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桜条の血族  作者: 高天原 綾女
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一章


        一


 夜。車一台分の幅しかない道を普通車がゆっくりと走っていた。周囲は低い木や藪が生い茂り、所々に民家が見える。アスファルトで舗装された道を行き着くと、白を基調とした屋敷に着いた。

 屋敷の周囲には、五、六台の車が停車していて、一目で関係者のモノだと判る。屋敷外ではあるが、車の置かれている場所は、すべて私有地なのだ。

自分の車も適当な所に止め、正面口の門の前に立った。

「しかし、いつ来ても広いな」

 夫の茂樹が、石柱で造られた門に触れながら言った。

町外れの山裾に建つ立派な邸宅。この邸宅こそ(おう)(じょう)本家の住居であり、母親の実家である。

 桜条家は、箕祓(みのはら)市の勢力家である。市長選では現市長を擁立し、市議会議員選挙では候補者が何人か頭を下げに来る。影響力の源は、企業でも資金でもない。桜条家の根幹は土地である。

 箕祓市には桜条家の土地が点在し、複数の会社に土地を貸出、賃料が入ってくる。役所も企業もこの家を完全に無視しては運営できない。他には、建設会社や運送業などは、桜条の私道を使わせて欲しいなどの要望も来る。今では、土地の開発も進み、桜条家の土地の重要度も増している。

 屋敷へ続く道は、さらに奥へと進めば山中へ続く。ちなみに屋敷から続く山道を挟んでいる二つの山は桜条家のものである。

 辺りは静けさと闇に支配され、屋敷から漏れる明かりが、自然と人との境を作っているように思えた。

 大きく深呼吸をして、私は門から玄関へと続く階段を五段上がった。桜条家の邸宅は、外観は洋風だが、内装は純和風である。

 西洋式の大きな扉を開けて中へ入る。玄関で声を出すまでもなく、廊下に親族が居て、中へと入る様に言われた。

「あぁ~望ちゃんじゃない。久しぶりね。入って、入って」

 いとこの春実さんだ。素っ頓狂な声の後に、いかにもと云う感じの作り笑顔で出迎えてくれた。

 春実さんは、桜条家長男である芳郎の長女で、今は他家に嫁いでいるが、長い休みには実家へ帰り、羽を伸ばしているらしい。

 彼女は、横に居る夫に頭を下げ、広間の襖を開けた。

 通されたのは、桜条家の大座敷の間であった。広さは二十四畳程だろうか、八畳の仏間と繋げていて、さらに広くなっている。三十人以上はゆったりと寛げる。

 室内に入ると、巨大な祭壇が設けられていた。故人の遺影の前に極上の棺桶が置かれている。それ以外は、とにかく人の多さが目に付いた。

「望。よく来てくれたね~。遠いのに」

 座敷間奥で、椅子に腰かけた祖母の声だ。声音には張りがあり、悲しみを含んでいるが沈んだ感じは無い。

「お祖母ちゃん。身体の具合はどう?前は、食欲がないって言ってたけど」

「もう食べ物は身体が欲しがってないからねぇ。少量をちょくちょく食べてるよ。お祖父さんの顔見ておくれ」

 そう言って、椅子を立ち祭壇へと歩き始めた。足元が覚束ない感じのゆったりとした歩調だ。

 私は、祖母の身体を軽く支えるようにゆっくりと歩く。

 棺桶の前で膝を折り、棺の窓を開けると、祖父の顔がそこにあった。痩せこけた顔には、深い皺が刻まれ、点在する染みが九十年間の苦労を物語っていた。

「安らかな顔してるね」

 微笑んでいるかのような死に顔に、感想を素直に口にした。

「苦しむことなく亡くなって良かった。これまでずっと苦労してきたんだから………」

 祖母は、追憶の中で口を開いたような口調だ。

「茂樹さん、久しいね。仕事は順調かい?」

「ええ、お陰さまで。平凡ですが、幸せに暮らせています」

 神妙な顔をした旦那は差し障りない受け答えに徹し、二人で話し始めた。

夫は、祖母へ日頃のお礼を口にしている。

 祖父母は、私たちに名目が出来れば結構な額のお金を援助してくれた。結婚した時は、夫は学生だった。大学院生で、お金も無く、バイトで生活費を稼いでいた。名門大学の院生だったから、割の良いバイトにもありつけていたが、社会人のように本格的には稼げない。

 自分も共に働いたが、夫が社会で認められる力を蓄えるまで、辛い時期だった。今でも裕福と云うには程遠いが、祖父母は祝いの時にくれたお金は涙が出るほどありがたかった。

 結婚式の時や夫が院から卒業する時などには、厚めの札束を頂いた。その御蔭で、夫は資格を取り、今では第一線で働けている。

「望。ここ座れ」

 声を掛けてきたのは、徹夫おじさんだ。

 桜条徹夫。桜条家の次男で、母の兄だ。豪快で男気が強く人情家の一面があるも、裏返せばガサツにも感じられる。

 既に両親も来ている筈なのだが、姿は見えない。何処かに寄って来ているのだろうか。

 いろいろ考えるところはあったが、室内には血縁者しかいない為、人間関係や利害など総合的に判断して、厄介な人に捕まるよりはマシだと思い、呼ばれるままに向かった。

「望。結婚式以来だな~。顔も体も丸くなったな。太ったか?」

大きな机の上には豪華なオードブルと酒が置かれている。

 伯父はビールを片手にローストビーフを摘まんでいる。

 出会って早々に、失礼極まりない発言だが、気にせず向かいの座布団に腰を下ろした。

「おじさん久しぶりですね。元気そうで何よりです」

 私は笑顔で、始めから会話をするように挨拶をした。

「元気、元気。三十歳の頃の元気は無くなったが、大きな病気も無いしな。今年で、六十五だ。仕事も抑えながらやってるくらいだ。酒もあまり飲めなくなったわい」

「六十五過ぎて、三十歳の行動を取るのは問題でしょう」

「そりゃそうだ」

 徹夫伯父さんは、豪快に笑った。

「ところで伯父さん。お祖母さんはどうなの?」

「どうもこうも、じいさんが死んで悲しんでいるだろう。突然だったからな」

「そんなに突然だったんですか?」

「それが、じいさんには予感があったらしくてな。ひと月ぐらい前から、じいさんは『死ぬ前に、知り合いに挨拶をしに行く』と言ってたんだそうだ。祖母さんも不安になったんだろう。電話が来たよ」

「それで、伯父さんはどう答えたんですか?」

「死ぬ死なないは兎も角、挨拶に行くのは悪い事じゃないから、行かせればいい、と言って、ばあさんを納得させた。しかしだな、じいさんはひと月くらいかけて、縁者や知人宅へ挨拶回りをした後に、身の回りの整理までしたそうだ」

 温厚な祖父の顔が浮かんだ。明治生まれの気骨ある顔だ。我慢や辛抱の上に財を成した顔。多少の頑固さはあったが、私には孫想いの優しいお祖父ちゃんだった。

「ところで、どこが突然に亡くなったんですか?」

 徹夫おじさんは、ビールを口に運び喉を潤すとその問いに答えてくれた。

「あぁ、じいさんが亡くなったのは、病院に向かう途中だった。三日に一度の通院日だったから、早めに銀行での用事を済ませて、タクシーを呼び、乗り込む途中に心臓発作になったらしい。呼んだタクシーで、すぐに病院に運ばれたが、手の施しようがなかったそうだ」

 話を聞いて、タクシー運転手には同情した。ドライバーからすれば、さぞかし驚いたことだろう。客が高齢とはいえ、乗り込もうとしたら倒れたのだ。相当、焦ったに違いないだろう。我が身に置き換えれば、九十過ぎの老人が胸を抑え苦しみ始めたら、何も出来ないに違いない。

 行き先の病院だけでも運転手に伝わっていたのは幸運だった。タクシーは急いで病院に向かい、救急へ運び込んでくれた。

 ひと月前からの祖父の言動もあり、運転手及び会社に対しては問題にならなかった。家族は、運転手に感謝を表し、礼金を渡した。運転手は遠慮したそうだが、車内で死んで多くの手間を掛けさせたという理由から、桜条家としても受け取って貰う事で決着させたかったらしい。

 私は目の前にあった新しいグラスを手に取り、烏龍茶を注ぎ入れた。

「そんな感じだが………」

「その後、何かあるんですか?」

「じいさんの死はタクシーの車内で起こった。だから、一応、警察が調べることになってな。警察の検死と医師による検案も受けた。運転手に対しても、何度か話を聞いたらしい」

「亡くなり方に不自然な点でもあったんですか?」

「そんなもんは無いさ。だから、大した騒ぎにもならないで葬儀が出来ているんだ」

 まぁ、その通りだと思う。でも、おじさんの言い方は不自然な死に方があったようなもの言いだったじゃない、と心の中で毒吐いたが、顔には出していない。

「とにかく、大変だったってことさ」

 徹夫おじさんは感慨深く口にして、ビールを呷った。

「徹夫さん」

 嗄れた弱々しい声が背後から聞こえた。

 振り返ると和装喪服に身を包まれている高齢の御婆さんが居た。顔は、うちの祖母以上にお歳を召しているように見える。和服にはそれほど詳しくは無いけれど、漆黒の布地は艶と深みがあった。帯も銀糸などが縫い込まれ、かなりの資産家のようだ。身は小奇麗に纏められているが、顔はどことなくだが品が足りず、卑俗さを感じた。

 私は知らない人だが、徹夫伯父さんには知らない方ではないらしい。

「登米おばさん。久しぶりですね」

「善興さんが先に亡くなるとはな~。わしの方が身体が悪いのに皮肉なもんじゃな。ところで、こちらのお嬢さんは?」

 言われて自分が向き直った時、おじさんが紹介してくれた。

「この子は、妹の東紀子の娘ですよ。」

「ほ~。東紀子さんのね~」

 私は頭を下げると、お婆さんは品定めするように視線を向けた。その数瞬後、徹夫おじさんと話し始め、場を追われるように私は立ち上がって、席を移動した。

 喪主である桜条家の長男、芳郎おじさんはひっきりなしに客人の挨拶を受けている。血縁者ばかりなのだが、影響力のある祖父の死だけに挨拶だけの人も多いようだ。

 行き場を失った私は夫を見ると、まだ祖母と話している。夫は、もっぱら聞き役に徹しているようだが、祖母の表情は柔らかく、微笑んでいた。自分としては、その姿を見れて祖父の死の中でも心が温まった。

「無駄なことするのね」

 突然、横から敵意を感じる声を浴びせられた。横を向くと三女の理枝ちゃんだった。彼女の双眸には攻撃性が宿っていた。

「どういう意味かしら?」

 彼女の意図は判らないが、喧嘩をしに来た訳ではない。可能な限り敵意を中和するように心掛けながら、柔らかな笑顔を向けた。しかし、その振る舞いは功を奏していないようだ。

「演技が巧くなったわね。ま、私から見ればバレバレだけど。先に言っておくわ。あまり醜い事しない方がいいわよ」

 そう言うと、理枝ちゃんは台所の方へ歩いて行った。

 何を勘ぐっているのか見当もつかないが、いとこの尊大な態度が鼻につく。なぜ、そんな態度を取られなければならないのか不思議で仕方なかった。

 不愉快な気分を落ち着かせる為にも、この場を離れトイレに向かった。


     二


 人の熱気で暑くなっている広間を出て、十メートル先の御手洗いを使用した。夜間の田舎の空気は澄んでいて、廊下は冷えていた。その冷たさが、自分を冷静にしてくれた。だからといって、通夜の席に戻るまでの、気力は回復していない。

 親戚といえども屋敷内を勝手にウロウロする訳にもいかず、緊急避難的に車で数分落ち着く事にした。

 玄関を出ると山から降り注ぐ冷気が心地良い。敷地内を抜けて車に向かっていた時、キッチンに付いている勝手口、いや脱衣所にあたる窓のあたりからだろうか、抑え気味の会話が聞こえてきた。

聞く気は無かったのだが、あまりの不自然な口調と声色に自然と意識が向かっていた。

 声色から長男の嫁である絹江おばさんと、娘三人が話しているようだった。

「お母さん。姉さんには、あんなに沢山なのに、私には少ないの?」

「そうよ。お姉ちゃんばっかり!」

 理枝ちゃんの声だ。

「美穂も理枝も、何言ってるのよ。当然でしょ。わたしの所には、来年、中学受験を控えた息子がいるのよ。名門校に入る為にも、有名な塾にも入れないといけないんだから」

 長女の春実さんの落ち着いた声が聞こえた。

「お母さん。うちの紗絵は幼稚園だけど、スイミングに通わせているし、これから英会話にも行かせないといけないんだから、姉さんばかりに援助するなんて………」

「そうよ。私だって、今は子供がいないけどすぐに生まれるわ」

 美穂さんに同調するように言ったのは理枝ちゃんだ。

「いい二人とも。春実は、これまで長女として頑張ってくれたの。お祖父さんやお祖母さんの目が一番光ってたし、お父さんもお母さんもお金が自由にならなかったの。これまで春実は、よく耐えてきたんだから」

「でも、お母さん。姉さんの旦那は電力会社勤務じゃない。お給料が高い上に、民間企業といっても堅いじゃない。うちのは公務員なんだから、お給料だって姉さんのところとは貰う額が違うのよ」

「ママ。それなら、私が一番辛いんだからね。一般の会社は不況の煽りを受けてるんだから」

「理枝、あなたは、他に条件の良い人を紹介されたのに、恋愛結婚したいからって、無理に反対を押し切って結婚したんでしょ」

 春実さんの声が聞こえた。

 春実さんの旦那さんは電力会社勤務。美穂さんの亭主は県職員。理枝ちゃんの夫は、大手企業の子会社勤務だ。余談だが、旦那の子会社の仕事が忙しいらしく、サービス残業をさせられて、いつも帰りは深夜になり、会話すら出来ない生活だとお祖父さんに泣きついたらしい。祖父は、親会社に土地を貸しているらしく、孫の婿にそんな事をさせるなと苦情を言うと、勤務環境が劇的に改善されたらしい。

 娘たちには、それぞれにそんな話がある。この不景気下にあって、コネの強さを思い知らされる。

「そう言う、春実姉さんだって恋愛結婚じゃない。美穂姉ちゃんは、お見合いって言っても、男が責任とってくれなかったから、知り合いの人に泣きついた結果ってだけじゃない。とにかく、春実姉さんばかり良い思いするのは変よ」

「ちょっと、私の家は―――」

「もう、喧嘩はやめなさい。お金お金って言うけど、お祖父さんは亡くなったけど、まだ遺産は入ってないのよ」

 母の言葉で、娘たちの意識は違う方向に向いたらしく、罵り合いは止まった。これで会話は終わりかと思ったら、理枝ちゃんが声を発した。

「そう言えば、望ちゃんの旦那さん。お祖母ちゃんにずっとくっついて話をしてたよ。お祖父さんの遺産を狙ってるんじゃないかしら?」

「そうね。お祖母さんとたいして親しくも無いのに、こんな時に善人ぶって喋りかけてるなんて、絶対に裏があるわよ」

「案外、望ちゃんの考えかも知れないわ」

「でも、望ちゃんには相続権は無いわよ」

「何言ってるの、霜月家に嫁に行っているとはいえ、東紀子さんには権利があるもの。どうせ、お祖母さんに東紀子の娘と婿は優しいとか、気遣ってくれるとか思わせて、私たちの家の資産を掠め取る気なんでしょうよ」

「うちの家は、長男相続制だから。心配しなくて大丈夫よ」

 絹江おばさんが言った。

「それでも、霜月の人間には注意しないとね」

三姉妹はあっという間に結束している。

 台所に客人が入ってきたらしく、会話は終わり散会した。

 思わぬ場所で、思わぬ人物の本音を聴き、正直、驚きを隠せなかった。まさか、そんな風に考えられていたとは夢にも思わなかった。

 祖母には様々な面で気を遣ってもらい、面倒も見てもらったが、長男家族とは接点は無い。理枝ちゃんとは、同い年のいとこということもあり、子供の頃に数えるくらいは共に遊んでいた。しかし、我の強さに加え、桜条家の誇りも相まって、仲良くはできなかった。もっとも理枝ちゃんの方も、私の事は気に入らなかったらしく、率先して話した事は無い。

 そういえば、敵対視される事が度々あり、双方の結婚式に出席することも無かった。それにしても、遺産を狙っているというのは誤解だが、あまりに酷い言われようだ。

 改めて、桜条家の人たちを祖父を中心に考えることにした。

 自分も広間に帰る事にした。置き去りにした夫も一人では肩身が狭いだろう。玄関口へ戻ると、そこで両親と会った。

「望。ここで何をしてるの?」

「車に忘れ物して取りに行ってたの。お父さんは?」

「すぐに来るわよ。車、置いているから。先に入ってましょう」

 玄関に入った瞬間。普段より暗く感じた。天井を見上げる。蛍光灯は煌々と玄関を照らしていて、照明は白色蛍光灯でワット数が低くも切れかけてもいない。照明の明るさだけを見て冷静に考査すれば、確かに充分明るい。しかし、家の活気が消えたように感じる。なんだかんだで、二十人以上広間に居るのに、空家に来たような錯覚を起こした。

「母さん。なんだか暗くないかしら?」

 私の問い掛けに、母は訝しく答える。

「人が亡くなったからね」

 通夜の雰囲気を言っている訳ではないのだが、それ以上は何も言わなかった。

母の後に続き、私も広間へと入って行った。

 一族皆が席に着き、各々が会話をしている。夫は、親戚に囲まれて根掘り葉掘り聞かれているようだ。そんな人気者の旦那を呼び、家族で固まって座った。長男家族をみると、芳郎伯父さんをはじめ、絹江おばさん、三姉妹に至るまで笑顔を溢していて、祖母だけが沈痛な面持ちだ。

 長男夫婦からすれば、祖父の死がそれほどに嬉しいらしく、見ている側の人間としては心地よいものではなかった。

 突然、喪主の長男が立ち上がり、お礼を口にし始めた。

「皆様、本日は誠にありがとうございました。おかげをもちまして、とどこおりなく通夜を終えさせていただくことかできました。夜も更けてまいりました。この………」

 感情の籠っていない形式だけの言葉。この会場に居る人間を改めて脳内で整理した。

 桜条本家は、今は亡き祖父を頂点に祖母と子が五人。上から、長男の芳郎。次男の徹夫。長女が母の東紀子。三男の健。次女の智子である。

 長男は家を継ぎ、絹江おばさんと見合い結婚して親の面倒をみる。家は継いだが、家業の農家を継ぐのは拒み、当時の日本国有鉄道に勤めた。芳郎伯父さんの人物像については、皆共通する認識で一致する。人間的にはセコく、器は小さい。私も同じ認識で、幼少期の頃に両親が仕事で、祖父母の家に一週間ほど預けられた時、文句こそ言わなかったが、存在しないかのように無視された経験がある。

 祖母曰く、畑の手入れや、水田の水入れなどを頼んでも一度も手伝わなかったらしい。それは妻の絹江さんも同様で、最近まで年寄り二人で田畑を守ってきた。祖父が亡くなり、もうそれらの維持も覚束ないだろう。

 次男は鉄工技術を学び独立。現在は、年商一億を超える収益を上げている。学問の才を見限って、技術を重んじた。高校を卒業して、すぐに鉄工所に入り技術を習得。後に独立。鉄、アルミ、ステンレスなどの溶接、塗装、切断。最近では工作機械等のフレーム、部品、建築金物、タンク、通信機器架台などの製作もしている。祖父譲りの堅実さと律儀さから顧客を多く掴んでいるそうだ。それ故、利益が順調に上がり、銀行から事業の拡大を勧められたが、決して事業の拡大をしなかった。

 徹夫伯父さんに言わせると、会社経営というのは規模や業種などを拡大すれば経費も嵩み、維持費ばかり掛り、利益が出にくくなるらしい。格好や他人の見る目が変わり気持ちは良いが、心労ばかりが増して内情は火の車の会社が多いらしい。伯父さんは、家族経営の範囲内で最大の利益を出すことを志していると誇らしげに言った。家族経営を馬鹿にするサラリーマンもいるが、結果は年商一億円を超えている。雇われ人では、その金額には九割以上は届かないだろう。

 この成果は、人格によるモノだと思われる。豪快さと丁寧さを併せ持っている。不躾で下品な所もあるが、男気で補っている面があり、祖父は長男よりも、次男を頼りにしていたと思う。

 一人息子も内科の医師になり、来年開業するらしい。苦労はあっただろうけど、結果として報われているから満足な人生には違いないと思う。

 長女の東紀子、母である。長女ということもあり、幼少から家の手伝いをさせられていたと聞いていた。祖母は、祖父と共に農作業をしていた為、家事は自然と母の役割になった。弟や妹の面倒を見て、家事をこなし、二十二歳で父と結婚したらしい。

 三男の健は商業高校を卒業後、会社員になり企画営業をしている。性格は柔和かつ温厚で争いを嫌う。野心はなく政治手腕もないが、真面目さと人当たりの良さで一定の評価を得ている。気の強いというよりも気性の荒い奥さんを貰った。それでも夫婦仲は良いらしい。二人の娘に恵まれて、中産階級の暮らしぶりである。

 末っ子の次女智子。五十前まで独身で過ごしていたが、数年前にやっと結婚した。厳しい親であったが、末っ子で親以上の我の強さに、我がままいっぱいに育った。男兄弟たちは、厄介者のように扱っているが、母だけは、姉の意識が強いのか気を遣っている。本日の通夜に姿を見せていない。

母親に小声で「智子おばさんがいないけど」と言うと、囁くように教えてくれた。

「智子は、夫婦で海外旅行に行ってるのよ。確か、パラオとバリだったかしら、二週間ぐらい滞在するって。まあ、連絡は出したし、すぐに帰って来るでしょ」

「すぐに帰って来るだろうけど、明日の葬儀には間に合わないでしょ?」

「そりゃそうよ。でも、人の死は予測できないでしょ」

「そうだけど、タイミングが最悪じゃない」

「何と言おうが、既に海外に居るんだから、どうしようもないでしょ。仕方ないわ」

 母親は姉という立場で、えらく物分かりが良いが、タイミングとしては最悪だ。次女嫌いの長男と一波乱ありそうだと思ったが、今日の笑顔を見るとそれもないだろうと考えを改めた。

豪華な食事はほぼ無くなって、お茶を啜る者や帰り支度をする者が目に付く。近しい人間は泊るようだ。いま姿が確認できるものは、直系の子供が五人。孫が七人。それらの家族と、詳しく知らないが分家筋などから十五人とまだまだ人数は多い。

 夫も親族に気を遣い、煩わしい思いもして疲れていることだろう。疲労が顔に出ていないのは、心から立派だと思う。明日の葬儀の事を考えて、早々に主人を連れて帰ることにした。

「母さん。主人を連れて帰るね」

 母親は頷き、父さんも一緒に連れて帰ってと言われた。母さんは泊るようで、祖母や兄弟と積もる話もあるのだろう。

 私は引き受けて、二人にその旨を伝えた。

 父親も夫も居心地は良くなかったのか、帰り支度は早く、祖母への挨拶を済ませて玄関へと向かった。


     三


 読経が会場に響いている。

 祖父の葬儀は、大手葬儀屋のセレモニーホールで行われている。ここが近所で一番広い建物らしい。

 ホール内、中央奥に巨大な祭壇が組まれ、祖父の遺影が置かれている。左右に花が豪華に飾られ、悲しくも美しく、見る者を圧する威厳があった。会場に置かれた椅子は全て埋まっている。

 本家の屋敷も大きいが、流石に全員を収容するとなると庭を含めても足りない。ざっと見ても、三、四百人は居るだろう。

 会場の椅子の数は足りず、壁沿いに多くの人が立っていた。その人の多さに祖父の交流の広さ、影響力の強さを改めて認識させられた。

 正面には三人の僧侶が座っていて、中央のお坊さんが一番偉いのだろう赤い袈裟を着ている。遠目から見ていても、生地や作りの差が判る。さぞかし御立派な高僧なのでしょう。このお坊さんの顔を見て俗物にしか見えないのは、私が薄汚れた世界にいるからだと反省してしまう。

 その赤衣を纏った僧侶が、良く通る声で経を口にしている。その光景が、くだらない事を思い出させた。僧侶が経典を見ないで、暗誦するのは()(きょう)というらしい。今回は、両側の僧侶も声を発しているから、声を揃えている場合は(ふう)(ぎん)という。だが、このことを誰に教わったかが出てこない。

 私は祖父の遺影をみて、祖母を見た。遠くからでも疲れているのは判る。昨夜は寝れなかったのだろう。外孫の自分ですら、睡眠量は四時間程だ。祖母は時間があったとしても精神がそれを許さなかったかも知れない。泊った母は、寝れたのだろうか?

 昨夜、車内での父親との会話を思い出していた。

 あの姉妹たちの言葉は、じわりじわりと胸の内に不快感を蓄積させていた。桜条家を離れ、密室の車内に入り、出発させる。国道に入ると夫は後部座席で目を閉じ、疲労を表していた。

 エンジン音と走行音が気にならない程度に耳に響いてくる。田舎の国道だけあって、夜になると交通量はほとんど無かった。

 父に祖父の遺産はどうなったのか聞いてみた。父も詳しくは知らないようだが、喋ってくれた。生前、祖父は長男以外にも生前贈与をしてくれたそうだ。徹夫おじさんには、山を一つ。母さんには住宅街の土地。健おじさんにはまとまった現金。智子おばさんには郊外の土地などらしい。

 母さんへ贈与された土地には、駐車場の契約者がいるらしく月にいくらか現金収入がある。と、いっても、お小遣い程度のようだ。その土地を一ヶ月前に見に行ったが、想像していたよりも広く、一軒家二件分の広さがあった。

 贈与の事を教えて貰っても、私の知っている桜条家の財産はその程度で尽きるものではない。子供四人へ渡したものなど全財産の二割足らずだろう。

 お母さんが以後どうするのかを聞くと、お父さんが「相続の事かい?」と聞き返した。祖父のお金をあてにしているのか、と聞かれたように思えて説明した。端的に、通夜の絹江おばさんと三姉妹の事を伝えると父は納得した顔をしていた。

 父は、「そうか………」と呟き、口を開いた。

「お母さんは、相続放棄するんじゃないのかな」

落ち着いた声だった。私は、「そう」と納得の返事をした。

おそらく、祖父は兄弟間の諍いの芽を摘む為にも、生きているうちに他家にも贈与をしたのだろう。それでも、長男夫婦の不安が拭えていない。その点は、容易に想像は着く。

 祖父は、用心深い人だった。たとえ死の予感があったとしても、財産の全てを生前に長男に対し贈与する事は無かったのだろう。だから、おばさんと娘たちは、あれほど兄弟たちに敵対心を持ち、その孫にまで警戒感を抱くのだ。

 祖父が、どれくらいの財産を手にしたまま亡くなったかは見当もつかないが、相続税と残される家族のことを考えての金額には違いない。

 それから父との会話は途切れ、家族特有の空気が車内に満ちた。

 僧侶の張りのある声が会場に響いている。喪主の芳郎おじさんは、来客へ絶えず対応していて、顔こそは神妙だが、時折笑みがこぼれ、伸び伸びとしている様に見える。まるで捕虜が解放されたかのようだ。

 車内で父と言葉を交わした限りでは、桜条家の資産よりも母親の待遇や意思を慮っているみたいだ。

 一般的に相続問題では、相続者以外の血縁者がイザコザの原因になると聞く。少なくとも、今回の件に関して、そうなることはなさそうだ。

 遺影近くの親族席で、三姉妹が話に花を咲かせている。その艶やかさは、三姉妹の服装が一層と引き立ている。長女は絹の着物らしく、表面の光沢も良い上に、真黒に染め上げられている。烏の濡れ羽色のような黒が極上の生地であることを知らしめている。次女は着ているのは喪服のはずなのだが、洗練されたデザインの為に漆黒のドレスと見間違いそうになる。三女は喪服ではあるものの、黒を薄めた色の愛らしい感じのワンピースであった。

 長女と次女の子供たちが母親に駆け寄ると、春実と美穂が母親の顔をしているのを初めて見ることができた。こちらの視線に気が付いたのか、理枝ちゃんと目が合った。

 私は会釈をしたが、理枝ちゃんは視線に嫌悪を込めてから、その目を逸らせた。

 誤解とはいえ、酷く嫌われたものだ。

「ここに居たの?」

 母が、夫の隣に座る。

「お義母さん。席を換わりましょう」

 茂雄さんが、席を立って話し易いようにと気を利かせてくれた。母親は、夫に軽く頭を下げて腰かけた。

「遅かったね」

「お祖母ちゃんに用事を頼まれたのよ。なんて事のない用件ばかりなんだけど、絹江さんが逐一聞いてくるのよ。『お義母さんに何を言われたの?どんな事を頼まれたの?』だとか、煩わしくってね。自分の仕事をすればいいのに、何なんだろうね」

「心配してるんだよ」

「何の?」

 母は、考える事もせず聞いてきた。

「遺産を取られないか心配なんだよ」

 私の発した言葉を理解できないようだ。

「なんでそんな心配するの?」

 母が眉を寄せた。その母へ、小声で囁いた。

「母さんに相続権があるからよ。おばさんは、母さんがお祖母ちゃんを誑かして、お金を盗るんじゃないかと勘ぐってるのよ」

 そう言うと、母は苦笑いを浮かべ納得したようだ。周囲を見回し、私の耳元で呟いた。

「昨日の夜。芳郎兄さんが、相続放棄の申述書を渡して来たのよ。父さんが亡くなったのが、一昨々日よ。通夜の日に突き出すモノじゃないでしょ」

 それを聞いて絶句した。不安があるのだろうが、祖父の通夜で、まさかこんな行動に出るとは思わなかった。

「それでね、徹夫兄さんに話すと兄さんも渡されたって言うのよ。徹夫兄さんが、『それでどうした?』って聞くから、『こんなもの、今渡すモノじゃないでしょ。智子も居ないんだから、帰って来てから改めて話をすればいいじゃない』って言ったわよ」

「それで長男は?」

「『こう言うことは、早めにしないと母さんも心配するだろう』って言ったのよ。心配するのは、兄さんでしょって言ったら、席を外してそれっきりよ。徹夫兄さんも、酷く怒ってたわ」

 親族席の隅に座っている徹夫おじさんを見た。数珠を握り、目を瞑り、亡き祖父への想いを巡らせているようだ。健おじさんが徹夫おじさんに声を掛けて、話を始めている。

 それにしても驚かされた。いくら、遺産を取られる恐怖感があるとはいえ、通夜の日に相続放棄の申述書が準備されているとは思わなかった。祖父が亡くなる前から、準備してあっただろうというのは想像に難くない。

 芳郎おじさんの考えている事など容易に解る。兄弟の誰かに相続放棄させれば、他の兄弟も放棄させ易いと思っているんだろう。だからこそ、裕福な徹夫おじさんと優しい母へ言ってきたのだろう。三男の健おじさんでは、我の強い奥さんの耳に入れば、騒ぎ立てかねない。

 まったく、長男のすることは、いちいちコスイ。狡いでも、狡賢いでも、小賢しいでもなく、コスイが最もしっくりとくる。

 昔、大学に入った時、正月休みにお年玉を貰った事を思い出した。徹夫おじさんは、一万円。健叔父さんからも一万円。子供のいない智子おばさんでさえ五千円だった。でも、芳郎おじさんからは二千円だった。親類縁者の中で、ダントツの最安値。さすがに吹き出しそうになった。

 このことを母に話した時、三姉妹が十八の時、全員へ一万円ずつ渡していると聞いた。私は呆れたが、母は私以上に呆れていた。只でさえ、子供の数では三倍なのに、金額が五分の一なんて発想自体が人格を疑う。

 強烈な視線を感じた。理枝ちゃんが、刺すような視線でこちらを睨んでいた。目が会った瞬間、理枝ちゃんが目を背けた。

 読誦が終わり、弔電が代読されている。市長に、衆議院議員、一部上場企業の重役たちの名が読み上げられ、故人の勢力を偲ばせるものとなった。

 式は、順調に焼香、お別れ、挨拶と続き、焼き場へと向かう。

母は、出棺を手伝い、別の用意されたバスで向かうらしく、私たち夫婦は、一足早く車を回し焼き場へと向かうことにした。


     四


 火葬場は、隣の町の山奥に建っていた。予想外に深い場所にあり、山頂付近に位置していた。車を走らせていると道があっているのか不安になってくるほどだ。綺麗に舗装された道を行き着くと、近代的な建築物が見えてきて安心させられる。

 車を降り、周囲を見渡すと何とも形容し難い心境になった。周囲を森林に囲まれた近代的な建物と云うには、形容し難い異物感があり、異様さだけを際立たせていた。

 建物へ入ると先に来ている人々もいた。大勢集まらないうちに、トイレを済ませると棺桶は到着し、多くの人もバスで運ばれていた。

 火葬場にも簡易祭壇が置かれ祖父の遺影が飾られている。棺の前に焼香台が置かれ、最後の別れをする。祖父の顔は、昨日と変わることなく穏やかな表情だ。祖父が田畑を見回る姿、山中を歩く光景など在りし日の姿が脳裏に甦った。

棺は火葬炉へと向かう。

 祖母は涙こそ流していないが、悲しみを漂わせている。その目で、扉の開いた炉の中へ棺が入れられるのを見送った。

 火葬時間は二時間程だと伝えられ、別室にて待つ事になった。

 室内隅のテーブルに腰かけると、正面に上品な面持ちの老婆が座った。御婆さんが口を開く。

「東紀子さんの娘さんかい?」

「はい」

「善興さんも、九十三歳か。大往生じゃな。私も、近々お迎えが来る」

 上品に笑う御婆さんに、どう返していいのか言葉に窮していると、先方が話を続けた。

「善興さんは、本当に苦労人だった。幼少期から余計な苦労ばかりして。昔は苦労するのが当たり前だったが、それ以上の苦労をしているよ。数えれば切りがないがね。特に親の苦労と金銭の苦労は、人並み以上にしておったよ。それらのことを全部克服してあそこまで成られたんだ。これから過去の話として喋らにゃならんのが残念だねぇ」

 老婦人の実感の籠った言葉を聞き、自分が想像する以上の苦労があったのだろうと察することができた。

室内は多くの気配で満たされ、各々が話し始めている為、雑音は大きい。

「祖父のこと、詳しいんですね。私、良く知らないんです。祖父母や母ともじっくりと話をする機会がなかったんで」

「そういう話は、なかなかね…機会が無いわよね。照れくさいしねぇ」

 御婆さんは、笑顔で答えた。

「あら、新條さん御久し振りだわね」

 脇から嗄れた声を掛けられた。声を発した人を見ると、通夜の席で高級な着物を着てたお婆さん。徹夫伯父さんには、登米おばあさんと呼ばれていた方だ。

「冷泉さん」

 冷泉とは、ここから三キロ離れた地区名だ。そこに住んでいるということだろう。名字を言わないということは、同じ桜条で、遠縁にあたるのだろうか。

「新條さん。この歳まで生きると、葬儀にばかり参加して、気が滅入りますな」

「そうですね~。知り合いも少なくなりました」

「私らも、もうすぐお迎えが来ますから、準備をしないといけませんわ。お互いに気に掛けなきゃならん事が余計にあるから、なかなか死ぬにも死ねませんわな」

「そうですね~」

 上品な老婦人は苦笑いをするように答えると、登米お婆さんが、品の無い笑みを浮かべた。

 この会話は、財産が多くあると整理が大変で死去出来ないと言っているようなものだ。

 昨日といい、今といい、この御老体には育ちの良さが感じられない。自己の富を顕示するような装飾品と言動。まるで成金だ。育ちが悪く、知性が欠け、想像力が乏しい為、他人からどう見られているか想像できない。もしくは他人の目など、どうでも良いのかも知れない。百歩譲って、私の見方が偏見に満ちていたとしても、小市民の自分が嫌悪感を覚えるなら他者の見方も大差ないと思う。

 席を立とうとした時、夫が隣に座った。

 それが年寄り数人の目に止まったらしく、夫が話しかけられた。見たことない若い顔があったから、丁度良い時間潰しだと考えたのだろう。名前、職業、故人との関係など細かく聞かれている。

 私は気を揉むことは夫に任せることにした。

 両親の姿を見かけると、話をした老女の情報を聞こうと思い席を立った。

相手の事が判らないというのは思いのほか神経が擦り減る。年寄りの相手をしている夫にそれとなく伝えた。

「母さん。ちょっといい?」

「どうしたの?」

「新條さんと冷泉さんと言われているお婆さんについて教えて。あと、父さん。茂樹の処へ行って貰っていい?色々な人に話しかけられているから」

 父親は頷き、夫の処へ向かってくれた。

 私たちは焼却炉から離れた隅に場所を移し、人の行き来がない所で口を開いた。

「で、二人の事なんだけど」

「そうねぇ、私もそれほど詳しく知らないけど、新條さんっていうのは、お祖母ちゃんの従妹だったと思う。おばさんの実家は、山奥の山師だったんだけどね」

「山師?」

 山師という言葉から、詐欺師や博打打ちなどのいい加減な人間が浮かんだ。それを察したのか、母は説明を付け加えた。

「昔は、鉱脈の発見や鑑定をしたりしていた人を山師って言ってたのよ。そこから、町へ嫁いだんだけど、嫁ぎ先の財産といえば荒れ地ばかりだったらしくてね。それこそ最初は苦労したらしいけど、町が栄えてきて荒れ地にアパートを建てたら、大きな会社から棟ごと借りてもらえたりして、かなりの財を蓄えたと聞いているわ。お祖母さんとも仲が良くて、よく一緒に病院に通っているわ」

 そう言った所で、母親が噴き出しそうに笑った。

「どうしたの?」

「いえね、今年の夏に、お祖母ちゃんと新條さんたち三人で駅で待ち合わせして病院へ行ったんだって」

「うん」

「その日が猛暑でね、気温が三十五度。それなのに、駅から日本赤十字病院まで歩いて行ったそうよ」

 私は瞬間戸惑った。駅から日赤まで短く見積もっても二キロ以上ある。平坦な道であれば健康の為に良いかも知れない。だが、道は起伏が激しく交通量も多い。八十を過ぎた高齢者が歩くには、なかなか厳しい道である。さらに、気温が三十五度と云うことは、照り返しを考慮すれば体感温度は四十度以上だろうに。

「タクシー………」

そう言いかけて口を閉じたが、母は笑みを浮かべて否定した。

「お祖母さんが、そんな贅沢する訳ないじゃない」

「それが判ったから、途中で止めたんじゃない。それにしても、バスでも利用すれば良かったのに。どう考えても無茶でしょ。二百円程度のバス代をケチって、入院する事にでもなったら本末転倒じゃない」

「古い人間は、無茶するのよ。今ほど甘くなかったし、便利な社会でもなかったからね」

 追憶に浸る様に母は言ったが、生活様式の進歩とは別次元の話だと思うのだが。とにもかくにも、年寄りというのは、事態が悪化しないと動かない。予防という意識はあるのだろうけど、初期治療という面では途端に疎かになる人が多くなる。その結果、重病化してしまう。父方の祖母が風邪をこじらせ肺炎になり亡くなった。体調を崩すと、寝ていれば治ると言い張り続けていたからだ。年寄りと云うのは、かくも我慢強いものなのかと思い知らされた。

 母が頬に手を当て、感想を口にした。

「それにしても、これくらいやらないと財産って残らないものなのかもねぇ」

「財産って………、お祖母ちゃんも新條のお婆さんも不労所得があるんでしょ?」

「あるってもんじゃないわよ。三人とも家賃収入が月に二百万くらいあるんじゃないかしら」

 その情報を聞いて呆れてしまった。月に二百万入っても、二百円をケチるのかと。

「それで、冷泉さんは?」

「遠縁なのかしらね?同じ桜条って姓だけど知らないわ。どういう血縁関係なのかわからないねぇ」

「母さんが知らないってことは、それほど関係もなかったんじゃないの?」

「行き来は無かったと思うから、仕事関係じゃないかしら」

「八十過ぎて?」

「あそこは息子が大勢いるらしいし、うちと同じく土地持ちだからね。どこかで交流はあったんでしょ。詳しい事はお祖母さんに聞いてみなさい」

「あの服装見れば、お金があるのは判るけど。土地なんだ~」

「そうよ、冷泉桜条家は消防署の前の土地や、西の商業地なんかに多く持っているのよ」

「また、すごく栄えて開けた所ばかりじゃない」

 住宅地や会社オフィスが並ぶ景色が脳裏に浮かんだ。

「昔は、どこも田舎で、辺鄙なところだったんだけど。六十年以上も経つと、田んぼにもならない二束三文の土地が、驚くほどの価値になるんだから人生って解からないわよ。今は信用も得ているから、さらに大金が入ってるわよ。逆に信用を失うと、ここらでは生きていけないわよ」

「そうよね」

 頷くと、ある出来事を思い出した。知人の医師のことなのだが、開業して医院を経営。地域住民の信頼も得て、数年で大きくなった。しかし、父親が患者のカルテを勝手に見て、したり顔で口外する。さらに、余命は何年だとまで言い出す始末になった。それだけでは、潰れるまでには発展しなかったのだろうが、地元選出の議員の悪評まで言い出してしまった。その議員が選挙戦が強くなかった為に逆鱗に触れたのだ。

 結果、議員から各役所へと圧力を掛けられて、町医者ごときと云わんばかりに潰された。

「望。お母さん、そろそろお祖母さんの所に行くから」

 そう言い、急ぎ足で立ち去った。

 残された私も、二、三度深呼吸をして、旦那の所へ向かおうと歩き出した。

薄い藁半紙を張ったような午前の天気だったが、窓から強い光が射していた。



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