二章
一
母との会話を終え、夫の所へ向かっていたら、自動販売機の置かれた広めの廊下で新條お婆さんと出会った。
新條さんの枯れ枝のような小さく細い手に、小さなペットボトル容器が握られている。痩せ型で肉が落ちているが、肌は白く、酷い染みなど無かった。
会釈をして通り過ぎようと思った時、柔らかな声を投げかけられた。
「望さん」
視線を合わせ、お婆さんの方へ向いた。
「先程は失礼しました」
「いえいえ、こちらこそ。途中で話を切るような事をしてしまいまして。よかったら、これから少し、御茶でもいかが?」
柔和な人間性に加え、長年積み重ねた苦労の数が、さらに人格に磨きをかけたらしく、菩薩のような雰囲気を漂わせている。
その柔らかな空気に、引き込まれるように微笑み頷いてしまった。
新條さんがもう一つお茶を買い、私に渡してくれた。お礼を口にして、自動販売機近くの長椅子に腰かけた。
「望さん。今回は御愁傷様でした」
「お心遣い、痛み入ります。祖父にも予感のようなものがあったようでしたから」
「いえね。それで驚いたんですよ。亡くなる一週間前に、家に来て『今までお世話になった方に挨拶をして回っている』って言うじゃないの。話す内容も、これまで世話になっただの、感謝しているのだの死を匂わせる様なものばかりだったの。元気そうだったから、笑顔で聞いて別れたんだけど、それから幾日も経たないうちに葬儀じゃない。本当に驚いてね~」
しみじみと口にした新條さんは、手にしているお茶を啜った。
「そうですね。人は死に直面すると、何かを悟るものなのですかね?」
「いまの私にはまったく解からないけど、もうすぐだから解かったら教えるわ」
笑顔を向けて冗談で答えてくれた。
「祖父とは親しい間柄だったんですね」
「タツさんと同じ地区で育ったからね。山の奥で田んぼも小さいのばかりで、ほとんど畑ばかりだった。今日に至っても、たいして開発もされていないけども、道路や街灯が設置されて夜も歩けるようになったわね」
「はぁ」
想像もできない事を話され、生返事をする。それに気が付いてくれたらしく、話を元に戻してくれた。
「ごめんなさい。話が逸れてしまいましたね。善興さんのことでしたね」
優しく言ってくれ、私はそれに微笑んで応えた。
「あなたのお祖父さん。善興さんは苦労人でねぇ。家族関係が難しいから」
「家族関係ですか?」
「知らなかったら、教えるのは控えた方がいいかしら」
「いえ、この機会によかったら教えて頂ければ」
「そうね。お祖父さんが亡くなってしまうと、なかなかそんな話にならないでしょうしね」
新條お婆さんは、僅かに目を細めて話し始める。
私も、背筋を伸ばし、敬意を払う姿勢をとった。
「善興さんは、四歳の時に父親を亡くしましてね」
初耳だった。
「そうだったんですか」
「そう。父親は船の事故で亡くなってね。奥さんは、息子二人とお姑さんとが残されて、大きな家の長男だったから血縁者が騒いでね。まだ跡取りが必要だってなったのよ。そこで再婚話が出て来たの」
「再婚ですか?」
いまいちピンと来ない。お姑さんが存命で直系の息子がいて、婿養子を取るにしても、他家の婿が桜条家の財産を自由にする事を良しとはしないだろう。
「そう、再婚したのよ。弟さんとね」
「弟さんと?」
「そう。弟さんは、死んだお兄さんの嫁さんと結婚したんだよ。これは、色々な利点があったの。残された奥さんと子供の面倒をみる者が出来る。しかも、他家の血が入らず、財産の継承問題が親の目から見ても次男への譲渡という点で安心できる。孫ともこれまで通りという点も大きいでしょう」
「待ってください」
整然と説明するお婆さんに異議を差し挟んだ。
「説明してくれた利点は解かります。ですが、最大の問題になりそうな点が無視されてます」
「なんでしょう?」
何でしょうという言葉が返って来るとは思わなかった。ここでの一番の問題は、双方の気持ちの問題だ。子持ちの未亡人となった奥さんは兎も角、弟さんの方は女である自分から気持ちを推し量っても複雑なものになる。外野の思惑のように、巧くいくとはとても思えなかった。
「弟さんの気持ちですよ。弟さん、嫌がらなかったんですか?」
「そうね。その事を話さないといけなかったわね。弟さんには、お母さんが話したらしいわ。弟さんは予想通り、いえ、予想以上にこの話を嫌がった。正確に言うなら、拒絶と言い換えてよい程に………」
至極、正常な反応だと思う。初婚で結婚相手が、二人の子持ちで、しかも、元兄の嫁だといわれれば、考えるまでもなく断るというのが普通だろう。女の自分でも、話を聞いただけで複雑な心境なのだ。男の人になれば尚のことだろう。
そうだろうと云わんばかりの表情をすると、それを見て新條さんが続きを話し始める。
「弟さんの、嫌がり様は凄かったと聞きましたよ。もっともなことです。お兄さんのお古でしょう。そりゃ、ちゃんとした娘さんが欲しかったでしょうよ。場所的にも血縁的にも近しい人間は、皆が知ることになるんだし、陰でどう言われるかわからんしねぇ」
「そうですね。にも拘わらず、よく纏まりましたね」
「私も親から聞いた話だから詳しくは知らないけど、結局は、奥さんと子供たちをどうするんだ、って話になったらしいですよ」
大正時代の頃だ。母子家庭で生きていくのは現代の苦労の比ではないだろう。母性保護という思想もあったと記憶しているが、実際に権利を勝ち得ていくのは戦後からずっと後の事になる。どのように狡知かつ巧みな駆け引きを行い説得したのか知れないが、結果として弟さんは結婚している。それは、諦めなのか優しさなのかは判断が着かないまでも、自己犠牲には違いない。
そして、新條さんが家族構成を説明してくれる。
「再婚した母親は、新しく夫になった弟さんと上手くやっていたらしいですよ。息子たちとの関係は父親みたいに愛情ある接し方とはいかないものの、最低限の世話はしてくれたと聞いています。その後、二人の子供を儲けて四人兄弟になった時、他家から養子の話が持ち込まれてね。土地持ちの桜条家だったけど、社会が不安定で口減らしの為に、兄の子供の次男。善興さんの弟さんが養子に行ったのよ。その時、善興さんは物心がついていたけど、長男と云うこともあって、候補に挙がらなかったらしいわ」
「そうですか………」
養子話は本当だったとしても、丁度良い厄介払いの機会とでも捉えたのだろう。いや、そこまで邪推するのは考え過ぎかもしれないが、この邪推は拭いきれもしない。
「父親は、当然我が子を可愛がるようになるんですが、虐待などはなかったらしいです。ですが、善興さんに対しては冷淡な態度だったと聞きました。母親も暴力など振るわれないなら、と考えていたんじゃないかしらね」
「そうかも知れませんね」
「それから、他人の家での暮らし、とまでは言わないまでも、遠慮がちに暮らしていたそうよ。唯一、祖母が味方だったそうだけども、尋常小学校を卒業する前には亡くなってねぇ。高等小学校に行く事無く、働き始めたそうだよ」
そこまで話して、新條さんはお茶を口に含んで喉を潤わせると、話を続けた。
「十七歳まで、家業の農業を手伝っていたが、家を出て自立するにあたって、義父から桜条家の長男として財産分与をしてもらったそうです。どうやら亡き実父と直系男子への考慮らしいです。その結果、田んぼを二反と道具小屋に使っていたあばら家を貰えたそうよ」
私は、眉間に皺を寄せた。桜条家の財産からすれば、長男の取り分を考えれば少なすぎる。
「自立という名の縁切りですか?」
「そこまでの意味は無いのかもしれません。それでも、距離を置けということなのは確かでしょうねぇ」
「母親は、何も言わなかったんでしょうか?」
「言えないでしょうね。負い目もありますし、一応、長男も自立するまで世話してくれたんだから………。それに、まだ下に二人も子供がおり、自分には収入も財産も無い。そうなれば、実の子を憂慮しても、夫の意には逆らえないでしょうな。なによりも戦前の話ですしな………」
新條さんは、重たい口調で説明してくれた。
「それにしても、雀の涙ほどのモノで縁切りなんて………」
「でも、そんなもんですよ。二反の水田が貰えただけでもありがたいと思わないとねぇ」
戦前の年寄りの感覚では、世話してくれただけでも御の字のようだ。戦後でも、高度経済成長を終えた年に生まれた人間とでは価値観や思考に大きなズレがあるのだろう。時代間意識差はどうしようもなく、それ以上は触れずに話を進めることにした。
「お祖父さんの、自立してからの暮らしぶりはどうだったんですか?」
「それからの暮らしは大変だったらしいですよ。一人で田んぼを耕して、収穫時には、近所の人に手伝って貰って。皆、事情は知っておりますから。その点では、皆が優しくしてくれたそうです」
その光景は、脳裏に生々しく浮かんだ。この地域に限らないが、人は相手の不幸を知っていれば、幾分優しく接する事が出来るらしく、哀れみと身内の教訓を兼ねて融通を利かせてくれる。無論、弱者に対して、更なる悪意を向ける人間もいるが、つまはじきにされても桜条家の名が幾分抑えてくれたらしい。実母は存命であり、義父には好かれなかったが、世間体を気にする方だとしみじみと教えて頂いた。
「あら、お久しぶりね。お二人さん」
小さな鈴が鳴ったような声色で呼びかけられた。
二人して声の主を見ると、愛らしくも上品な面持ちの老婆が着物姿で柔和な視線を向けていた。何処かで見た御人ではあるのだが、名前が出てこない。新條さんに視線を向けた時、二人は話し始めた。
「こりゃ、津嘉山さん。来とりましたか?」
「えぇ、桜条さんには世話になりましたからな。新條さん、御身体は良くなりましたか?」
「もう良くはなりませんよ。これ以上、悪くならないようにするだけです。津嘉山さんも」
そう言って、新條さんは膝とお腹を擦った。
この会話のお陰で、津嘉山さんを思い出した。
昨年の夏に、祖父母の家に挨拶に行った。一通りの話を終え、帰ろうとした時にお見えになったのが津嘉山さんだった。
祖母が私のことを自慢の孫だと紹介してくれた。
津嘉山さんは、祖母と同い年だと聞いたが、容姿に大きな開きがあった。特に服装などの身だしなみの気遣い方に大きな差があった。祖母は、長年の野良仕事で肌も浅黒く、手も荒れて、顔には深い皺が刻まれている。反対に津嘉山さんはというと、野良仕事はおろか家事もやっているのか怪しい程の手入れのいき届いた指先、肌も余程に手入れをしているらしく、張りは無くなっているものの深い皺や染みなどは無い。着ている服も、上等な物とすぐに判るくらいだから、お金持ちの奥さんなのだろう。
そこまで思い出し、私は声を掛けた。
「津嘉山さん。昨年のお盆以来ですね。お久しぶりです」
「東紀子さんの娘さんで、望さん、でしたよね?」
「はい。この度は、祖父の葬儀にお越し下さり有り難うございます」
丁寧にお礼を述べると、津嘉山さんも丁寧かつ品ある所作で返礼をしてくれた。その後、新條さんと津嘉山さんは、昔話を始めたので邪魔をしないようにここの席を譲って去った。
祖父の話は途中で終わってしまった。しかし、自立するまでの流れは判った。
時計を見ると、まだ一時間しか経ってなく、ひとまず夫の所へ向かうことにした。
二
話を終え、二部屋割り当てられた待合室の一つに入ると、各家で分かれてはいるものの和室は血族で埋められていた。父親が手を上げて呼んでくれ、霜月家の輪に加わる。父と夫が話をしているが、母の姿は見えない。まだ、祖母と話をしているのかもしれない。
「随分と長かったね」
夫が言った。
「知ってるお婆さんと会って、話をしていたのよ」
そう答えると、夫は納得して、室内に置かれていた茶菓子を差し出してくれた。
小指の先ほどの和菓子を手にとって、包んでいる和紙を剥ぐと口に含んだ。口に広がる糖の甘み、新條さんから頂いたお茶で流し込んだ。
一服した所で、母親が現れた。
「母さん。お祖母さん、どうだった?」
「お祖父さんの遺体が焼却炉に入って、本当の別れが済んだみたい。また、遺骨を見た時に悲しみが増すだろうけど。あとは、乗り越えるしかないからねぇ」
母はこう口にした。
今日の祖母の姿を思い浮かべる。和服姿で、ハンカチを手に目を腫れさせて泣いている光景は、祖父を亡くした悲しみ以上に何かある様に思えた。
「お祖母さんの涙の流し方なんだけど、お祖父さんが無くなった悲しみもあるんだろうけど、なんだかそれだけじゃないような感じじゃない?」
言い終わると同時に、刹那、母が驚きの視線を向けた。
「何かあったの?」
小声で聞くと、母も小声で呟いた。
「よく気付いたわね。でもね、此処じゃ言えないから、帰ってから話してあげるわ」
声の高さから、私も内容を察して頷いた。
「望も誰かと会話していたと聞いたけど」
「新條のお婆さんと………」
「そう。新條さんところは、お祖父さんにアパート経営の経験を教えてくれたりして、お世話になってるからねぇ」
「そうなんだ。桜条家と懇意にしているっていうだけでも、かなりの資産家なんだろうけど、どれくらい凄いの?」
「そうねぇ。アパートを六棟、マンション一棟って言ってたかしら。あと、駅近くの商店街の駐車場あるでしょ。あれは、新條さんのところのものだし、港の付近の合成繊維メーカーに結構広い土地を貸してるらしいわ」
「すご~い。駅前の駐車場ってあそこ一等地じゃない。駐車場だったら、かなり利益があるじゃない。それに、あの商業地を駐車場にしているなら売ってくれって来ないの?」
「不動産の収入だけで、月に三百万程はあるでしょうね。土地を売って欲しいって話が、幾度となく持ちかけられるらしいけど、あの土地は大手企業にでも貸したいんでしょう。ビルを建てる広さもないし、大手が周辺を買い取ってくれればと考えているんじゃない?わからないけどね」
母の情報を聞くと、かなりの資産家ぶりだ。桜条家もアパートやマンションがあるが、そこまでの立地条件の良い場所ではない。
「で、何を話していたの?」
母から聞かれた。
「お祖父さんの事を聞いていたのよ。どんな人生を送って来たんでしょうかって?」
新條さんからどんなことを言われたか気にしている風だったが、今話すのは止めておいた。しかし、一応どこまで話をしたのかは伝えることにした。
「新條さんからは、お祖父さんが自立するところまで聞いたんだけど。そこからは、人が来て話せなくなったの。それからの事を聞きたかったんだけどね。母さん、知ってる?」
「まあ、いくらかは知ってるけどねぇ」
そう言って、小声でこう付け加えた。
「ざっとなぞる様になるだろうけど、教えてあげるわ」
顔を少し近づけるようにと手招きをすると口を動かし始めた。
「お祖父さんがね、田んぼを貰って自立したんだけど、何でも一人でするには無理があってね。早く、奥さんを貰って家族でやっていけば楽になるからと、何人かと見合いをしたそうよ。それで、お祖母ちゃんと結婚したのよ」
「選んだ理由とかって知ってる?」
「本当かどうかは知らないけど、よく働くと近所での評価を聞いて決めたらしいわ」
「そうなの?色気の無い話じゃない」
「でも、戦前なんて、そんなものよ。お祖父さんも生きていくので精一杯だもの………」
母の言葉が急に失速した。
「どうしたの?」
「それがね。数年前の事を思い出してね」
「何?」
「お祖父さんと健が、実家の縁側に座って話してたのよ。その話って言うのがね、お祖父さんが結婚に関して、こう言ったそうよ。『本当はあっちの方が、嫁に欲しかったんだ』って」
「あっちって?」
「弟が言うには、津嘉山さんに嫁いだ人らしいわ」
その名前をきくと、すぐに人物が思い浮かんだ。先程、新條さんと話をしていた時、現れたとても上品なお婆さんだった。お金持ちに嫁いだ事は服装を見ればわかるが、それだけでなく、身だしなみも良く整っていて、髪や指先などの手入れも年寄りとは思えない程の艶やかさだった。
彼女の姿を見た上で、感想を口にした。
「あの人が、お祖父さんの結婚相手にね~」
「知ってるの?」
「さっき新條さんと話している時に会ったのよ。挨拶した程度だけど」
母親の表情を見てから、一呼吸置いて続けた。
「あの人を奥さんに貰わなくてよかったじゃない。あの人が働くとは思えないよ。もし結婚してたら、こんなに財産残ってないわよ。いくら綺麗でも、使うばかりで稼がない奥さんっていうのは、家自体を屋台骨から揺るがして潰しかねないわよ。只でさえ、お祖父さんは親や異父兄弟に財産を取られているのに」
なぜか無性に腹立たしくなり、早口になっていた。
「望。結果的に、お祖父さんは良い判断をしたのよ。もちろん結婚する時には、貧しくてあの人に結婚相手として認識されなかったかもしれないけど、今の桜条家は沢山の資産を持つ様になったんだから」
それを聞いて、口を閉じた。母から津嘉山家のことを聞くと。確かに、嫁ぎ先で良い暮らしをしているのだろうが、家は全く大きくはなっていない。好景気でも事業拡大はしてなく、ここ最近の不況で財務が悪化しているらしい。ま、あくまでも噂である。
「話が逸れたわね。戻して、進めるわね」
母が雰囲気を切り替えた。
「どういう経緯があったにしろ、お祖父さんはお祖母さんと結婚して、本格的に農業をやり始めたのよ。結婚当初は、本当に貧しくて、農家だけでは生活は成り立たないから土方で働いていたそうよ。それでも、不況が追い打ちを掛けていったの。お祖父さんもお祖母さんも、食べるものも食べないで、とにかく頑張って働いて、売りだしていた土地を買っていったのよ。今住んでる土地だって、下の弟が売り出した先祖の土地を買い戻したんだから」
「そうなの?」
「そうよ。弟や妹に多くの財産が譲られたんだけど、戦争中にはあらかた無くなっていたらしいわ。逆に、お祖父さんは人の何倍も働いて、お金を貯めて、土地を買っていたのよ」
「その時に買った土地って、農地ばかりなの?」
「そうね。米を作ってたからね。大半が田んぼで、山に畑が少しあったかしら」
「二つの国道の合流地点から川沿いに山間部の方へ進むと広い水田持ってたよね。あれ、戦前にあったの?」
「そうよ。買った土地で、米を作って、何人かの小作人を雇ってたのよ。その利益で、また少しでも土地を買っていったの。牛も飼ってねぇ、少しでも効率良く仕事がはかどればと思ったんだけど、その牛がまったく働かなくてね~。一年過ぎたくらいで売ったそうよ」
その牛は、他に耕作・開墾用として売られたのか、食肉用として潰されたのかは判らないが、牛ももう少し動けば、違った感じになったのかも知れない。桜条家の人間の性格を考えれば、使えない牛などに飯を食わせる価値を見出すとは思えない。
「それでね。結局、戦争中も食うや食わずで働いてね。農業だけじゃなく、お祖父さんは外にも働きに行ったらしいわ。お祖父さんが言ってたけども、あの時期は朝から晩まで土方で働いて、御給金ではなく、握り飯をくれたらしいわ。それでも、ある程度食えるだけでもありがたかったらしくて、多くの人が来たらしいわ」
「そんなに食べ物が無かったのね~」
「そうよ。うちのお義母さんが言ってたのは、戦争も長期化すると配給量が不足するようになったらしくて、米も無くなって片栗粉を貰ったらしいわ」
「片栗粉?」
「そう、片栗粉だけらしいのよ」
「で、どうやって食べたの?」
「水で溶いて飲んだらしいわよ」
「それって料理?」
「料理じゃないでしょ。それに、片栗粉だけだと調理しようもないでしょう」
確かにその通りだと思い頷いた。
「ともかく、苦労や貧乏をしながらも、その頃には多くの土地を買っていて、地主として農業をやって、戦時中も貧しいがひもじい思いをすることはなかったのよ。よく桜条の家には街から食べ物を分けてくれって来たものよ」
「当時は、お金よりも食糧でしょ?お金で食糧とか売るの?」
「お金で売ってくれって言うのは珍しいんじゃないかしら。当時は現金は信用できない物だったらしいし。大体は、物々交換だったと思うわよ。服とか着物とか。もっとも、私も戦後のことしか記憶が無いからね」
「玉音放送とか知らないの?」
「知らないわよ。お父さんはおぼろげに記憶にあるらしいけど」
そう言うと、ことさら母は戦後生まれだと口にするが、どう贔屓目に見たとしても戦中生まれには変わりなかった。
火葬が終了したとアナウンスが流れ、控室の空気が乱れた。親族の何人かは、既に席を立ち部屋を出ている。
「要は、お祖父さんは桜条一族のどこよりも、どの兄弟よりも苦労したけど、一番財産を築いたのよ」
会話はここで打ち切られ、霜月家の者も火葬炉前へと向かう。
和室入口に脱ぎ置かれていた靴はあらかた無くなり、自分の靴を捜した。何度見ても、似たのはあるが自分の靴が無い。誰かが間違えて履いて行ったのだろう。
仕方なく一番似ている靴を履くと、少し小さかったようで足を締め付けられた。
他の家族は問題無かったらしく、さっさと行ってしまった。状況が状況で仕方ないと思う。新しい靴ではないから、無くしても惜しくないが、不快さばかりはどうしようもなかった。
私は足に合わない靴を履いて火葬炉に向かった。
三
速足で火葬炉へ向かうと、既に大勢の参列者でごった返していた。桜条本家の人間が前面に並び、直系婚族、傍系婚族、傍系血族と続き、周囲を友人、知人などが囲んでいた。
乱雑に立っている人々を避けながら両親や夫と合流した。
「まだ出てきてないのね」
「そうね。思ったよりも時間かかってるわね」
母親が答えた。
辺りには防虫剤の香りが微かに漂っている。喪服を長らく箪笥の肥やしにしていたのだろう。香りの元は誰か判らないが、四、五人はいるようで種類の異なる匂いがしている。
本家の娘の子供たちが、人を縫うようにウロウロ歩いている。場の空気が重苦しいだけに、可愛いらしさよりも落ち着きの無い子だと判断してしまう。
その中の一人が、五歳ぐらいの女の子が、私の前に立ち止まり声を上げた。
「あったよ。ママ」
現れた母親は、長男の次女美穂さんだった。
「ママ。この靴だよ。この靴が、ママの無くなった靴」
美穂さんの娘が指さして言った。
この子の口調が余りに強く、まるで私が靴を盗ったかのように聞こえる。この性格はどこに起因するのか考えた。
親の性格を受け継いでいるものなのか、単に躾がなっていないのか。それとも美穂さんが、誤解に基く偏見で私の悪口を子供に聞かせているのだろうか。
子供の強烈な口調と落ち着きのない態度から、母親の性格と教育に起因すると断を下した。
そんな事よりも、私は事情を説明するようにと視線で訴えると、美穂さんは瞼で頷いた。
「私の靴が無くなってね。おそらく、誰かが間違えて履いて行ったんでしょうけど。それで仕方なく似たような靴を履いたんだけど、足に合わなくてね。娘はそれを気にかけて探してくれてたのよ」
「ねぇ、ママ。このおばちゃんが履いてるのが、ママのだよ」
娘は、母親に抱きつくように言った。
「美穂さん。この靴、私の物じゃないの。私も間違われて、仕方なく残った靴を履いたんだけど。これなの?」
そう言って、右足を半歩出した。
「ねぇ、ママ。絶対コレだって!」
娘は、母親の腕を取ってぶら下がる様に身体を上下させながら言っている。
この靴は、絶対に美穂さんの物ではない。なぜ解るかというのは、理屈は簡単だ。
美穂さんの足の大きさは、私のより大きいからである。身長は私より八センチも高く、スポーツで鍛えていたから体型もがっしりしている。無論、身体が大きい人間は、小さい人間よりも足が大きいと断言する気は無いが、可能性は非常に高い。予想外になるけども、纏足でもしていれば別だが、スポーツをして、今こうして子供を支えている以上、可能性は微塵も無いだろう。
「ママ。コレだって!」
美穂さんの子供は、相変わらず強い口調で言っている。子供とはいえ、目の前の靴を比べてみるという事すらできないのだろうか。二十二.五センチの私でも圧迫される靴なのだ。二十四センチ以上ありそうな足の母親に入る訳もない。
美穂さんは、チラッと靴を見てそれが判ったのだろう。何も言ってこない。
「ねぇ、ママ~」
美穂さんも、同じ言葉を繰り返している我が娘に、なぜ説明しないのか理解に苦しむ。子供の優しさや正義感を傷つけるとでも思っているのだろうか。
この子が人混みの中で騒ぐ為、数人がチラチラとこちらを見だしている。
仕方なく私が口を開いた。
「この靴は、お母さんのじゃないと思うわよ。私でも足が痛いくらい小さいんだもの。お母さんには合わないわよ」
こう言ったのだが、この娘は不貞腐れたような顔をした。美穂さんが娘の手を引き、連れて行こうとするが、まだ娘は納得出来ないらしく「あれが、お母さんのだよ」と繰り返している。
あまりの我の強さに辟易するような子供だ。私にはまだ子供がいないから分からないが、これが普通なのだろうか。
そうこうしている内にお骨が中央に置かれた。
運ばれて来た人骨は、上半身が細く、下半身はしっかりしていた。特に、脚の骨。確か、大腿骨、脛骨の太さは立派なもので、野良仕事で鍛えた足腰は九十を過ぎた老人のものとは思えないほどだった。
火葬場の職員らしき人から説明があり、お骨拾いを始める。足先から拾い始め、頭部へと向かう。
自分も箸で骨を拾い、骨壷に入れた。本家の人間から祖母へと箸が渡り、喉仏を取って、頭蓋骨に関しての説明に入った。
職員が白手袋を着用し、頭蓋骨を手にすると指の関節で各所を叩いて納骨しやすいように割って骨壷に入れる。
骨壷の中で、故人が立っているように遺骨を入れるのだと説明を受けた。
これにてお骨拾いは終了らしく、余った骨がどうなるのか気になったが、本家の人間が嘴を挟まない以上、私がどうこう言う訳にはいかなかった。
骨壷は祖母が持ち、涙を流していた。
母から、これから一度本家へ帰り、環骨勤行を行うと聞かされた。
喪主の長男が多忙にしているのは仕方ないが、他の人は祖母を気遣う素振りも見せなかった。
私は、祖母が気になり傍へ行った。
「お祖母さん。大丈夫?」
「望かい。今日はありがとうね。お祖父さんも喜んでるよ」
疲れ切った顔で、お礼を口にする祖母を見て体調が気になった。
「お祖母さんは疲れてない?昨日、寝れてないんじゃないの?」
「もう少しで、おじいさんをちゃんと送ってやれるから………」
祖母は、遺骨を抱きながら使命感を燃やしているようだった。
「何かあったら、言ってね」
祖母は微かな笑みを浮かべて、口を開いた。
「望。悪いが、お祖父さん持っててくれないかね。」
骨壷を差し出す祖母に、トイレでも行くのだろうと思い笑顔で頷き預かった。
祖母は椅子から立ちあがり、建物の奥へと歩き出した。
その小さな背中を見送っていると、掌に熱が伝わる。焼かれた骨が熱をもっているのだと頭では解っている。それでも、祖父の体温のように感じた。
骨壷を胸に抱き、目を閉じた。骨壷の熱以上に、胸の奥から熱い気持ちが込み上げてきて、心が温かくなり体中に広がった。
祖父の思い出が鮮明に甦り、手から伝わってくる熱が不意に悲しみへと変わった。温かい気持ちになればなるほど、それが等しく悲しみに変わる不思議な現象だった。
目が熱くなる。そう思った時、頬には涙が伝っていた。
祖父の遺体を見て、焼かれた骨も見た。それらを見ても、どこか実感が無かったのかも知れない。それが、焼き終わった遺骨の余熱で祖父の死が体感として認識できた。
亡くなる半月前の姿が脳裏に甦った。それは、昼のうららかな日の光が縁側へと射し込んでいる部屋の片隅で、祖父が背を丸めて蹲っていたのだ。
「どうしたの?」と声を掛けると、長年の重労働によって背骨の軟骨が磨り減り、神経を擂り潰されるような痛みが日がな一日続くのだと言う。祖父の説明は優しいものだったが、痛みを堪え、蹲っている姿は十分に痛々しさを解からせるものだった。大きな病院に行くも、年齢から来るものも大きいらしく、打つ手が無いということだった。
そんな持病を抱えていた祖父であったが、日課の作業はやっていたらしい。最後まで働くのを止めなかったのは、代々の血であったのかもしれない。
頬から顎を伝い、涙が落ちる。慌てて指先で拭った。薄化粧だが、メイクが少し崩れたかもしれない。
「望、ありがとうね」
そう言って、祖母が微笑んでいた。その祖母に祖父を渡した。祖母が遺骨を持つと、しっくり来ているように思う。椅子に腰掛け、膝の上に置き骨壷はそこに鎮座していた。
「お祖母さん。家での式が、まだ続くから無理はしないでね」
うんうんと顔を小刻みに揺らして移動の準備にかかった。
夫を呼びに向かう途中、長男の妻と娘夫婦が笑顔で会話をしている光景を目撃した。あまりの笑顔と明るい雰囲気にその一角だけ異空間のように思えた。特に、伯母さんの笑みは祝宴を挙げているように見えるのは、私の偏見ではない。その証拠に、数人の参列者がその光景を目の当たりにすると、酷く怪訝な表情を向けるからだ。
裏事情をある程度知っていても、気分の良いものではないので、この場を一刻も早く立ち去りたかった。
祖母を見ると、双眸を閉じて、まだ椅子に着座している。その姿は、凛々しくも痛々しいが、遺骨の祖父と会話をしているように見えた。
四
桜条本家で行われた環骨勤行は、厳かに行われた。お経を上げるお坊さんの宗派が変わった事に小さな驚きを感じるも、大きな家だから大人の事情があるのかも知れない。
勤行の後に食事が出されたが、前日からの疲労で睡魔が襲ってきた。仕出しは持ち帰ることにして、私よりも疲れているだろうと思われる夫と父親に声を掛けて連れ帰ることにした。
祖母に、後日、落ち着いた頃に様子を見に来るからと伝え桜条家を後にした。
実家に到着して直ぐに入浴して、布団へ潜り込んだ。目が覚めると、身体が軽くなっていることを感じ、部屋を出ると母親が食卓で突っ伏して寝ていた。
起こそうかとも思ったが、疲労を思いこのままにしておくことにした。
豪華な仕出し弁当を開けると、刺身、ポークステーキ、焼き魚、出汁巻き玉子、天婦羅、巻き寿司など豪華な内容だった。いくら豪華でも、今は温かい食べ物が欲しい気分だから台所へ向かって卵スープと舞茸とエリンギのソテーを作った。
緑茶を入れて、食事の準備が整った時、母が目を覚ましていた。
「母さん。何か食べる?」
「いい」
疲れ切った返事だ。
「寝るなら、布団で寝た方がいいわよ」
「そうね。でも、もう少しだけここで休むわ」
そう言う母に、私は何も言わず、お茶だけ入れてあげた。
母は熱い茶を啜って、ボーっとしている。それを気にすること無く、私は刺身を口へ運んだ。
時間が経っているが、この食事には満足だ。唯一の不満は、巻き寿司がある為に温かいご飯が食べられないことだが、それくらいなら問題ない。
テレビも点けず、静寂の中で黙々と食事をしていると、母が口を開いた。
「お祖母さんが、ありがとうって言ってたよ。望が気にかけてくれたのが嬉しかったって」
「うん」
私は答えると、脳裏に骨壷を抱えた祖母の姿が思い浮かんだ。
「お祖母さんには、落ち着いたら様子を見に行くからとは言ってるけど、大丈夫かな………」
独り言を呟くように母に言った。
「そうね。でも、まだやることあるしね」
「やる事って?」
「お祖父さんの遺品の整理とかね」
なるほど、祖父も死ぬ前にある程度は整理しているだろうが、完全という訳にはいかないだろうし、辛くも楽しい作業になるのだろうか。
「母さん。そう言えば焼き場で話をした時、お祖母さんの悲しみの違和感を言ったでしょ。あそこで話せないって何かあったの?」
母親が身を乗り出した。
「そうそう。昨夜、お祖母さんからね。お祖父さんが私にあげてくれって頼まれたものがあったんだって。それで、部屋の引き出しを捜したら、とんでもない物が出てきてね」
「何?」
「お祖父さんが長男夫婦への恨み辛みを綴ったノートが見付かったのよ」
驚きの声を低く上げた私に、母は構わず先を続けた。
「お祖母さんから聞いていたんだけど、それを見ると、余程に腹に据え兼ねたらしく、ノートに綴ることで気持ちを処理してたのよ。お祖父さんらしいと言えばらしいけどね」
「どんな事が書いてあったの?」
「さぁ。あの夫婦は、農家なのに農業を一切しなかったからね。お祖父さんとしては、面白くは無かったでしょう」
「一切しないって………。手伝うくらいはしたんじゃないの?」
「それが、全然よ。長男は、会社勤めだからって農業は一切やらないって宣言して、本当に手伝うことすらなかったし、会社を退職してもやらなかったんだから。嫁の絹江さんも、お祖母さんが田んぼの水位を見て来て欲しいと頼んでも動かなかったそうよ。お祖母さんがよく言ってたわ、絹江さんは何もしないって。働き者で気立ても良いと思って嫁に貰ったら、とんだ誤算だったって呟いていたわ」
色々な想いが湧き出してきて、それらの納得する説明を聞くために端的に口にした。
「お祖父さんって、どんな人生を歩んだかは聞いたけど、親としてどうだったの?芳郎伯父さんが狭量なのは知っているけど、理由も無くそこまで邪険にしないでしょう?子供の頃ってどんなだったの?」
母は低く唸って、ゆっくりと喋り始めた。
「そうね。お祖父さんとお祖母さんは、毎日毎日仕事でね。その分、家の仕事を子供たちに割り振ってたのよ。長男や次男は田畑や家畜の管理。母さんは家事。三男は、妹の面倒や雑用をしてたわ。母さんはね、皆に食事を作って、洗濯してね」
「お祖母さんは、家の事はしなかったの?」
「しないことはなかったけど、お祖父さんの仕事を手伝ってたからね。帰って来たのも日が大方暮れてからになったし、家の事は私の仕事だったからね。ちょっとでもヘマしたらお祖母さんに怒られたもんだよ」
「で、芳郎おじさんはどうだったの?」
「長男はね~。昔から気位の高さだけは誰よりも高かったわ」
それは、今でも変わらない。何しろ自分が幼少期に初めて会った時の印象が、このオジサンはめんどくさそうだという感じしか受けなかった。
子供の頃からそんなんだったと聞き、ある意味容易に想像がついた。
「ともかく、長男は長男らしい事をまったくしなかったわね。学校で三男の健が苛められた時、長男より次男の徹夫おじさんが怒って、相手側に乗り込んで行ってくれたくらいなのに………、長男ときたら………」
自分としては、芳郎おじさんの生い立ちを聞きたいのだが、母から出てくるのは人物に纏わる嫌な思い出が多い。やはりある程度、話の方向を示すべきだと考えた。
「芳郎おじさんが学生の時、お祖父さんと諍いってあったの?」
「そうね~。色々あったけど、大きなものは二つかな。一つ目は高校進学時、長男は大学進学を考えて県立の進学校に進みたかったんだけど、お祖父さんが『お前は、跡を取って農家になるんだから、県立の農業高校へ行けばいい』って言われたのよ」
「それで、おじさんはどうしたの?」
「どうもこうも、お祖父さんがそう言ったら、その高校へ行くしかないわよ。お金が出ないんだもの」
「そうだけど、反抗はしなかったの?」
「当然したわよ。大学は諦めるから、せめて進学高校へ行かせてくれって何度も言ってたわ。でもね。進学しないのに進学校へ行く意味がないと言われてね。それ以上、文句言えば、中学校を卒業して農家を継ぐことになるじゃない。その当時だから、中卒も珍しくはないけど、あの体面というか、世間体を気にする長男が進学を断念することは無いわよ」
「それにしても、お祖父さんは学問を蔑ろにしていたの?」
「蔑ろにはしていないだろうけど、どちらかというと重要視していないわね。お金を稼ぐには、汗水流して働いて、金を貯めて土地を買い、人を使う立場になればいいっていう、そんな考え方よね」
確かにそうだ。結婚する時、お祖父さんに言われたのは、『遊ぶ金や生活資金は援助してやらん。だが、土地や建物を買うなら助けてやろう』と、強い口調で言われたものだ。
「で、おじさんは?」
「結局、山の農業高校へ行ったわ」
「それはさぞかし悔しかったでしょうね」
「そうね。その件は、長男の劣等感の一端にはなってるわね。でも、普通あそこまでは人格捻くれないわよ」
確かに。自分も人生が巧く行っている方ではないが、あそこまで捻くれていない。やはり持って生まれた先天的な要因が大きいように思えた。
「で、母さん。二つ目は?」
「二つ目は結婚だね~」
「結婚って?好きな女性と別れさせられたとか?」
「違うのよ。絹江さんとは、お見合い結婚だけどね。長男が凄く嫌がったのよ」
「どうして?」
「そんなの趣味じゃ無いからに決まってるじゃない。絹江さんは、山奥のお祖母さんの親戚で、あんな感じの人じゃない」
言わんとすることは解かる。体形こそ細身だが、容姿は男受けするような外見ではない。内面も明るさや朗らかさなどは無く、陰鬱とまでは言わないが、人を蔑む傾向がある。その点では、芳郎おじさんと似ているのだ。
「おじさんが嫌がってるのに、どういう経緯で結婚したの?」
「それがね。この縁談を進めたのが、お祖父さんとお祖母さんなのよ。特に、お祖父さんは、お祖母さんを貰って、山の女は良く働くと考えてたし、お祖母さんも血縁があれば面倒も見てくれると思っていたらしいのよ」
「なるほどね。それで、長男にゴリ押しして結婚を納得させた挙句にアノ結果なのね」
現在の視点から、結果論だけを言わせて貰えれば、祖父母の狙いは塵ほどの成果も見せていない。長男は農家を継がず、嫁は専業主婦こそすれ、家業の手伝いはせず、具合の悪くなった親の面倒も見ていない。聡明で努力家の祖父からすれば、これほど意に反する結果は人生でも無かったと思う。
「ここだけの話だけどね、お祖母さんもよく言ってたわよ。『あんな嫁だとは思わなかった』って」
そうは言っても、母くらいにしか文句も言えないだろうなと思う。親の思惑で、息子が嫌がる相手と無理やり結婚させたんだ。息子に愚痴を言えば、それ見たことかと言われ、責められかねない。云わば、自業自得の感があるけど、親の資産で屋敷を始めとするものを購入しているのだから、兄弟全体で考えれば優遇はされている。兄弟たちの中で、誰よりも早く、近隣に無いほどの豪邸に住み、地主として、名士として通っているのだ。
祖父母も、その点での反省なり、自己改善なりがあったのかもしれない。
「それで、芳郎おじさんは、その二つを未だに親を恨んでるの?」
「流石にそれは無いだろうけどね。昔も昔のことだしねぇ~」
祖父母と芳郎おじさんとの関係は、母からの視点でしかわからなかったが、母が芳郎おじさんを嫌っていることは良く解かった。
「それにしても、母さん。本当に嫌いなんだね、芳郎おじさんのこと………」
「そうよ。また思い出したわ」
「何を?」
「私が車の免許を取ろうとして、親に言ったら少しお金を出してやろうって言ってくれたのよ。するとその話を聞いた長男が、夕食の席で『女に車の免許なんか必要無いだろう。うちの財産を減らすようなことはしなくていい』って言い出したのよ」
「また酷く前時代的なことを、封建社会を色濃く意識したような発言ね」
「あの長男に時代なんて関係ないのよ。この家の物は、塵一つまでも自分の物だと思ってるだけなんだから。でも、徹夫兄さんが代わりに、こう言ってくれたのよ。『今の時代は、女の人も社会に出て、働かないといけない時代だから、免許ぐらいないと東紀子が馬鹿にされる』って」
「さすがね。裸一貫で、億の金を稼ぐような人は違うわね」
母に同調すると、母は頷いた。
「まぁね。あの長男には、昔から嫌なこと言われてたのよ。もう遅いから、母さん寝るわ。食器は水置きしてくれていればいいから」
そう言って、自身の寝室へと向かった。
時計を見ると、既に深夜になっていた。既に冷え切った卵スープを啜り、お茶だけでも入れ直して食事を続けることにした。