序幕〜鬼神と魔王〜其ノ弐
……時はやや進む。
天正十年 京洛 本能寺
その夜空の、月を侵す不気味な暗雲の如き雰囲気に、織田上総介信長はふと目を覚ました。
意味も解らず、動悸が早くなる。
理由は解らねど、長き年、数多の戦いで培ってきた、「勘」でそれが自らに対する危険という事だけが確認出来た。
信長は、上掛けを除けて、上体を起こし立ち上がろうとする、―――と、目の前の障子の向う側より、「申し上げます」と声をかけられる。
「蘭丸か、何だ?」
信長の返事を聞き、小姓、森蘭丸がやや高い声質で言う。
「寺が敵兵と思しき連中に包囲されております」
「敵…?」
「はい、旗差物から察するに、明智十兵衛光秀様の軍勢かと……」
「何・・・光秀だと!?」
「はい、羽柴筑前守秀吉様の備中高松攻めの援軍の兵、凡そ一万に寺は完全に包囲されています」
「ぬぅ・・・こちらの戦力は如何ほどだ?」
「総勢で二十人足らずかと存じ上げます・・・」
蘭丸の言葉に絶句し、悩む信長の耳に突如として本能寺の堀の外から声が聞こえた。
「信長公、信長公は何処におわすか」
「っ!・・・上様、あの声は・・・」
寺中にその声は響き、声を聞きつけ軍勢の姿を見つけた小姓達が続々と、信長の寝室に集まってくる。
「・・・光秀め、何を企んでおる・・・ふん」
信長はその声と同時に立ち上がり、寝間着のまま境内に出、堀の外に叫ぶ。
「これは一体なんのつもりだ、光秀!!!」
信長の放った言霊は大気を揺るがし、それまで聞こえていた兵士達の喧噪や、鎧の音、馬の嘶き、総てが無音になった。
本能寺の外、轟く信長の声を聞き、光秀は同じく叫び返す。
「第六天魔王を討伐に参った」
「何・・・?第六天魔王?その様な称号は、儂は承った覚えはないがな。貴様や、秀吉が勝手に語り、尊き人民を畏怖の力で押さえつけているのであろうが!!」
「知らぬ。我は、信長公の意志の侭にしたにすぎず。天下布武の名の下に、『畏怖』と云う、大いなる武・・・力を使ったのみ」
「儂は一度たりとも、民衆を脅かせとは云った事は無い!よいか、どれだけ力で押さえつけても、心を縛る事は出来ぬ。人はそこまで弱くわないのだ!!」
その言葉に、光秀は押し黙る。
「・・・今ならまだ間に合う、軍を返せ光秀。そして、至急に中国へと行きサルを助けろ」
蘭丸や小姓達は、何か言い足そうな顔をするも、信長はただ黙り、光秀からの返答を待つ。
「・・・その様な事は、人間を相手に云うのだな。我には同じ族にしか情は持たぬ」
「?・・・何だと?」
光秀の意味の解らない返答に信長は疑問の言葉をぶつける。
「・・・人は人らしく、分を弁えろ。・・・皆聞けい・・・・・・敵は本能寺にあり、全軍突撃!第六天魔王織田上総介信長の首級を獲るのだ!!」
・・・疑問の答えは返ってこず、代わりに一方的な光秀の宣戦布告のみが帰ってきた。
そして、直後より響く軍勢の鬨の声と、本能寺の門を叩く破城槌の音が響いてきた。
「クソ、皆こうなれば仕方がない、死力を尽くして戦うのみだ!!」
信長の叫びと同時に小姓達も喚声を上げ部屋を出て行き、信長本人は部屋の隅に立てかけてある弓を取った。