無かった。
居心地の悪さはあっても、すぐに帰るのも感じが悪いかなと思い、和菓子を楊枝で突いたりしていた。
「望ちゃん。今日は御祖母ちゃんを病院へ連れて行ってくれてありがとうね~」
「いえいえ。お礼を言われる事はしてないですよ」
「本当は、私たちの姉妹が連れて行けばいいんだろうけど、お母さんがあんな感じになったでしょう。そこまで手が回らなくてね~」
話の内容から娘たちが母親の世話をしているようだ。これも智子叔母さんのお陰だ。
それにしても、上から目線で勝ち誇った口調が、私に対しての優越感の現れである事は容易に分かる。妙に鼻に掛けた言い回しもそういうことだろう。
帰ろうとバックを手に取ると、春実さんは会話を一方的に始めた。
「望ちゃんはいいわね~。そのバックはブランド物でしょう?いいわね~。私なんて、子供にお金がかかっちゃってそんな高価な物なんて買えないわよ」
「はぁ、そうですか………」
興味ない返事を露骨に返すと、イラついた目を向けられた。
「近くに、お金を掠め取ろうとしている人間がいたりするから、警戒しなきゃいけなかったり、もう大変で~」
「そうですか、気苦労が絶えませんね」
そう答えると、馬鹿にしたような顔になった。「お前の事を言ってるんだよ」とでも思っているのだろう。こちらも、杞憂や取り越し苦労と同じ意味で気苦労という単語を選別したのだが、理解して貰えなかったようだ。
遠回りに罵倒にされるのも十分だろうと思い、私は席を立った。
腹が立った私だが、春実さんにお茶とお菓子のお礼を言っておくところが、自分でも律儀だなとは思った。
玄関まで祖母が送ってくれて、別れ際に呟いた。
「今日はありがとうね。お祖父さんの御墓まで付き合ってもらってね。春実の言う事は聞き流しときな」
「気にしてないから」
笑顔で答えると、祖母は茶封筒を差し出した。
「これ少ないけど持って帰り」
中身は現金だということは分かっている。断ろうと思ったが、ここで押し問答するとまた春実さんに嫌みを言われ兼ねないと思い、すんなりと受け取った。
目でお礼を言うと、祖母も笑顔で応えてくれた。
「早くお帰り………」
私は、軽く手を振って玄関を出た。
鉛色の空が、辺りを重たく感じさせるように染めていた。肌を剃刀で切るような風が吹く。
車のドアを手にして、桜条家を振り向き見る。すると、その屋敷は見知った建物だが、もはや別の屋敷に思えた。
暗く、生気が無く、重苦しい。建て物は綺麗だが、廃屋の一歩手前の雰囲気を醸し出していた。
この時、祖母が亡くなれば、ここに来る事は無くなるだろうと確信していた。
五
春が訪れるよりも先に祖母の体調が悪化し入院した。悪化の理由は、癌ではなく老齢による免疫の低下によるリューマチの悪化や体重の減少などだ。
入院してから半月程経過していて、仕事が忙しくなりなかなか見舞いには行けなかったが、今日やっと時間が出来て母と共に病院へと向かっていた。車内での母との会話が印象的だった。
「長男、母さんが入院しているのに一度も見舞いに来ていないらしいわよ」
「都合の良い公正証書遺言を持ってるから………」
私は、苦笑した顔を作ると、母が笑いを込めて喋り出した。
「本当に、分かり易いわよね。まったく、現金というかなんというか………。ともかく、早めに遺言を書き直さないとね」
最後はしみじみと言った。
病室に入ると、祖母がベッドに横たわっていた。細い身体がさらに痩せ細り、骨と皮しか残っていない様に思えた。
「母さん、具合はどう?」
母が何も気に掛けることなく明るく訊いた。
祖母は身体を起こして歓迎してくれた。
「遠いのによう来てくれた」
祖母は椅子を勧めてくれ、二人で腰掛けた。
次男も三男も見舞いにはちょくちょく来るらしく、不便にならない様に世話を焼いてくれるそうだ。それに、室内にはお菓子の箱が積み上げられていることから、見舞客が来るのだろう。
枕元の机を見るとお守りの塊があり、あまりの数の多さにうんざりするようだ。祖母を想ってくれるのは理解できるものの、お守りぐらいしか持って来れないということが見え透いていた。
祖母と母は親子の会話を始めた。
私は変に会話に入らずに見守っている。
「大分、体調が良くなってね。この調子なら家に帰れそうだよ」
「そうねぇ。歩けるようにもなったし」
「六十代の頃ですら、こんなに足腰が弱るなんて考えもしなかったよ」
「母さん、若い頃は米俵二俵も担いでたものね~」
「あの頃は、必死だったから。東紀子にも苦労をかけた」
祖母がしみじみと言う。その問い掛けに、母は否定も肯定もしなかった。
「徹夫兄さんや、健も良く来ているし、智子も顔見せてるんでしょ」
「あぁ、でも、智子は来過ぎだわ。あんなに来られると、気が休まらん」
長男のことには触れず話を進めようとしたが、祖母はそんな配慮も気にせず口にした。
「芳郎は本当にどうしようもない………。一度も顔を出さず、言付けすらない」
母は言葉を発する事無く、祖母の話を聞くだけだった。
「私はね、もうここで死ぬよ」
「母さん」
「いいんだよ。あの家は、おじいさんが死んで酷く居心地の悪い場所になったから………」
祖母は、溜息を一つ吐いて続ける。
「おじいさんには感謝してる。結婚した当初は貧しくてね………。それでも、おじいさんだからここまでやってこれた。歳を取って、これだけの財産を残したし、自分が死んでも私が困らない様にって預貯金を渡してくれた。おじいさんが死ぬ前に言ってくれたんだよ。『お前が金で苦労しない様にしておくからな』。しかも、預貯金だけでなく、月々の収入が入ると安心だろうからって、家賃収入が入って来るようにしてくれたんだよ。お陰で、歳を取っても、お金で惨めな思いはしなくて済んだ」
病で青白くなった顔に、幸福感が気色ばんだ。
「おじいさんと結婚して本当に良かったよ」
祖母の口から魂で紡がれた言葉が織り成された。
「母さん。せっかく元気になってるんだから、死ぬことばかり言わないのよ。最近、食欲はあるの?」
「それより、最後に一度、家に帰りたいねぇ。一日、いや半日でいいから、帰れないもんかね~」
「徹夫兄さんや担当の先生に訊いておくわ」
「半日あれば、お迎えの準備が出来るからね。おじいさんに説明もできるし………」
子供っぽい表情を浮かべた祖母、一度の帰宅を楽しみにしているその姿に、私は哀愁を覚えた。
祖母は水差しで咽喉を潤す。
「これ以上、徹夫に迷惑かけとうはないな」
「兄さんは迷惑なんて思ってないわよ」
「実はね、入院直前に徹夫が腹を立ててね。徹夫と芳郎が口論になってね。徹夫の優しさは嬉しいが、もう長くない人間に気を遣って、兄弟仲が悪くなって欲しゅうない」
この言葉は、兄弟の相続放棄の決定が、どれ程に祖母の救いになっていたか分かろうというものだ。
「外出の件、先生に訊いてきてくれないかい?」
一時帰宅を考えて、祖母は待てなくなったようで、話だけでも病院側に通したくなったようだ。子供の様な表情に私は笑ってしまった。
母親も顔を緩ませて答えた。
「私が勝手に決める訳にはいかないから、兄さんに電話してから先生に訊いてみるから」
母は席を立って、携帯電話で徹夫伯父さんに連絡を取り始めた。
「望。今日はありがとうね。もう長く生きられないだろうけど、今日で今生の別れだと思ってもらって構わないからね」
私は苦笑いして否定する。それでも、祖母は引かなかった。
「おそらく、もうひと月も生きられないから、それは分かるんだよ」
優しい視線を向けて微笑んだ祖母は、菩薩のような清々しさを感じた。
「最後に墓地の足場の作り直しを頼んでおけば思い残すことは無いよ」
私はもう何も言わなかった。祖母の強い想いを否定するのは憚られたからだ。
「そうだ。家に葬儀までに寝かせる布団だけど、良いのを買ってあるから、数時間のことだからあれを後日取りに来なさい。部屋に勝手に入っていいから」
頷くしかできない私に祖母はどこまでも優しい口調だった。
そうこうしていると、母が帰って来た。
「母さん。兄さんと話したら、好きなようにさせてやれって」
「そうかい」
「先生に会いに行って、話しをしたら、今日、明日と様子を見ましょうって言われたわよ」
「そうかい」
「早ければ、二、三日後には帰れるんじゃないかしら」
母から言われ、嬉しそうにしている祖母を見れて私も嬉しくなった。
その後も祖母が疲れるまで話をして、ベッドに横になったのを見てから病室を後にした。私も別れは軽く「また来るから」と言っただけだ。
母親の顔を見ると、少しだけ安堵した様子だった。それでも、死は間近まで迫っている。本人の自覚がある以上、下手な気休めも出来ない。それでも、最後は気持ち良く別れられ、半日でも帰宅するという目標が出来て気力が出たのは、良かったと思う。
担当の看護師さんに挨拶をして、菓子折りを差し出して帰宅の途についた。