プロローグ
廊下に男の人影が一つあった。彼は不安そうな顔をしつつ不審な動きをしながら一歩一歩、まるで猫のように足を忍ばせ歩んでいた。
蝉の鳴き声が耳障りな夏のある日。太陽が私たちを溶かさんとばかりに日照っているのとは別に、挙動不審な動きをする彼からは、何か体の中の見えない異物を取り除こうとせんばかりの大量の水滴が、毛穴という毛穴から吹き出ていた。
長くも短くもない廊下の角を曲がった場所にあるトイレの前で彼は立ち止った。生きているはずもないトイレからは何とも言えない威圧感を感じる。扉の前でたたずむ彼の額から吹き出ている汗が、鯉も登れないであろう勢いで流れ落ちてきた。彼は覚悟を決めたような顔つきで生唾を飲み、鉛のように重く感じる腕をあげドアノブに手をかけた――。
〇
彼は名前を枝森豆男といった。
生まれる時に神様が肝心な作業を忘れてしまったかのような、ひょうきんな顔をしていて、彼を見たものはひょっとこを思い出さずにはいられなかった。そのような顔立ち故に異性の友達は愚か同性の友達を作ることすらままならなかった。
生まれてこの方十六年、豆男は自分が他人よりもこの世に生まれてきた時点で劣っている部分を忘れない日はなかった。自分は何故このような容姿なのか、何か悪いことでもしたのだろうか。見に覚えのない豆男は成長するに伴って親を呪い、神様を呪い、自分を映す他人の目を呪い、つまるところこの世のあらゆるものを呪って生きてきた。険悪なことばかりがいつも頭の中心にあったから、幼少期より彼の性根は十分に腐らされており、最早修復は不可能なところまでやってきていた。
しかし豆男はそれを自覚していた。
自分は確かに人よりも多少見た目が愉快で、見慣れてもらうのに暫く時間がかかるが、ここまで自分の性格を屈折させる活動に拍車をかけてきたのは他でもない自分自身であると。
そして豆男は変わりたいとも思っていた。
毎日毎日下を向いて歩き、目に付くもの全てに唾を吐き続けるのは正直なところ豆男にとって重労働であった。バラ色の人生に一気に方向転換するのは難しくても、悪態をつき続けることさえやめればそれなりに慎ましく平和な生活が送れるのではないかと思った。
しかし変わりたいと思ってもなかなかそう上手くはいかない。これまで自分が培ってきた立場やキャラクターというものがあるし、ある日突然イメージチェンジをしてクラスメイトにからかわれることは目に見えていた。それではどうしたら良いだろうか。当時中学三年生で受験を控えていた豆男は勉強でパンク寸前の頭で考えた。そして思いついたのである。知り合いが一人もいない高校に進学して自分という人間を一からやり直せばいいのだと。
しかし、卑屈になり腐りに腐っていた性格と共に豆男の頭脳は今更勉学に励んだところでどうにもならないところまで腐っていた。それでも豆男はなんとか自分を変えるため、いや、変えるためというよりはこれからの自分を偽るために死に物狂いで勉学にいそしんだ。その甲斐があってか、はたまた神様の情けか、なんとか地元ではそこそこに有名な私立の進学校に入学することが出来た。合格通知がきたとき彼は膝から崩れ落ち、この世の者とは思えない表情で泣いていたというのだから、それほどの執念だったことがうかがえる。
そうして迎えた入学式。ひょうきんな顔だちをもの珍しそうに見てくる者たちを横目に自分の教室まで歩いている彼の歩調は実に軽やかであった。まるで今まで足枷をしていたのではないかというくらい軽快に、半ばステップでも踏んでいるかのようだった。そんな調子で彼は今までとは全く違った、いわばエデンの園に足を踏み入れたつもりなのであった。
薔薇色の高校生活が送れると信じてやまない豆男を迎えていたのは、想像以上に過酷な勉強量であった。平日は七限授業、休日は朝から夕方まで補習と、私立でなければ許されないであろうカリキュラムが組まれていた。いくら入学できたからといっても豆男の学力から考えて、それは一種の奇跡のようなものであって決して実力とは天地がひっくり返っても言えるものではない。故に、この鬼のようなカリキュラムに豆男がついていけるわけもなく、すぐに取り残されてしまい、それでも尚できない割に食らいついてはいたものの、化けの皮が剥がれるまでそう時間を要さなかった。
クラスの中で落ちこぼれの部類に属してしまった豆男は、周りからは容姿とは別に白い目で見られる理由が増え、元のように卑屈になりこの世の自分以外をすべて妬むようになっていた。
全てを妬むと言っても、中には例外もあった。豆男には高校に入学してまもなく一人の友達ができた。彼は名前を大山小太郎と言った。まさに名が体を表すような男で、使い道のないでかい図体を持っているくせに呆れるばかりの小心者であった。顔合わせの自己紹介で彼を見た豆男は、小太郎の緊張からくる縮こまり具合を見て内心笑ったほどである。
教室で席が近かった二人は必然と会話をする機会が多くあった。次第に仲良くなっていき、お互いがお互いに勉学の面でクラスから置いてけぼりであると知るとより一層結びつきは強まった。放課後には二人寄り添って会話をすることが常であり、気の置けない仲になった頃には話題の中心は常にアダルト系女優のことかグラビアアイドルのことかクラスのアイドル系女子のことになっていた。二人が助兵衛であったことも距離が縮まる一因であったのである。
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